弱 点


 最近、同盟軍のある一部で密かにやり取りされる噂話がある。

 曰く、マチルダ騎士団の元赤騎士団長のカミューには弱点があるらしい。

 そんな噂が流行ってしまった原因は実はビクトールである。元赤騎士団長がその噂を耳にした時点でかの傭兵は遠くグレッグミンスターまで逃げて……いや遠征していた。
 酒場での酔った弾みとはいえ元赤騎士団長の親友と噂に高い元青騎士団長がぽろっとこぼしかけた言葉が噂の元になっている。そもそもの元になっている会話がなんであるのか知っているのはその酒場で同じテーブルに居合わせたビクトールとフリックだけである。ただひとり城内にいて真実を知っているフリックは何がなんでも白状しないと心に決め貝のように口を閉ざしている。
 シーナなどが聞き出そうとしてもフリックは絶対に口を割らなかった。
 だが、当事者として唯一真相を知る元青騎士団長のマイクロトフはどうであろう。彼は連日、全身に冷や汗を掻き通しだった。
 直情の思い込んだら突撃あるのみ、と言うのがマイクロトフの人柄である。誘導尋問の巧みな連中にかかればひとたまりもない。しかし彼は常に脳裏にカミューの凄絶な笑みを思い浮かべては必死に舌を強張らせていた。
 そうカミューは怒っているのだ。
 無論、噂を撒き散らすだけ撒き散らして逃げているビクトールに対しても、人の弱点などを無頓着にも漏らしたマイクロトフに対しても。
 空前絶後の勢いで怒り狂っている。
 尤も、どれほど怒っていようとカミューの表情から笑みが消える事はなく、その物腰口調に粗暴が混じることもない。ただ、目が笑っていないだけで。
 しかしその怒りもまたいたしかたないとも言える。
 何しろ、その弱点と言うのが―――

 元赤騎士団長のベッドの中での弱いところなのだから。





 麗らかな日差しの昼下がり。
 カミューは自室にてティータイムを楽しんでいた。
 常ならばレストランのテラスで、気に入りの場所に座ってお茶の香りを楽しむところだが、ここ数日の妙な噂のせいで落ち着いて飲めないからである。
 にやり、とカミューは笑った。
「人の噂も…75日……」
 彼の忍耐力は凄まじいものだった。
 実際、ただ弱点があるらしいという不確かな噂しか蔓延していないのが救いとも言えよう。これが酒場で傭兵たちが耳にした通りの内容が噂として広まっていたとしたら漏洩した熊も半殺しでは済ませないところだ。
 そんな弱点の存在などが知れ渡ろうものなら―――。
「ふ……ふふふ……」
 カミューの持つティーカップがカタカタと揺れ、中の紅茶が跳ねた。
 と言っても、その弱点がなんであるのかは流石のビクトールとフリックも知らない。マイクロトフが言葉にする寸前、カミューが拳でその口を閉ざしたからだ。あの時は危なかったと、不意に思い出してカミューは吐息をついた。
 酒場での傭兵たちとマイクロトフの会話を、途中で聞きつけて慌てて止めた形になったわけだが、実際にどんな経緯でそんな話の内容になったかは、後でマイクロトフに白状させた。そこでカミューはそのあまりの馬鹿馬鹿しさに呆れると同時に奇妙な居心地の悪さを覚えたのだった。
 事もあろうにマイクロトフは、ビクトールに聞かれるまま素直にカミューとの最初の夜の事を語ろうとしていた。
 冗談はよしてくれと言いたい。
 最初だろうが二回目だろうが最近のだろうが、そんなものを他人に知られて嬉しいわけがない。てゆーか嫌だ。
 だが呆れたのはそんな事ではない。肝心のところは寸前で防いだのであまり気にしていないのだが、実はそのマイクロトフが語ったカミューの弱点についてである。あの男は、酒場でビクトールに聞かれるまで、カミューのそんな弱点のことなどすっかり忘れていたのである。
 いや、忘れていたと言えば語弊があるだろう。
 ―――気付いていなかったのである。
 ビクトールに指摘されるまで。
 カミューの弱い所に。

 それでも恋人か。

 今まで気付いていなかったのかと言う事実にただ呆れる。
 確かに自分はそこが弱い。あらためて思うのもおかしな話で、公言すらしたくない事だ。それをあの馬鹿は――― 一番最初にそこを責めてきたのは誰だ。
 途端にあの日、あの忘れ難いマイクロトフと過ごした最初の夜のことを思い出してカミューは顔を赤らめた。
 別に思い出を大切にしているわけではなく、あまりにも衝撃的な出来事だったから忘れられないだけなのだが、しかし覚えているなどと言ったらマイクロトフなどは感激してしまいそうだからあまり掘り返さない事にしていた。
 しかし。
「気付いていなかったとは……」
 襲い来る脱力感にへこたれそうになるカミューであった。





「気付いていなかったなどと、そんな事が信じられますか?」
「オレに聞くなよ…頼むから」
 何故かカミューはフリックの部屋に居座っていた。
 単にひとりで室内に篭もっている不健康さが嫌になって、唯一事情を知るフリックのもとに転がり込んでいるのだった。
 フリックは細い吐息を漏らし、ちらりと上目遣いにカミューを見やった。
「どうでも良いからさ…いい加減許してやれよ。見ていて本当に可哀相だぞ?」
「……何の事ですか?」
 にっこりと首を傾げるカミューにフリックも力なく笑った。
「マイクロトフだよ」
「ああ、マイクロトフね。で?」
「で…ってさ。ほら…夜とか兵舎の大部屋に行く背中は見てられないぞ。同室で締め出しは、なぁ、きついんじゃないか?」
「そうですか?」
 にっこり。
 カミューの隙のない微笑みに、フリックはそれ以上のマイクロトフの弁護を諦めた。
 そんなフリックを見てカミューはふと笑みを引っ込めた。そもそも、周囲がどれほどマイクロトフの弁護に走ろうがカミューは後暫くは彼を部屋から閉め出す事にしていた。怒りからだけではない、自衛の意味もある。

 つまりマイクロトフはカミューの弱点を思い出した―――いや、気付いたのである。
 何しろ当のカミューに聞いてきたのだ。自分の記憶に間違いはないのかと。それはつまりビクトールが示唆したように弱い所なのかと。
 無論、否応を返す前に部屋から叩き出したがそんなカミューの態度に、機微に疎いマイクロトフといえど何かを察したようである。もし、そのまま同じ室内で変わらず起居を共にしようものならば、さっそく雪崩れ込んで弱点が弱点として変わりないのか証明をしたがったに違いないのだ。
「きついのはこちらだ…」
 ぼそりと呟いてカミューは板床の木目を見詰めた。
「何か言ったか?」
 そんなカミューをフリックは「どうした?」と気にかけてくれる。突然部屋に押しかけられ、聞きたくもないだろう話を聞かされているのに、相変わらずの人の良さである。いや、これも不運のうちだろうか。
「いえ、なにも」
 即座に首を振ってカミューは微笑む。
「それよりもフリック殿、ビクトール殿はいつお戻りになるか、本当にご存知ないのですか」
「知らん。俺は何も知らん」
「なんですか、頑なですね」
 頑固に首を振り続けるフリックに、ま、構いませんけどねとカミューはぽつりと漏らして明後日の方向を向いた。
 どちらにせよいつの日にか必ずこの城へ戻って来るのだから、その日を待てば良いだけの話だ。元赤騎士団長は忍耐力もさる事ながら、気も大変に長かった。そうしてカミューが浮かべた穏やかな笑みを見て、フリックはただひたすら薄ら寒さを感じていたのだった。





 しかし、カミューの怒りが冷めるまで、つまりほとぼりが冷めるまでビクトールに戻って来るつもりがないのは明らかであった。熊のように見えてもあれで傭兵部隊の連中には人望もあり、軍の重要な席を占めている。いなければいないで困るのだ。

「と、言うわけなんで、ここはひとつ僕の顔に免じて許してあげて下さい」
 盟主であり剣の主でもある少年に、突然廊下で呼び止められ、その場でそんな事を言われてカミューは一瞬ぽかんとした。
「え?」
「ビクトールさんです。いつまでもグレッグミンスターに置いておくわけにもいかないんで、そろそろ呼び戻したいんですけど、本人カミューさんが絶対に何かしてくるから嫌だって言うんですよ」
「あぁ……その件ですか」
 漸く少年の言うところが分かってカミューは微笑んだ。
「ですがビクトール殿も大人なのですからご自分の不始末の責任くらいつけて頂かないと」
「うーん、それもそうなんだけど……折角戻ってきても使い物にならなかったら困るでしょ」
 にっこり。
 二人の浮かべた笑顔に、偶然その場に居合せた兵士はぴくりとも動けずに固まった。
「それもいたしかたなし、とお考え下さい」
「なら長い目で見ると、さっさと呼び戻してけりつけちゃった方が良いのかな。でもなぁ…医務室のお薬だって包帯だってタダじゃないし」
「ご心配なく、被害は最小限に食い止めます。勿論、経費負担も軽く済ませますよう心掛けますから」
「あ、本当ですか。なら、適当に言いくるめて戻ってきてもらおうっと」
 にっこり。
 その場にいた兵士は、この会話は聞かなかったことにしようと自己暗示を始めた。
 そして少年はカミューに手を振り、そこから立ち去ろうとした。だが、ふと振り返って笑う。
「そう言えば最近マイクロトフさんが一晩中道場にいて孤独に鍛錬してるって報告を受けたんですけど、いつ寝てるんですか」
「……空き時間でしょう」
「そう? なら良いんだけど、マイクロトフさんも使い物にならなくなったら本当に困るから。こないだやっと復帰したばかりでしょ。カミューさんが気にかけて下さいね」
「はい……」
 暗に、つい先日怒ったカミューが、烈火の紋章で数日間マイクロトフを使い物にならなくした事を責められて、仕方なく頷いた。
「それじゃ〜」
 今度こそ去って行く少年を見送ってからカミューも歩き出し、そろそろ潮時か、とひとりごちた。





 そしてカミューはマイクロトフを探して、結局道場までやってきていた。
 夕飯前のこの時刻、道場にはまだまだ人が大勢いて、それぞれが身体を鍛えたり技を磨いたりしている。マイクロトフもまた一角において部下の騎士達に剣の指導をしていた。
 黒い瞳がカミューの姿をみとめた途端、かちりとその全身が固まった。そんな態度につい苦笑が漏れてしまうという事は、もうそれほど怒りもないと言うわけなのだが、男は固まったまま恐々と見つめてくるばかりだ。
「失礼な奴だな」
 呟いてカミューはマイクロトフに歩み寄った。
「何もしはしないさ。わたしがお前に何かするとでも?」
 したじゃないか、とそこにいた騎士たちが胸中で声なく突っ込んだ。目蓋を閉じればあの日立った火柱の、目に痛い赤が今も鮮明だ。
「…カミュー」
 喘いだような声でマイクロトフがカミューを呼んだ。
 見ればマイクロトフの顔色は随分と冴えない。恐らく、満足に寝ていないのだろうと一見して知れる顔色だ。それに、焦げてちょっと不揃いになっている毛先がまた哀れを誘う様相だ。
「マイクロトフ…」
 流石にカミューも少しだけ心に痛みを覚えて顔を曇らせた。だが、突然腕を掴まれてハッと驚き顔を上げる、するとそこには切羽詰ったようなマイクロトフの顔があった。
「カミュー。俺が悪かった」
「…あ、うん」
 ぎこちなく頷く。
「頼むから締め出しはもう勘弁してくれないか」
 マイクロトフの口調は必死である。
「お前の傍にいられないのは本当に辛い。まだまだ反省したりないかもしれんが、償いは他の方法を取らせてくれ」
 どうやら締め出しが相当に懲りたらしい。しかし他の方法、という言葉に引っかかるものを感じた。
「他…って」
 ぽつり、と呟き返すと今度はがしっともう一方の腕も掴まれた。
「忘れて、と言うより気付いていなかったのは本当に悪かった。俺は……そういうのは本当に鈍くて失格かもしれんが、次からは大丈夫だ!」
 何が大丈夫なんだ、何が!
 かろうじて核心をつくような言葉は外しているが、突然に飛んだ話の内容にカミューは青くなる。
「ま……マイクロトフ…っ」
 ここで、こんな道場で人の大勢いる中でする話か!
 諌めたいが、さりとて大声で注意する事すら憚られる。だがマイクロトフは構わず続けた。
「いくらでも償う。償わせてくれカミュー!」
 だから償うって……まさか……。
 危機感がカミューを襲った。
 まさに杞憂していたことが現実になるつつある事に眩暈を覚える。
「今からでも良い!」
 良くない…。
「カミュー!」
 がくがくと掴まれた両腕を揺さぶられてカミューは気が遠くなりそうだった。このマイクロトフの勢いでは、もう止められないらしいと、これまでの経験が教えるのだ。
「……許してくれ」
 脈絡もなく訴えるカミューだった。
 しかしその言葉はマイクロトフに「許すから」に聞こえたかどうかは分からない。
「カミュー…!」
 突然抱き寄せられて力いっぱい抱き締められて息が止まりそうになる。だが呼吸を求めて喘ぐ前に身体ごと引っ張られて道場から連れ出された。
 行き付く先は――――――本人たちだけが知っている。

 道場内に取り残された面々は、呆然とそんな成り行きを見守っていたが、赤い顔をした元青騎士団長によって、青い顔をして連れ去られて行った元赤騎士団長に憐憫にも似た感情を抱いたのだった。
 そして全くもって今更の認識ではあるが、誰もがそれを確認した。
 元赤騎士団長カミューの弱点。
 それすなわち、元青騎士団長マイクロトフである、と。
 その認識は大概にして間違ってはいない。



 余談ではあるが、後日適当に言いくるめられて帰城したビクトールが、カミューの盛大なやつあたりによって数日間ホウアン医師の世話になったという。


おしまい



久々に突き抜けたノリになってしまいました
かなりの説明不足な文章構成であるのは致し方無いと言えましょう
あ、赤さんの弱点書き忘れた…
どこって……距離感、というSSでそれらしきところを書いてたような?…(苦笑)
ともあれ初夜関連話というリクエストにそっているでしょうか〜

2001/12/05