大 樹 の 芽


 その日は朝からマチルダ騎士団元赤騎士団長は様子がおかしかった。始終何かを考えているようで、話し掛けても一応そつなく返事を返すが、何処か上の空だった。
「おい」
 流石に対一での指示を与えている最中に呆けた顔をされると具合が悪い。それでなくても歯に衣着せぬ性質のシュウである。剣呑を隠さぬ声音で呼び掛けた。
「指示を聞く気が無いのなら、何もせず部屋に篭っていても構わんのだぞ」
 つまり謹慎を受ける気があるのかと聞いているようなものである。いくらぼんやりとしていても、そんな言葉を聞き逃すようなカミューではなかった。
「ご冗談を」
 軽く流してにこりと微笑んだ。
「ちゃんと聞いています。どうぞ指示の続きを」
「いや、今回はここで止めておく。別段急ぐ案件でもないしな」
「おやそれは残念ですね」
「ふん……」
 肩を竦めたカミューに、軍師は鼻で笑うと机上の書類を纏め寄せた。
「何を気にかけているのか知らんが、一応聞いておこう。私事か公事か、どっちだ」
「私事、ですね。多分」
「たぶん? はっきりしろ」
 眉を顰めた軍師に、元騎士団長は「それが」と苦笑を浮かべた。
「覚えていないもので」
「ああ?」
「今朝見た夢の内容を、ですね。思い出せないのが気がかりなのですよ」
「馬鹿か貴様は」
 直球の言葉にカミューは笑みを深めた。
「お言葉ですね。確かに、まぁ我ながら馬鹿馬鹿しいとは思っていますが、気になるものを放っては置けないでしょう」
「俺なら放っておくがな」
 ぼそりと呟かれた返事に、カミューは目を見開いた。
「え? あなたでも眠って夢をご覧になるのですか」
 即時の意趣返しにシュウは顔を顰めた。
「嫌味な奴め―――大体貴様は初めて間近で顔を合わせた時から気に食わん」
「あぁ、国境付近でお会いした時ですか」
「正直、赤青両騎士団の半数と言う土産が無ければ仲間入りを拒否したかったくらいには気に食わん」
「おやおや、つれないですねぇ」
 益々鮮やかな笑みを浮かべるカミューに、シュウは手を振った。
「もう、良い。出て行け」
「承知致しました」
 にっこり笑って一礼すると踵を返す。その背に。
「原因は貴様の笑顔だ。作り笑いは見るものが見ればその奥に隠しているものを見抜くぞ」
 そんな軍師の低い声がかかった。
 カミューは扉の手前で、ゆるりと立ち止まった。そして降り返ると、「あぁ」と吐息にも似た言葉を吐いて、緩く微笑んだ。
「この同盟軍は慧眼の持ち主が多くてやりにくいですね。ロックアックスなら、一人を誤魔化すだけで十分でしたのに」
 そんな言葉を残してカミューは扉の取っ手に手をかけた。
「それでは失礼致します」
 向こうを向いた時には平素の声音で。カミューは何事も無かったかのように扉の向こうへと姿を消した。そうして沈黙の訪れた室内で、軍師は苦々しく呟いたのだった。
「やはり気に食わん」

 一方、軍師の部屋を後にしたカミューは、複雑な気分で廊下を歩いていた。実はさっきのシュウの言葉で夢の内容を思い出してしまったのだ。
 夢には、マイクロトフが出てきていた。
 今よりもずっと未成熟な顔立ちで、それはつまり過去の記憶が見せた夢だったというわけだ。
 夢の中、マイクロトフは哀しそうな顔をして「カミュー」と名を呼んできていた。
 ―――カミュー。
 少年と青年の狭間にある身が発する、妙にかすれた声だった。
 ―――俺は、間違っているかな。
 思い出した言葉に、カミューは知らず苦笑していた。あの頃も、今と変わらない真面目な口調で必死に問うてきていたのだ。
「…間違ってなどいないよ」
 記憶の中のマイクロトフにそう呟いて、そしてカミューは何処か嬉しそうに笑った。





『無理に笑わなくても良いんだぞ?』
 それが、マイクロトフがカミューに初めてかけた声だった。
 確かあれは騎士見習い同士、祭りの夜に寄り集まって色々と話題を交わしている時だった。少し離れた場所から、強い視線を感じるなと思っていたところで、何か気に食わない所作でもしてしまったろうかと記憶を巡らせていたら、不意に視線の主が歩み寄ってきたのだ。
 そして、突然そんなことを言われたのだ。
 呆気にとられていると、マイクロトフはハッとし慌てて『いや、余計な事だよな…』と付け足して去って行った。実に強烈な第一声といえる。生半可に忘れられるような事ではない。
 それからカミューとマイクロトフの付き合いが始まったのである。
 色々と間近にあって言葉を交わしてみれば、マイクロトフと言う奴は結構面白かった。真面目な言動をする癖に、柔軟な考え方を持っていて、何処か砕けた性格のカミューにとって、傍に居て居心地の良い相手だった。
 マイクロトフの方も、他のどんな騎士見習いの連中よりもカミューと一緒に居る機会を選んできた。気付けば共に行動する事が多かった。これが、まぁ自然と出来あがる友情の始まりであろう。
 だが、そんな付き合いが一年も続こうかと言う頃、そんな友情にひびが入りかけた事があったのだ。

「あぁ…懐かしい」
 夢をきっかけに、怒涛の如く思い出された過去の記憶に、カミューは滅多打ちにされていた。それこそ一日中それにとらわれて執務が滞るほどで、日が暮れて自室へ戻った時も、思考を占める記憶の数々にのたうっていた。
 だから。
「カミュー?」
 記憶の舞台に一番多く登場していた男が、現在の姿で現れた時は可笑しくてならなかった。たまらず吹き出して呼びかける声が震えた。
「マ、マイクロトフ…」
 椅子にもたれて笑いながら、おいでおいでと手招いて、不審げな表情を浮かべる男を呼び寄せた。素直に寄ってきた男の腕を掴むと、笑いながら立ち上がる。
「いやいや、これは参ったな」
「何がだ」
「昔のおまえがあんまり健気で可愛いから、参って困る」
「……カミュー?」
 熱でもあるのか、と額が額に触れた。
「熱など無いよ。ただ本当に参ってしまっているだけさ」
 くすくす笑って、焦点が合わないほど間近に迫った男の瞳を見詰めてその黒髪を撫でた。
「今朝見た夢があんまり可愛くてね。覚えているか? マイクロトフ。我々が初めて喧嘩した日の事」
「……騎士見習い一年目の頃の事だろうか?」
「そうそう。初めて言葉を交わして一年目の日さ」
「あぁ、マチルダの祝日だから良く覚えている」
「うんバーンズ・ナイトだったかな? 折角の羊料理がまったく食べられなくて、今でも後悔している」
「カミュー…」
「言うな、分かっているから。でもね」
 目を瞑れば、鮮明に蘇る羊料理の晩餐。歌い踊るロックアックスの人々の姿は何年か過ごすうちに馴染み深いものとなったけれど。やはりあの年に食い逃した料理の数々は忘れ難い。
「騎士団に入団して初めて体験した祭りがバーンズ・ナイトだった。その日におまえに話し掛けられ、そして一年を過ごした。だから二度目の祭りの夜をわたしがどれほど待ち望んでいたか」
「う……だが…」
 カミューの恨みがましい口調に、マイクロトフは言葉に詰まる。だがそんな男の髪をくしゃくしゃと撫でると、カミューは耐え切れないように再び笑い出した。
「本当に可愛いなぁマイクロトフ」
「カミュー!」
 むっとしてマイクロトフはカミューの身を押し剥がした。
「お、男に可愛いはないだろう」
「ははは、すまない。でも昔のおまえと重なって仕方が無いんだ。おまえときたらまるで変わらない」
「カミューも、あまり変わっていないと思うが」
「基本はね」
「いや、全て」
 かぶりを振ってマイクロトフはいったん離した手を再びカミューに寄せた。そして肩やこめかみに触れる。
「髪の色や目の色は当然。発する空気がまるで変わらない。カミューはいつまで経ってもカミューのままだ」
「…それは、誉めているのか?」
「無論」
「いつまでも子供じみている、などと言いたい訳ではないんだな?」
「…………」
「おい」
「カミューは昔から大人びているから」
「前言撤回だ。随分と誤魔化しが上手くなったじゃないか、マイクロトフ」
「それは、まぁおまえとの付き合いが長いからな」
「どう言う意味だ、全く」
 穏やかに微笑んで髪を撫でてくる男の手を叩いて、カミューは機嫌良く笑った。
「まぁいい。取り敢えず、今夜も飲むか? マイクロトフ」
「あぁ」
 頷く男からそろりと身を離して、カミューはキャビネットを見やった。
「確か酒はマチルダのものがあった筈だ。肴は―――昔話でどうだ?」
「良かろう」
 応じた声を合図にカミューはトンと男の身体を椅子へと押しやった。
「座っていろ」
 そして酒とグラスを用意し始めた。

「さて、何を思い出す?」
 問われてマイクロトフはグラスを片手に「ふむ」と首を捻った。
「やはりさっきカミューが言った、バーンズ・ナイトの夜か」
「一度目……いや二度目か」
「あぁ、喧嘩の夜だ」
「では、わたしたちの記念すべき一年目のあの夜に」
 そう言ってグラスを掲げるカミューに合わせ、マイクロトフもグラスを持ち上げた。だがそこで少し悪戯心が首をもたげたらしい。
「カミューが泣いた日に」
 ついそんな余計な事を付け加えてしまっていた。案の定、目前から不穏な気配が漂ってくる。
「……おい」
「事実だが?」
 にやりと笑って言ってやると、カミューがぼそりと呟いた。
「昔は可愛かったのになぁ……」
 そしてカミューはすらりと伸びた指を開くと、目の前で指折り数え始めた。
「怒った顔が可愛かった。笑った顔が可愛かった。一生懸命走る姿が可愛かった。わたしが誉めると照れくさそうにするのが、そりゃもう可愛かった。それから……」
「―――俺が悪かったカミュー」
 あまりの居心地の悪さに即座に謝るがカミューはそれだけでは許してはくれなかった。
「泣いたわたしをオロオロしながら慰める仕草がなんともまぁ未熟でぎこちなくて可愛かったな。自分で泣かせたくせに、泣くなと怒鳴られて」
「怒鳴ってなど!」
「へぇ?」
 くるりと流し目をくれるカミューに、とうとうマイクロトフはがくりと項垂れ降参の意を示した。
「俺が悪かったから、だからカミューもうやめてくれ。これ以上は酒が苦くなる」
 すると、くすくすと密かな笑い声が耳に届いた。顔を上げると愉快そうに細められた瞳と目が合う。
「それはいけないな。折角の旨い酒が勿体無い」
 そうして、いかにもしてやったりな笑顔を浮かべて見せる。だが、そんな表情は常の青年にしてはとても感情的で、人間らしい。周囲の人間と相対する時に浮かべる作り笑いとは全く違うのだ。たとえ意地悪い笑みでも、そんな笑顔は見ていて安心を誘う。
 昔なら見られなかった笑顔だ。
 最初にこんな風に感情も露わな笑みを見たのは、やはりあの夜。散々泣いてからあと、照れくさそうに笑ったのだ。その笑顔が、今もまだ忘れ難い。


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



 最初に彼を見た時、拭い去れない違和感を覚えた。暫く観察を続けるうちに、違和感の原因が彼の笑顔にある事に気付いた。
 だから、祭りの晩餐にも関わらず、少年が虚ろな作り笑いを浮かべているのを見ていると、どうして誰も気付かないんだと苛立ちすら覚えた。
 穏やかに会話を交わしている。
 だけど良く見ていれば分かる。あの笑顔は偽ものだ。偽ものなのに―――綺麗だったから、余計に見ていて切なかったし哀しかった。
 どうしてそんな笑顔を無理に浮かべているんだろうか。
 辛いだけなのに。どうして。
 どうして。
 しんどいだろう。だから。
『無理に笑わなくても良いんだぞ?』
 気が付いたら目の前まで歩み寄っていて、そんな事を言っていた。名前も知らない相手に。突然だ。
 琥珀の瞳がみるみる大きくなり、呆然と口が薄く開くのを見てマイクロトフは我に返った。途端にさっと血が引き、冷や汗が吹き出す。
 ―――俺はいったい何を言ってるんだ。
 だが同時に目の前で鮮やかに変化した相手の表情にも心を奪われた。決して偽ものではない本物の表情。それを見とめた刹那、わきあがった安堵が胸中を支配した。
 そして、こんな顔も出来るんだと思いホッと息をついた。しかし、途端に最前の狼狽が再び蘇り、慌てて言葉を繋げた。
『いや、余計な事だよな…』
 それきり相手の顔を見ずに背を向けてそこから退散した。
 横目に、テーブルに並べられた羊料理が見えたが、立ち止まって手を伸ばす余裕などまるでなかった。

 マチルダ出身の詩人で、ロバート・バーンズという男がいる。
 彼はマチルダの朴訥な日常風景を美しい韻律の詩に表現し、その愛国心溢れる創作活動から、生前も死後もマチルダの人々に愛されている。
 そんな彼の生誕を記念して、マチルダの、特に彼の出身地であるロックアックスでは毎年新年明けて25日目の夜に、バーンズが詩でも良くうたった羊料理を食べて祝うのである。
 これは騎士団でも恒例の祝祭の日であり、見習い騎士などにとっては良い交流の機会なのだ。だから、大抵の者が祝いの会場に姿を現す。マイクロトフとカミューの出会いはそんな夜のことだったのである。
 そしてその翌日、カミューがマイクロトフに話し掛けてきたのだ。
『探した。君が、マイクロトフだろ?』
 悪戯に光る瞳が魅惑的で、ごくりと喉を鳴らして頷いたマイクロトフだった。
『あの時横にいた奴に聞いたら直ぐ名前を教えてくれた。知らなかったんだけど、随分と有名人なんだな』
 そんなカミューの言葉は、実はあまり耳に入っていなかった。
 ―――探した、と言ったか?
 今、確かに目の前の口唇はそう言った。
 何故だ。理由はなんなのだろう。もしや怒らせたか。しかしカミューは優しく微笑んでこう繋げたのだ。
『君に興味がわいた。今日の昼は一緒に食べないか?』


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



 そして、時間を合わせて一緒に食事しながらあれこれと埒も無い事を聞きまくったんだ、とカミューはぼんやりと思い出していた。確かメニューは、と更に思いを馳せようとした時マイクロトフが軽い声で言った。
「あの時はカミューが俺の倍ほども食べるから、食べ過ぎで腹を壊すんじゃないかと内心慌てていたんだがな」
「成長期の食べ盛りだ。おまけに連日の訓練だろう? 食べても食べても足りなかったよ」
 答えて、微笑んだ口唇にワイングラスの縁をあてるとマイクロトフを上目遣いに見やった。そしてふと記憶の先端に点滅する名を滑らせた。
「だいたい…ノエル様とザガ様は厳しすぎた……」
 見習い騎士だった頃、二人が従事していた二つの騎士の名は、マイクロトフにとっても充分に印象深いものに違いなく、「あぁ」と嘆息するような声を漏らすと、苦笑するように顔を歪めた。何よりも親交を深めた一年目の夜に喧嘩した、その原因に少なからず関わりのある名である。思い出さない方がおかしい。
「あのお二人は……そうだな。厳しかったが、しかし素晴らしい騎士だった」
「うん…―――」
 そして目を瞑れば、再び記憶は鮮明な情景を瞼の裏に展開させてくれるのだった。


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



 絶対に負けたくなかった。
 ただの意地なのかも知れなかった。
 立派な体躯に、身軽さで打ち勝ちたかった。

 それは、二人が初めて言葉を交わしてそろそろ一年も経とうかという頃だった。

 人気のまるで無い訓練場。石壁と踏み固められた土床に、二つの荒い呼吸と忙しない足捌きの音が、またそれに被さるような剣戟の音が単調に響いていた。そしてそれを聞き見守る二組の瞳。
 そこから発せられる二つの強い視線を感じながら、カミューは目の前に立ちはだかる大きな相手にユーライアを繰り出していた。
 何故正騎士相手に従騎士のカミューが真剣で試合をする羽目になったのか良く分からない。気付けば相手をさせられていたとしか思えず、そんな現状をいまいましく感じながらも、だからと言って負ける気などさらさら無いので本気で切り掛かっていた。しかし流石は正騎士である。カミューの全力の一撃を簡単にかわされてしまう。
 長く打ち合えば打ち合うほどに実力の差を思い知らされ、同時に負けん気が育っていく。
 負けるものか、と喉が痛くなるほど大きく息を吸い込んで歯を食いしばった。



『おやおや、相変わらず見かけを裏切る気の強さだねぇ』
 ずっと黙って見守っていた瞳の、淡い翠のそれがすうっと細められ、そんな事を言った。それに反応して見上げたのは深い濃紺の瞳。
『カミューのことですか?』
『ああ、カミューのことだね』
 どこか愉快そうな声音だが、翠の瞳は二つの動く影から離れる事は無かった。つられて、濃紺の瞳もそちらに視線を戻した。
 広い訓練場の中央にある、試合のための空間。
 そこを素早く行き交う二つの影は、大きな体躯の青騎士と、まだ未成熟な身体の従騎士のものだった。青騎士の名はザガ。マイクロトフが仕えている騎士だった。
 そしてそのマイクロトフの隣にいるのは、そのザガと戦っているカミューが仕えている赤騎士ノエル。ザガとは親友の関係にある。どこか神経質そうな風貌をしているが、カミュー曰く『あんな大雑把でいい加減で突拍子な人は初めてだ』という人物らしい。
 なるほど、さっきからマイクロトフが手に汗握る思いでザガとカミューの対戦を観ているのに対して、ノエルはいかにも気楽な調子で時折笑い声さえ漏らしている。そもそもこの不釣合いな試合を仕組んだのが、このノエルである。親友と自分に仕えている従騎士を真剣で戦わせようと思いつく辺り、変わり者と囁かれても無理は無い。
『いやぁ、大した物だねカミューも。うん』
 そんな事を呟いている。と、ふとその声が低くなった。相変わらず笑い含みではあるものの。
『はは、ザガがてこずっているね』
 ところがノエルは顎に指をかけ目を眇めると『だが』と付け足した。
『あれでは勝てない。いずれ息切れしてくるよ。ザガの持久力は底無しだからなぁ』
 指差して笑う。
 そんな赤騎士に、マイクロトフは失礼だとは思いながらもむっと眉を寄せた。
『カミューは、俺たち同期の中でも一番の腕です』
『知ってるよ。でもねぇ、それはあくまで技術だけの問題だろ? まーだまだ。足りない足りない』
 ひらひらと振られる白い手袋の掌が、無性に憎らしかった。つい、睨み付けていたのだろう。ノエルがおや、という顔をした。
『君は真面目だなぁ。…うーん、ザガと気が合うんだろうねぇ』
 あいつもバカみたいに真面目だからなぁ、と言う。そして白い手袋の指先が不意に伸びてマイクロトフの眉間を突いた。
『今から眉間に皺作ってたら、将来レディに怯えられるぞ? ザガを見ろザガを。反面教師にちょうど良い』
 眉間に不意打ちを食らってマイクロトフはやや後ろに下がってしまい、慌てて手でそこを押さえた。
『ノ、ノエル様…!』
 だが赤騎士は、そんな子供地味たちょっかいなどまるで意に介したふうもなく、再びザガとカミューの戦いを楽しそうに見ている。
『あー、もうザガもいい加減あのくそ真面目な剣はなんとかならないかな』
 ぼやくような言葉も楽しげに呟いている。そんな赤騎士にどう接すれば良いのか把握し切れず、マイクロトフは戸惑うように視線をさ迷わせ、結局最前のように黙ってザガとカミューを見守る事に徹する事にした。
 よく、カミューは毎日こんな御仁と一緒に居られるなと、声無き声を吐息に混ぜて―――だが、その時ノエルが『あ』と高い声を出した。ハッとして顔を上げると今まさにカミューの手からユーライアが弾き飛ばされたところだった。
 カミューは両手を強張らせて顔を痛みに顰めている。その目の前ではザガが自分の剣を腰の鞘に収めていた。そして真横からは両手を叩く渇いた音が響く。
『はい終了〜〜』
 暢気な声でノエルが前に進み出て、手前に落ちたカミューのユーライアを拾い上げた。そして白い刀身に目を走らせ、片眉を跳ね上げる。
『あ、馬鹿ザガ。おまえ力一杯打ち込みやがって折角の剣が傷んでるじゃないか。修理代出せ修理代』
 手のひらをザガに突き出しながら一方の手でユーライアをカミューに渡し、その手でカミューの頭をぽんぽんと撫でるように叩く。
『カミュー。ザガ相手に良く粘ったが……分かるだろう? おまえはやっぱり体力が足りない。んでザガはやっぱり正攻法すぎる。おまえなぁ、従騎士相手にいいように翻弄されてんじゃないよ』
『偉そうに何様だおまえは』
 独特な掠れ気味の低音が初めて訓練場に響いた。
『だいたい試合の前に何を耳打ちしていた。大方俺の右を攻めろとでも言ったんだろうが、おかげで余計悪化したぞ、貴様こそ慰謝料を払え』
 右肩を軽く揉みながらザガは腕を回す。その肩は先日ザガが落馬した時に強か打ち付けた個所である。落馬の原因は馬が突然現れた人影に驚いたからであり、その人影は実はノエルだったのだが、しかし彼はそれを笑い飛ばした。
『なーんだまだ治っていなかったのかぁ。おまえの事だから超人的な回復力でとっくに治ってると思ってた』
 快活に笑いながらノエルは『なぁマイクロトフ』と同意を求めて振り返る。マイクロトフが返答に詰まっているとザガが『答えんでいい』と眉間に皺を寄せ吐息交じりで言った。
 あまりに暢気な会話であるが、それが不意に遮られた。
 それまでずっと黙っていたカミューが『ノエル様』と低い声を挟んだのである。
『先に失礼しても宜しいでしょうか』
 一転、笑みを引っ込めたノエルはその淡い翠の瞳を、ひたりとカミューへ据えた。そしてほんの僅か逡巡するように首を傾げてから、あっさりと頷いた。
『良いよ』
 にやりと笑って手を振る。
『今日はもう帰って休みなさい。ご苦労だったね』
『はい…』
 カミューは短く答えると、ユーライアを片手にのろのろと訓練場を後にした。その、元気の無い様子に不審を覚えたマイクロトフだったが、ザガの許し無くては後を追えない。惑うように視線を巡らせると、ノエルの意地悪い笑みが目に入った。
『追いかけたいのか?』
『あ、は……いや、えっと』
『追いかけても良いんだけどなぁ。でもあの子にも考える時間は必要だしなぁ…どうしてやろう』
 そしてくつくつと喉を鳴らして笑う。しかし、そんなノエルの背後からにょきっとザガの手が伸び、ノエルの頭を掴むとぐいっとばかりにそれを引いた。
『うわっ』
『行って良いぞマイクロトフ』
『おいザガ!』
『おまえは底意地が悪すぎる。これ以上あの子をいじめてどうしたいんだ?』
『ザガには関係無いね。余計な口出しするな』
『関係無くは無い。人をだしにあの子をわざわざ落ち込ませたのはおまえだろうが』
『あぁもう、うるさい奴を選んじゃったなぁ。っていつまで人の頭掴んでるんだ、離せ馬鹿―――痛い痛い痛い!』
 どうやらノエルの頭を掴むザガの指に力がこめられたらしい。自分の頭を掴む友人の手を追い払おうとノエルが両手をあげて暴れた。が、ザガはそれを難なく押さえ込み、沈痛を隠し切れない面持ちでマイクロトフを見た。
『行け…』
『は、はい』
 ノエルは相変わらず暴れている。本当に行っても良いのか悩んだマイクロトフだったが、カミューの事が気掛かりだったので、結局『失礼します』と頭を下げると駆け出すように訓練場を飛び出したのだった。


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



 そこまでのマイクロトフの思い出話に、カミューは大爆笑で応えた。
「た…確かにノエル様はよくザガ様を静かに怒らせていたよなぁ」
 目尻に涙まで溜めて笑っている。
 そんなカミューの姿を見ながら、ぼんやりとマイクロトフは思った。
 ノエルが居なければ、カミューは今こうして笑っていられたろうか。そんな考えをぽつりと漏らすと、カミューは笑みを引っ込め「そうだな」と頷いた。
「沢山虐められたからね。お陰で強くなれたよ」
 そして、あの時も、と言葉を続けた。
「親切にもザガ様まで引っ張り出されて、思い切り虐められた」
「根に持っているか?」
 そんなわけは無かろうと、分かってはいたがつい聞いていた。するとやはりカミューは穏やかに笑って首を左右に振る。
「まさか……。あの方は、奥の深い方だよ。多少趣味に走るきらいはあったが、なす事に無意味な事はひとつも無かった」
 空いたグラスにボトルを傾けながら、カミューは嬉しそうに呟く。
「奇特な方だよ。思うにあの突飛な言動は、ひとつのスタイルだったんだろうな。時々、別人かと思うほど厳粛な態度をなさる事があったから」
 そして満たしたグラスを持ち上げて、困ったような顔をして笑った。
「そんな時はザガ様の方は何も仰らずに黙ってノエル様を見守っておられるんだ。全く妙なお二人だよ」
「団が違うのに不思議な程良く一緒におられただろう。あの二人を見ていたから、俺はカミューと団が違っても付き合いを続けるのに、周囲が何を言おうと平気だったんだ」
「そうか」
「あぁ」
 頷いてマイクロトフは、またも記憶を手繰りよせ、想い出を蘇らせ始めた。


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



 従騎士となって正騎士につく時、望む団を決定しなければならない。騎士団の色によって、つく正騎士が分かれるからである。その時にマイクロトフは青騎士団を望み、カミューは赤騎士団を望んだ。
 本来なら、望む団が分かれれば交友も分かたれるものである。しかしマイクロトフはカミューとの交友を断とうとは微塵も思わなかった。マイクロトフにしてみれば、団が違う、ただそれだけの事でカミューと離れるのはあまりに割に合わなさ過ぎた。一年にも満たない時間の中で、それだけカミューとはマイクロトフにとって失い難い存在になっていたのである。
 剣の腕も学力も同期の中では常に先頭で、機知に富んだ受け答えと驚くばかりの知識と、意外なばかりの人間性。
 いつもいつもそんなひとつ年かさのカミューに、からかわれて笑われてばかりいたマイクロトフだったが、他の誰よりもカミューと居ると心が落ち着いた。共に青騎士団を望んだ他の友人には、何か弱みでも握られているのか、と揶揄された事もあったほどマイクロトフは暇を見つけてはカミューの傍にいた。

 すると、そんな態度のせいかどうか、二人が従事する事となった正騎士は、団が違うにも関わらず騎士の間ではその友情関係が有名なノエルとザガだったのである。
 従騎士になって、てっきり会える時間が減るだろうと思っていたところが、却って二人の正騎士の為にその時間はかつてよりも増えたかも知れなかった。
 だから、ある日突然ザガが訓練場に行くと言い出し、行った先にノエルとカミューが居り、どう言う経緯からかザガとカミューが真剣で戦い始めた時も、さして不思議には思わなかった。
 しかし二人の戦いを見ているうちに、カミューの様子がおかしいことに気付いた。
 同期の者と手合わせする時にカミューから感じるいつもの余裕がまるで無いのだ。隙の無い流れるような剣技がカミューの特徴だったのが、野蛮とさえ見える形振り構わぬ剣に、何度も息を呑み、一体どうしてしまったのだろうと不安を覚えた。だが、試合はザガの勝利に終わり、カミューは何も言わぬまま去ってしまった。
 少し遅れたものの、慌てて追い掛けるとカミューの背中を見つける事が出来た。
『カミュー!』
 大声で呼び止めるとカミューは虚ろな目で振り返った。
 その、まるで無表情な顔に一瞬言葉を失ってしまったが、マイクロトフは唾を飲みこむと再び『カミュー』とその名を呼び掛けた。
『どうかしたのか? 具合でも悪くしてるのか?』
『別に』
 応えて、前を向くと再びゆっくりと歩き出した。その腕を無意識に掴んで引き止める。
『…痛い』
 鈍い声が耳に届いて反射的に手を離すと、カミューは振り返り掴んでいた腕を擦りながら睨み付けてきた。
『馬鹿力』
『ごめん』
『腕が折れるかと思ったよ。本当に…馬鹿力だ』
 続けてぼそぼそと何か言ったようだったが、よく聞き取れなかった。
『え?』
 聞き返すと『何でも無い』と返された。
『カミュー?』
『本当に何でも無いから……ごめんマイクロトフ、疲れてるんだ』
 口早にカミューはそれだけ言うとまるで逃げるようにマイクロトフに背を向けた。
『…カミュー……』
 去って行く後姿が、廊下を曲がって見えなくなるまでマイクロトフは目を離せなかった。それを最後に一ヶ月あまり会話も出来ないと知っていれば、何が何でも引き止めたのにと、後々マイクロトフは何度も悔いたのだった。


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



 ボトルから最後の一滴をグラスに落して、マイクロトフは眉を寄せた。
「最後のワイン、おまえが飲むか?」
「いや、良いよ。マイクロトフが飲んでくれて構わない。あの時、随分と冷たい態度を取ってしまった詫びだ。おまえは純粋に心配をしてくれていたのにね」
 囁いて薄く微笑むと、カミューは僅かにワインの残った自分のグラスを脇へと寄せてテーブルに肘をつき凭れ掛かった。
「マイクロトフは何も悪くなかった。ただ身勝手な妬みだけで辛くあたったんだ」
「だが俺は…鈍感だったから、さぞおまえを苛立たせたんだろうな」
「全く、おまえは呆れるくらい鈍い奴だったよ」
 俯いて苦笑を漏らすカミューのこめかみに、マイクロトフは手を伸ばした。甲にさらりと髪が触れる。
「今は少しくらいましになったろうか」
「その口の中のワインをくれるなら、合格点をあげるよ」
「喜んで」
 マイクロトフが笑って腰を浮かせると、カミューも華やかな笑みを浮かべた。


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



 何故マイクロトフを避けるのか、その理由は自分でも嫌になるくらい知っていた。カミューは成長期特有の身体の軋む痛みに顔を顰め、剣だこの出来た掌をじっと見詰めた。
 最後に見たマイクロトフの掌は、もっと武骨張っていて大きかった。自分のそれとはまるで違う。何年後かにはあの掌に見合った立派な体躯を持つだろう親友。ザガのように両手剣を難無く振り回す屈強な騎士になるのだろう。
 それが、何故だか悔しくてならなかった。
 いや分かっている。マイクロトフほども大きくはない掌や、マイクロトフよりも劣る体力が雄弁に物語っているのだ。どちらかと言えば、そう。カミューはノエルのような俊敏さを得意とする剣の使い手になるのだろう。分かっているのだ。それはもう決定事であり、変えられない事実なのだ。
 だが、悔しいのだ。
 出会った頃は自分よりも小さく、まだあどけなさの残る少年だったマイクロトフが、一年の年の差すら飛び越えて、今や自分に並ぶほど成長している。追い抜かされ負かされるのもそう遠くないだろう。
 この前ザガと戦った時、ノエルはそれをカミューに事実として知らしめたかったのだと思う。その思惑にまんまとはまったカミューであるが、ショックは思いの外大き過ぎた。
 あれ以来一ヶ月もマイクロトフと言葉すら交わしていなかった。



 カミューと一ヶ月も会ってない。
 避けられているんだろうなと、ぼんやりだがそれくらいは分かった。あの日腕を掴んでしまってからの事だ。徹底的に避けられているから、嫌われてしまったのかと落ち込んでいた。
 それは日常に支障をきたすくらいの落ち込みようで、ザガが見かねてこんな命令を出したほどだったらしい。
『ノエルに届け物をしてきてくれ』
『はい!』
 ノエルに会いに行く事は、結果カミューと会える機会が出来たという事だ。ザガから一枚の書類を受け取って、はやる思いを抑え切れずに駆け出した。しかし行った先にカミューはおらず、ノエルが『あ、ごめん』と呟いただけだった。
『たった今使いに出したばかりなんだ。おまえも間が悪い奴だなぁ。ま、そこに座んなさい』
 マイクロトフから書類を受け取りながら、ノエルは近くの椅子を指差した。
『ですが』
 戸惑うマイクロトフだったが、ノエルはにやりと笑うと立ち上がった。
『平気平気、ザガだって分かってるからおまえを寄越したんだろ。心配要らないから』
『はい…?』
『ま、手っ取り早く言うとカミューの事なんだけどね。どうやら虐めすぎちゃったみたいで』
『は?』
 虐めすぎた?
『ノエル様、それはどう言う……』
『もうなんか許容量超えちゃったみたいで爆発間近って感じ。悪いんだけどマイクロトフ。おまえ何とかしてくれないか?』
『え?』
『じゃ、頼んだから。今頃は厩舎に居ると思うんだ。馬相手に愚痴ってるかもよ』



 頑張れよ、と送り出されて何を頑張るんだと首を傾げつつも、マイクロトフは言われた通り厩舎へと向かった。すると、通り過ぎた窓越しにカミューの声が漏れ聞こえてきた。
『くそ……馬鹿か俺は…何して……もう…』
 どうやら馬の毛繕いをしながらぶつぶつと言っているらしかった。
 駆け足で厩舎に飛び込むと、油断していたのだろう。あからさまにびくっとカミューの背中が強張った。
『マ、イクロトフ…』
 だがその強張りも最初のことだけで、直ぐにカミューは常の笑みを振り向いた顔に浮かべた。
『どうか、したのか? あぁ、ノエル様が何か言ったかい?』
 あの笑みだと思ったら、カッと頭に血が上った。
『カミュー!』
 怒鳴って駆け寄るとその肩を掴んで間近で睨み付けていた。
『俺は、そんなに頼りにならないか』
『おい…』
『ずっと一緒にいたのに、どうしてまたそんな笑顔を見せるんだよ』
『何の事だ?』
 最初に知ったカミューの作り笑いが、目に染みて胸に痛い。
『カミュー、頼むから本当の顔を見せてくれ』
『マイクロトフ痛い…』
 肩を掴むマイクロトフの手に、そっとカミューの手が重ねられた。
『痛いよ……』
 俯いたカミューの身体が、酷く小さく見えたのはその時が初めてだった。
 もうそろそろ出会って一年目になる。マイクロトフは漸く、カミューと体格に差が開きはじめていることに気付いたのだった。


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



「で、翌日がバーンズ・ナイトだ。出会ってまさに一年目だよ」
 ベッドで背後から抱え込まれるように抱き締められた体勢で、カミューは後ろのマイクロトフを見上げた。
「やっぱりあの夜の羊料理は惜しい事をしたな」
「まだ言うか……結局最後のワインを全部飲んだくせに」
「おまえがくれたんだろう。全部、喜んで」
「………」
 あの時よりも明確な体格差。しかしその力関係は不変のまま。
 カミューは背中に広い胸の鼓動を感じて、うっとりと目を閉じた。


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



 目を開けると、いやがおうでもそこにマイクロトフの姿が見えた。濃紺の瞳はやや暗めの蝋の明かりによって今は漆黒に見える。それが、痛いほど自分を見詰めているのを感じた。
 しょうがないなと、諦念の吐息をつけばまるでそれが合図だったかのようにマイクロトフが動いた。前日は厩舎で黙り込んでしまったカミューに、マイクロトフはどうにも言葉が出せなかったらしくて、おかげでなし崩しのまま別れられた。だが今日は多分、逃げられない。
『カミュー、話がある』
『うん…』
 視界の端に祭りの為に灯された多くの蝋の輝きが映り、耳には遠くで謡う人々の声が聞こえていた。

 場所を人気のない訓練場に変えて、直ぐマイクロトフはカミューに向き直った。そして。
『俺を、避けているよな』
 確認するような、恐る恐る問いかけられた言葉に、カミューはゆっくりと頷いた。
『ザガ様と打ち合ってから、だよな』
 やはり頷く。すると、マイクロトフは『やっぱりそうなんだな』と呟いた。その気落ちしたような低い声が、カミューを息苦しくさせる。避け続けていたのは、逃げたかったからだ。ノエルに無理矢理に突き付けられた現実からただ逃げたかったからで、本当はそれを受け入れなければならなかったのだ。
 だが、わだかまりは簡単には溶け消えてはくれない。カミューは唇を噛んで俯いた。そこへ、マイクロトフの低く掠れた声が届いた。
『俺は鈍いから、なんでカミューが態度を変えたのか分からない。でも何もないのにお前が俺を避けるわけが無いよな……俺がなにかしたのなら謝るから』
 突然苛立ちがカミューを襲った。
 駄目だ、我慢できない。
『何故お前はいつもそうなんだ!』
『カミュー?』
『お前は何も悪くない! 悪いのは俺だ! 俺が勝手に……』
 興奮は訪れた時と同じく唐突に去った。カミューは言いかけた口を閉じてさっと俯いた。
『いや、いい……どうせ言っても意味が無い』
 自嘲して呟いた所でいきなり強い力で肩を掴まれた。
『…痛っ』
 痛みに顰めた顔を上げると、マイクロトフが睨みあげるようにしていた。
『俺は悪くない? だったらどうしてそんな顔をして笑う!!』
 低い怒鳴り声はもう子供っぽさの欠片も無く、それが胸を押すように響いてカミューはわけの分からない切なさに息を詰まらせた。しかし変わらずマイクロトフは怒鳴りつづけた。
『俺を避けた癖に嘘の笑顔で誤魔化そうとする!! 作り物の笑顔なんかで俺をかわせると思うなよ。この一年どれだけお前を見てきたと思う。いい加減俺という存在に気付け! 頼れ!!』
『ど……』
 カミューは震えた。
 寒さにではなく、怯えに身体を震わせた。
『…怒鳴るなよ……耳、痛い……』
 耳がマイクロトフの怒声を浴びて痛かった。その上、まるで厳寒の極地に放り出されたような気分だった。薄皮一枚隔てた周囲は痛いくらいに冷たく感じるのに、喉も目頭も指先までも、全身の至る所が熱く痺れる。
『…何言ってるのか…わか、分からな…い。作り物ってなんだよ……そんなの知らない……知らない…』
 呼吸が何故だか乱れる。ひく、と短く息を吸い込むと鼻の奥がつんとした。と、不意に肩を掴んでいたマイクロトフの手がパッと離れた。
『…カミュー…』
 驚いた声は動揺を含んでいる。
 それも当然かもしれない。何しろカミュー自身信じられないのだが、泣いてしまっているのだ。
 みっともないくらいにボロボロと涙が溢れて止まらない。身体中の感覚が麻痺して、どうすれば良いのか本当に分からなかった。カミューはただただ泣くしな出来ない壊れた人形のようになってしまった。
『な…泣くな!!』
『怒鳴るな……って……』
『う、あ…』
 弱り切ったマイクロトフの声が聞こえる。だがカミューは混乱の極地にあって涙混じりに次から次へと溢れ出ようとする想いを吐き出していた。
『どうしろって…言うんだよ……俺を置いていくくせに………一人で大きくなるくせに…』
『カミュー?』
『今だって精一杯だ……これ以上置いてかれたら………追いつけない』
 そうなのだ。
 カミューは今気付いた。一緒に並んで走りたいのに、マイクロトフばかり先へ先へと進んでしまうのだ。いつか自分は引き離され取り残される。だがそんな未来は認めたくない。そんな意地や矜持を捨て切れなくて、だから逃げたのだ。
 カミューは歯を食い縛って呻いた。涙が止まらない。
 だが、濡れた頬へといきなり乾いた布が宛がわれ、カミューは瞬いた。見上げればマイクロトフが困惑し切った顔で自分のハンカチを差し出している。
『カミュー、おまえこそ、何を言ってるんだ? 俺はお前を置いて何処かへ行ったりなんかしないぞ? いつだって俺の先を歩いているのはお前の方じゃないか』
『俺の方……?』
『そうだ。何気ない涼しい顔をしていつも成績も剣も一番じゃないか。そしていつも俺を導いてくれる。俺はだからそんなお前に何一つ返せないのが歯痒くて……たまには俺もカミューのために何かしてやりたいんだ。何か迷いがあるのなら相談くらい何時だって乗ってやれるのに』
 お前は俺を避けるし……一年前みたいな笑顔をするし。
 マイクロトフはぼそぼそとそんな事を言った。
 一年前の笑顔と今の笑顔とどう違うのか分からない。でも、何となくマイクロトフの言わんとしている事がわかった気がする。
『水くさいと……言うのか?』
 そっと尋ねてみた。すると即座に頷きが返る。
『あぁそうだ。カミューは水くさい。一年も一緒に過ごしたのにちょっと何かがあれば俺を他人みたいに弾こうとした』
『………』
 そうなのかもしれない。
 そう、一年も一緒にいたのだ。一年も―――。
 ただ知り合っただけではない、そこから友情を共に育み互いに気の置けない関係を作り上げた一年だった。他の誰とも違う、マイクロトフだけがカミューにとっての親友だった。自然と親友になった唯一人。
 他にそんな人間はいない。だからちょっと間違っていたのかもしれない。初めてだから。こんな親友が出来たのはマイクロトフが生まれて初めてだったから。
『ごめん』
 素直に謝罪の言葉が出た。
『今回はわたしが悪かったよ……。一人で、大騒ぎしていた―――マイクロトフが直ぐ傍にいたのにね。本当に悪かった。次からは遠慮なく頼らせてもらうから』
 だから。
 カミューは涙を拭いた。
 随分と気持ちが落ち着いてきた。それは差し出されたハンカチと一緒に、再び肩へと置かれたマイクロトフの掌の温もりの所為かもしれない。大きな掌は、優しくじんわりとカミューの薄い肩を包み込んでいた。その温もりに勇気を得て、カミューは顔を上げ真っ直ぐに目前の黒い瞳を見た。
『だから…これからも親友でいてくれるかい?』


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



「その時の笑顔がすごく綺麗だった」
 後ろから抱きすくめた格好のまま、耳元でマイクロトフがそんな事を言う。
「カミューの泣いた顔も笑った顔も一年目のあの日に初めて見たんだ」
 あまりに嬉しそうに言うが、同時にカミューはあの後の事も思い出していた。
「あの時がきっかけだね」
「なんのだ」
「おまえが可愛くなくなったきっかけ」
「………」
「やっぱり迂闊にも涙を見せたのが敗因かな」
 そしてくつくつと笑う。後ろではさぞかし憮然とした顔をしているに違いないと思うと、いや、やっぱり今でも可愛い奴かと思いなおした。


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



 漸く涙が止まったカミューだったが、ふと一ヶ月ぶりに近くに立つ友人から感じる違和に首を傾げた。
『おまえ……また大きくなっていないか?』
『え?』
『肩の位置が違う』
『あぁ、カミューとこうして向き合うのは久しぶりだから。俺、ここ最近で随分と伸びたんだぞ』
『……可愛くない』
『カミュー…』
『どんどん可愛くなくなっていく』
『…カミュー…』
 上目遣いで呟くカミューに、マイクロトフは宥めるような声を出す。
『俺は別に可愛くなくて良いんだから、な』
『……』
『もう、身長も体重も一年前とは違う。来年になればもっと違うんだから、な』
 返答は無い。
『俺は…立派な騎士になるんだから、な』
 ただ濡れた瞳が見上げてくるだけだ。
『カミュー、だから俺は…もう、可愛いなんてだな……言われても、な』


... ... ... ... ... ... ... ... ... ...



 その時のマイクロトフの狼狽ぶりを思い出してカミューは機嫌よく笑う。
 いつもいつも、マイクロトフはああしてカミューに振り回される。だが、実のところ振り回されていたのはカミューの方なのだ。
 首を捻じ曲げて、背後の鍛えられた首筋に唇を寄せると、マイクロトフがびくっとうろたえた。そんな反応に気を良くして、鼻先を擦りつけると慌てて引き剥がされた。
「カミュー…!」
「なんだ、嫌なのか?」
「嫌…とかではなくてだな……」
 口篭もる態度がやっぱり可愛いか、と大きな図体の男相手に思う辺り、自分も相当毒されているなと思考の隅で思う。
「でも、大型犬の子犬が可愛いのは知っているが、同じだなぁ」
「どう言う意味だカミュー」
「でもね。子犬よりも成犬の方が断然良いんだよ」
「ん?」
「別の言い方をするなら、若木よりも大樹の方が好きだと言う事さ」
 にっこりと微笑んでカミューは大樹に身を預けるように、再びマイクロトフに背中を凭れさせる。そして、囁いた。
「あの頃のおまえは大樹の芽だったんだな。道理で可愛いわけだ」
「カミュー……いい加減、俺を可愛いとか言うのは…」
「大丈夫。大きくても充分可愛いから」
「カミュー…」
 そんな事を言うカミューこそ、抱き締めたいくらい可愛いのにと、マイクロトフが心密かに思っているのは秘密である。





END



良く…分からないお話にしあがりました。
いや、全然仕上がってないですね。ごめんなさい。
『初めて言葉を交わしてから一年目の少年青赤(同盟軍にての回想バージョン)』これがお題でした。
実は少年青赤を書くのは初めてで、お題を頂くまでは考えすらしなかったのです。
かなりてこずりました。
そして一万企画に引き続き、またもやオリキャラ登場…。
どうしようオリキャラだよ…と悩んでいたら、楽しみって言われたので調子に乗って書いてしまいました。
はいノエル兄やんとザガ兄さんです。
ノエルさんは破滅型、ザガさんはむっつり助平、と考えながら作ったキャラクターです(笑)。
それよか少年時代を書こうとしたらどうしても第三者を、オリキャラを出さずにはまとめられないと気付き、
リクエストをして下さったましろさんに謀られたと知った時には遅かったです(笑)。
さて隠されたキーワードは……分からないですね。ごめんなさい。
最後にこれでもかってくらいカミューさんに言っていただきました。

2001/02/18

2001/08/19 改稿

自力で戻ってください