猫目の月





 人を探しているんです。   とても大切な人なんです。

 誰か行方を知りませんか。   ずっと探しているんです。





 胸に痛いものを見てしまったなとカミューは目を伏せた。
 主殿についてクスクスの街まで訪れた時、デュナン湖に面する船着場で女性が独り、人探しをしていた。
 しかし彼女は誰かの袖を捕まえて探し人の特徴を伝えるわけでは無い。ただ「人を探しているんです」と虚空に向かって語りかけているだけだった。
 戦渦を逃れて歩く内にはぐれたと訴える。掛け替えの無い人なのだと切々と。
 彼女の目は、もうこの世のどこも見ていないような気がした。

 帰ろうか。

 主殿が言った。





「どうした」

 戻ってから丸一日。様子がおかしいと、男は直ぐに気付いたようだったがそれでも随分と様子を見ていたようで。夜になって漸く堪え切れずにそう問い掛けてきた。よほど心配をかけていたらしいのだが、素直に白状する気にはなれなかった。
「何でも無いよ」
 儀礼的に笑って答えると、すかさずこつんと小突かれた。
「馬鹿者」
「ひどいなぁ」
 小突かれた頭を押さえて見上げると、頬に暖かな手が触れた。
「どうした」
 もう一度聞かれて、笑っていたはずの顔が少し泣きそうに歪んでしまった。それでも眉が少し動いただけのはずだったが、しっかり気付かれた。
「なんでも…ない」
 ばつが悪くて頬に触れる手から逃れるように身を後ろに引こうとするのに、もう一方の手も添えられて両手で挟み込まれて動けなくなった。
「カミュー」
 顔が迫ってぎゅっと目を閉じた。すると乾いていた唇が暖かいものに塞がれた。
「マイクロトフ……」
 涙がこぼれた気がしたが、気のせいだった。



 ふわりと抱き締められて、慰めるように何度もくちづけを贈られる。それはマイクロトフにしてはひどく慎重な触れ方だった。どうかしたらしい自分を慮っているのだろうかと、そのくちづけに酔いながらカミューは思った。
 確かに今日の自分はどうかしている。
 口数は少ないし。
 何よりマイクロトフでもあるまいし、女性に対して引きがちだった。
 道具屋で、ヒルダが応対をしてくれた時、いつもと違った応じ方をしてしまった。それがその時一緒にいたマイクロトフの関心を呼んだらしい。常ならこんな些細な変化には気付きもしないくせに―――。
 いつの間にか服の前を開かれてあらわになった胸にもくちづけが落とされる。カミューは揺れ動く黒い頭髪に指を絡ませて息を吐いた。
 室内は暗い。
 灯りは落とされていて外から射し込む月明かりだけが頼りだ。今夜は、半月だから満月の時ほど明るくもなく、こうして人と抱き合うにはちょうど良い眩しさなのかもしれない。
 マイクロトフはゆっくりと、まるで蕾の花弁を一枚一枚そっと開いていくように触れてくる。それが、とても心地良く感じるのだから今夜のカミューは本当にどうにかしているのだろう。
 簡単に感情の波が来る。際まで揺れて、泣きそうなほどに打ちのめされる。
 でも涙は一粒もこぼれてはいないのだけれど。
「カミュー…?」
 どうしたと、また問うような眼差しでマイクロトフがカミューを見詰める。宵闇に浮かぶ眼球の白がそれ自体が光っているようで美しかった。
 カミューはなんでもないと首を振ってそんなマイクロトフの頭を抱き寄せた。



 受け入れる熱が常よりも高温のような気がするのは、おそらく自身が冷えているからだろう。
 身体中、どこもかしこもマイクロトフの熱に浮かされて喜びに咽び泣いているのに、今日のカミューはどこかが冷えて固まっている。それはきっと胸の奥にある何かなのだろう。
 こびりついて離れない、女の声が―――。


 人を探しているんです。   とても大切な人なんです。

 誰か行方を知りませんか。   ずっと探しているんです。


 思い出したく無いと、聞きたくなかったと耳を塞いでも声はカミューの記憶の中で何度も何度も繰り返し訴える。差し詰め他の言葉を忘れてしまったオウムのように。
「……いや、だ…」
 声が洩れた。
 途端に今の状況を思い出してカミューは泣いた。
 どうして。
「カミュー?」
 大切な。
 カミューにとって何よりも大切な人の声だ。
 その人の温もりに包まれて、愛されているというのに、何を泣く事があるのだろう。
 だがあまりにも痛ましかったから。
 そしてあまりにも恐ろしかったから。
 いつかの未来の日の己があの姿と重なって見えた。
 そんなことは無いだろうと否定する理性とは裏腹に、感情が先立ってカミューの想いを掻き乱す。
 いやだ。
「失って、から……気付きたく、など……な…い」
 切なく洩れた言葉にマイクロトフが眉根を寄せる。
「カミュー?」
 だから、もっと。
「マイクロトフ……愛しているよ…」
 薄い涙の膜ごしに、マイクロトフの精悍な顔が映る。
 困惑に彩られていたそれが、カミューの滅多に無い愛の言葉で徐々に穏かな笑みへと変わる。それをたまらない幸福な気持ちで見詰めてカミューは薄く微笑んだ。
 後悔などしたくない。
 ならばいつも素直に心情を告げればいいものを、普段のカミューはそれが出来ない。
 熱に浮かされた今ならばこそ。
 昼ではなく、半月の乏しい光りに映し出されるこの宵闇の中でこそ。
「あぁカミュー。俺もだ」
 何よりも愛しい人の声がそれを囁き、そしてくちづけを贈られる。カミューは幸福に酔いしれながらそれを甘受した。それから、まだ足りぬとばかりにその背に腕を回して強く身を寄せた。
 途端に体内の熱が一層高温へと変わった気がした。
 何度も受け入れたその熱は、輪郭すらも身に覚えこんでいる。どうすれば善がるか、身体が知っている。カミューは熱を引き絞って男を煽った。
 そんな自らの行いに切ない吐息が唇から洩れる。だがそうして煽られた結果か、そんな吐息さえ吸い取るような激しいくちづけがカミューを襲った。
 呼吸を奪われ、四肢を絡みとられ、何もかもを奪い去るような激しい求めに、理性が薄れて行く。そして感情すらももつれ合っていたものがたった一つの意識に纏め上げられて行く。
 だが最後の瞬間、薄く開いた瞳が窓の外に浮かぶ半月を見とめた途端に、まるで嘲笑うかのように、カミューの脳裏にその声が響いた。



 とても大切な人なんです。



 カミューはただひたすらマイクロトフの名を呼びながら、最後には気を失うように果てた。
 だが身体の解放感とは別に胸に染み込み、わだかまる苦味が憂鬱を誘う。体内に注ぎ込まれた精がこんな時に微妙な感覚を教える。
 何も残さない証。だが紛れも無い愛情の発露。刹那の興奮と、悦びをもたらす。これがあれば安心出来る。幸せだと思う。
 だがいつかこの幸福が途切れる日が来るのだろうか。
 そんな事をカミューは遠ざかる意識で考え、そして目を閉じた。
 途端にそんな気もなかったのに、ひと筋、涙がこぼれた。





 とても、大切な存在。

 失ったときの事など、考えもできない。

 でも、もしも失ってしまったならきっと………。





「カミュー?」

 優しく慰撫するような声音を聞きながらカミューの意識は落ちて行く。



 大切な、人なんです。



 月が嘲笑った気がした。



end



2002/08/08