Abendlied
知らせをうけ、あわただしく馬を駆って本拠地を出ていった青騎士団長が帰城してきたのは、晩鐘があたりに鳴りひびく頃だった。
野辺で、街中で、その日最後の仕事に励んでいた人々は、おもわずその手をとめて、通りすぎる青年に目をやった。
見事な夕焼けが一刻一刻その光彩を変えていく中、ゆっくりと馬を歩かせる青年の青い騎士服が浮かび上がる。その鮮やかな色合いの胸元に、豊かな黒髪を惜しげもなくこぼれさせた乙女の姿があった。白い頬を青年の逞しい胸にあずけ、ぐったりと凭れかかって、かすかな寝息を立てている。
その様を目にした人々は一様に言葉を無くし、あたかも古の物語の1篇のようだったとか、一幅の絵画を見るようだったとか、後々までも語り合ったのだった。−1−
その日、軍主と共に交易にでていた赤騎士団長が本拠地に戻ったのは、夜もすっかり更けた頃だった。
その懐には、交易に便乗して購入してきた年代物の葡萄酒がある。
今朝方今日の予定を告げると、いつもなら気張って働けと送り出してくれる僚友は、なんとも残念そうな表情を浮かべた。
「どうかしたか?」
と尋ねると
「覚えていないのか?」
と切り返された。記憶力には自信のある方だがと今日の日付を心の中で確認したが、やはり何も思い当たることはない。
「降参だ。教えてくれ」
「俺がお前に、思いを告げた日だ」
「・・・・・・」
返事が出来なかったのは、正直呆れたからだった。ご婦人方があの記念日だのこの思い出だのに執着するのは知っていたし、適当にあわせてもいたが、まさかこの男の口からこんな言葉を聞くとは思わなかった。
どこぞの乙女ではあるまいしと口をつきかけたが、こちらをじっと見つめるマイクロトフの真剣な表情に気押されて何も言えなくなった。
「お前にとってはどうだかしらんが、俺にとっては大切な日だ」
こちらの反応を予期していたのだろう。照れもせずにきっぱりとそういう男に、後悔の念が沸き起こる。責めもせず、怒りもせず、ただほんの少し苦い笑みをうかべてまっすぐ見つめてくる視線の前で、瞳を伏せるしかなかった。マイクロトフと自分の感情の温度差を思い知らされるのはこういう時だ。けして自分たちの関係を軽んじているつもりはないのだが、あっさりしすぎているけらいがある自分は、マイクロトフの目には随分と不実に映っているのではないだろうか。
「・・・悪かった」
カミューは素直に謝罪の言葉を口にした。
「できるだけ、急いで帰る」
「いや、いい。ちゃんと責務を果たして来い」
資金稼ぎの交易にまで責務などという言葉をつかうマイクロトフに、笑みがこぼれた。
「ああ。心してな」
そう答えた時には無論、公の交易よりも自分たち用の良質の葡萄酒をどうやって手に入れようかと、心の中で算段をはじめていたカミューだった。
・・それにしても。
マイクロトフからの告白を受け入れて1年目という事は、同時に、そういう関係になって1年目ということでもある。それを祝うというのは何となく気恥ずかしい気がする。
せっかくだからという事で、おそらくなだれ込むのだろうなという予想も立つ。
臆面がないと良く言われる自分だがマイクロトフのあれはそうではないのだろうか?自覚がないという点ではあちらの方がより問題な気がするが。そんなことを考えながら、親友の部屋の扉を叩いた。
・・・・返事はない。早寝早起きが骨の髄まで染み込んでいる男だが、深夜にはまだ間がある。さすがにまだ寝る時間ではないだろう。再びノックをしようとしたところに、
「カミューさま」
通りすがった青騎士に声をかけられた。
「マイクロトフさまでしたら、ホウアン殿のところにおいでです」
「・・・・けがでも?」
眉をひそめて問いかけると、
「いえ、そうではありませんが」
どこか歯切れの悪い返事がもどってくる。言葉をさがしあぐねているような様子に、
「わかった。そちらに行ってみる」
気軽にそう応じると、カミューは医務室に向けて歩き出した。
マイクロトフでないとすると、青騎士団か同盟軍の誰かが負傷したのかもしれないが、先ほどの騎士の様子ではどちらにしろ深刻なものではないだろう。
そう思いながらも自然と足が逸った。
密やかなノックの音に応じたのは、思いもかけないことに、正軍師の声だった。
扉をあけると、目の前にシュウの背中があった。端正な面がちらりとこちらに向けられる。
「お早いお帰りだな」
「交渉がはかどりまして」
「それは重畳」
応じる言葉にかすかな皮肉の色がこめられているように感じたのは気のせいだろうか。何故自分が多いに本領を発揮した上、笑顔まで連発して取引をさっさと纏め上げ、一刻も早い帰城をめざしたかまで、この軍師には見ぬかれているのかもしれない。
が、それ以上とりあわずに、カミューはシュウの背中のむこうにある青い騎士服に目をやった。マイクロトフはこちらに気づいた様子もなく、寝台に横たわる人物をじっとみつめている。
「誰か負傷でも・・」
とシュウに尋ねかけたカミューは、次の瞬間、思わず軍師の体を押しのけていた。
「失礼」
おざなりな詫びの言葉を残して、同僚の傍らにならぶ。
「カミュー」
はじめて気づいたという様子でこちらを見たマイクロトフにもすぐ返事をする事ができなかった。
見事な漆黒の髪をシーツの上に広げ、その瞳を閉じて横たわる青ざめた女性は・・。
「お前の遠縁にあたるカタリナ嬢ではないのか?」
カミューの問いかけにマイクロトフはゆっくりとうなずいた。
彼女は確か、一族の反対を押しきって、ハイランドの貴族の家に嫁いでいたはずだ。それに思い当たって、カミューは暗澹とした。結い上げてもいない髪。本来なら彼女が身につけるものではないような粗末な衣装。
「けがや病気ではありません。おそらくここ数日まともな食事をとっていらっしゃらなかったのでしょう」
そのホウアンの診断を聞けば、行き倒れのような状態で見まわりの兵士に発見されたという理由の見当はつく。近いうちに同盟軍の総攻撃を受ける事が確実であるルルノイエを命からがら抜け出してきたのか、それとも敵軍に連なる者の血縁として婚家を出されたのか。いや、ひょっとすると・・。考えをめぐらしながら、カミューは親友を伺った。
どちらの理由でこうなったにしろ、双方の原因となる立場のマイクロトフは、激しく責任を感じているのだろう。固い表情でじっとカタリナを見下ろしていた。
「心配はいりません。胃を刺激しないように少しずつ滋養になるものをとって、数日ゆっくり休めば回復されますよ」
ホウアンがそう言っても、マイクロトフは彼女の傍らを離れるつもりはないようだった。
「カミュー殿」
かけられた声に振り向くと、シュウは軽く扉の方にあごをしゃくった。そのままさっさと外へと出ていってしまう。
「すぐもどる」
言い置いて、カミューもその後を追った。
「単刀直入にきかせていただこう。あのご婦人とは関係をおもちだったか?」
廊下にでるなりシュウがかけてきた言葉にカミューは目を見張った。
「は?」
「彼女は、貴殿のお手つきではないのか、と聞いている」
カミューは深ぶかと息をついた。マイクロトフが聞いていなくてよかったとしみじみと思う。
「私をそこまで節操のない男とお思いでしょうか?」
「それならそれでいい。では、早速たらしこんでいただきたい」
身も蓋もない言葉に呆れた。
「軍師どの」
「ハイランドとその首都の情勢が、喉から手がでるほど欲しいのだ。彼女の口から聞き出してくれ」
「おっしゃることはよくわかりますが、ここは道理を説いて協力を要請するのが筋でしょう」
「カミュー殿らしくもない」
とシュウは目を眇めた。
「そんな形で手に入れた情報が正しいとなぜわかる?」
彼女は、偽の情報を流すために放たれたハイランドの間諜かもしれない。暗に語られた事は、自分もすでに思いついていたことだった。旧知のレディを案じつつも、その考えに至ってしまう自分を嫌悪しながらのものではあったが。マイクロトフがこの場にいなくてよかったと再びそう思いながら、カミューは首をふった。
「だとしても、私はその役目を担うつもりはありません」
「何故だ?」
「これはまた軍師どのらしくもない。ご自慢の情報網にひっかからないわけはないと思いますが」
「わからんな」
自分とマイクロトフの関係はいやというほど知っているだろうに。白々しい言葉を返すシュウに、
「木石並の朴念仁という評は的を射ていましたか」
カミューはにっこりと微笑みかけた。
「どうせなら、シュウ殿が口説き落とされたらいかがです?」
「私にはそんな暇はない」
「暇も技能もいりませんよ。誠意と言葉だけで充分です」
「後者はともかく、貴殿をみていると、前者は必要なようにはおもえんな」
「確かに私には必要ありませんが、初心者は別でしょう」
「私を初心者とおっしゃるか?」
「違いましたか?」
「はったりばかりで、いざという時、何の役にも立たん輩をその道の達人というのなら、初心者でも一向に構わんが」
少々脱線しかけた二人が片方は涼やかな笑みを浮かべ、片方はあくまで無表情のままでなんとも冷たい空気を醸し出していると、静かに扉が開いてマイクロトフが部屋を出てきた。
「マイクロトフ殿」
とシュウが厳しい声をかける。
「軍師として命ずる。身内の情でもなんでもつかって、あのご婦人から現在のハイランドの情勢を聞き出していただきたい。何としてもだ。朝から晩まで彼女の側を1歩も離れるな!」
乗り出すようにしてそう告げると、シュウはさっさとその場を立ち去って行った。
不意打ちをくらった格好だったマイクロトフは、言われた事を一瞬遅れて悟ったらしい。その顔に、彼らしくもない自嘲するような笑みをうかべた。
「マイクロトフ・・」
「ああ、わかっている。必要なことだとはな。少々、気は咎めるが・・」
「どちらにしろ、お前は彼女の側にいるべきだ。聞き出すというより、彼女を守る為に」
「守るだと?」
「ああ。余計な詮索からな」
「詮索?」
マイクロトフは眉を潜めてその言葉を繰り返した。
「・・・・まさか、間諜だとでも疑っていると言うのか?」
「疑われない為にだ」
とカミューは訂正した。
「今は戦時中だ。全ての可能性を考えてしかるべきだろう。あちらこそこちらの情報は何にかえても欲しいと思っているはずだし、混乱させる為に偽の情報を流すと言うこともありうる。だから・・」
言いかけた言葉は静かにさえぎられた。
「彼女は俺の身内だぞ」
「わかっている。だからこそ、守れと言っている」
「俺には、見張れと聞こえた」
二人の間に沈黙が落ちた。
カミューが重い口を開きかけた時、扉が開いて、
「マイクロトフ殿、ご婦人が目をさまされました。あなたを呼んでいらっしゃいます」
ホウアンの穏やかな声に、マイクロトフは踵を返し、無言のまま部屋の中へと入っていった。
拒絶するように自分の前で閉められた扉に手をのばしかけ、カミューはため息と共にそれを諦めた。
「・・まずった・・」
もう少し言葉を選ぶべきだった。身内が絡んでいなければ、マイクロトフも自分の言葉を冷静にきいたことだろう。彼が一度自分の庇護下においたものに関してはどんなに親身な男になるか、誰より自分がよく知っているのに。どうやらいつのまにかすっかり彼に甘えていたらしい。
近づいてくる足音に顔を上げると、そこには、立ち去ったはずのシュウの姿があった。
「・・意外に不器用なところがおありだな」
一部始終をうかがっていたのだろう。かけられた言葉には揶揄の響きがこめられていたが、どこか、案じているような気配もある。もっとも騎馬部隊の頭領二人に仲たがいをされては今後の戦いに差し支えるといったものなのかもしれないが。
「意外に優しい所をお持ちですね」
苦笑と共にそう応じると、
「誠意なしでもどうにかなりそうか?」
と尋ねてくる。
「相手がかなりの物好きでしたら」
カミューの返答に肩を竦め、軍師はついて来いというように、ふたたびあごをしゃくった。
「なんです?」
「別件の話がある」
「これ以上ややこしい事は、伺いたくない気分なんですが」
思わずポロリと本音をもらしたが、軍師殿は頓着する気は全くないらしい。カミューはため息を一つ落とすと、さっさと歩きだすシュウの後に従っていった。
−2−
青い騎士服の主が医務室に入り浸る姿は、すぐに本拠地中の噂になった。そもそもマイクロトフがカタリナをその胸に抱いて帰城してきた時から、それを目撃したおしゃべりすずめたちが何ともかまびすしかったのだという。
あの時の青騎士も、それだけに自分に言いずらかったのだろう。
互いが遠征や交易などで本拠地を留守にしている時以外は殆ど一緒に行動していた二人である。カミューが一人でいるというのは、なんとも見なれないものらしい。
気にはなるが、声はどうもかけずらい。
誰の顔にもそう書いてあるような中、例によって頓着する事なく側によってきたのは豪放磊落な傭兵隊長だった。
いきなりテーブルの傍らにたった大男を見上げて、
「おはようございます」
と挨拶をした。もっとも丁度パンを咥えたところだっただけに、はなはだしく言語不明瞭なものになったが。
「相棒は、悲劇のレディにずいぶんとご執心みたいじゃねえか」
椅子を引いて向かいに座り込みながらの直球勝負である。心配しているのか面白がっているのか、ビクト−ルの顔を見ると、どうやら半々といったところらしい。
「気にならねえのかよ」
「それは、気になりますとも」
「妬けるか?」
「勿論」
「真顔で嘘をつくなよ」
「嘘じゃありませんよ」
こちらに投げかけられる視線には「しょうがない奴だな」と書いてあるようだ。
「マイクロトフの遠縁にあたるご婦人です」
「そうだってな」
とうにご存知らしい。それだけでは納得してくれそうもない男に、この相手ならいいだろうと、
「軍師どのからの命令もでています」
声を低めてつけたした。
「ああ、そう聞いている」
それも知っているのか。わが軍の機密保持はいったいどうなっているのだろう。間諜を心配するより先に、こちらをどうにかするべきではないだろうか。
「男ってのは、頼られると弱いもんだ。それはわかるだろう。あいつなんて特にそういうのにほだされそうじゃねえか。ややこしい事になったりしねえうちに、ちゃんと話をつけとけよ」
親身なその言葉にカミューは曖昧にうなずいた。
そんな日々が数日も続くと、人生経験豊富なあたりはさすがに一言いいたくなったらしい。
夕刻、予定のない身をもてあましたカミューは、開店前の酒場に立ち寄ってレオナとたわいもない酒談議をかわしていたのだが、ふとその話題が途切れると、女主人は待ちかねたように話を変えた。
「余計な差し出口だとは思うんだけどねえ。何だか見なれているものを見られないと、気になるって言うか落ちつかないっていうか・・。相棒は、あいかわらずあの人につきっきりなのかい?」
「そのようですね」
「そのようですって、あんたね・・」
お説教が始まりそうな雲行きに苦笑した時、レオナがふと口をとじてカミューの背後をみやった。つられて振りかえると、そこには久々に目にするマイクロトフの姿があった。
レオナに目礼をした後で、
「カミュー、少しいいか」
低い声で促されて、カミューはすぐに席を立った。
「カタリナが落ちついて、お前にも礼を言いたいというのだ。顔を出してくれないか」
「そうか。それは良かった」
並んで歩きながら、カミューは傍らの男をうかがった。
カタリナは夜昼なくうなされているのだと、ホウアンから聞いていた。時間が空けば必ず医務室を覗き、付き添っていたマイクロトフも、さぞ疲れていることだろう。その頬が少しそげていることに気づき、カミューは目を細めた。
少しは休めとか、自分が代わろうとか、そんな言葉をかけそうになったこともある。が、己が荷うべきことを誰かに肩代わりさせるなどけしてできない男だと、この自分が一番良く知っていた。
カタリナは寝台の上に上体を起こして二人を迎えた。顔色こそまだ青ざめ、やつれた気配は隠せなかったが、見事な黒髪を三つ編みにして背にたらし、こざっぱりした服に着替えた姿には、マチルダにいたころの面影が戻っていた。
いわゆるお年頃になるまで、彼女はマイクロトフの良い遊び相手だった。その年齢では女の子の方が先に大人になるのだろう。一つ年下の彼女にまるで弟のように扱われ閉口していたマイクロトフに、何度も笑いをかみ殺したものだった。明るくて、にぎやかで、世話好きだった少女。
懐かしさが胸に込み上げてくる。
「カミューさま」
名を呼んでくるカタリナの手を取り、カミューはその甲に口付けを落とした。
「お元気になられて何よりです」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「迷惑などと。こうして貴方のご無事な姿を目にする事ができて、こんなにうれしい事はありません。さぞご苦労をされたことと思いますが、ここまで辿りつかれた貴方の勇気に心からの敬意を覚えます」
気持ちのこもった言葉だと伝わったのだろう。カタリナが目をみはる。その瞳が潤み、溢れたものが、まだ血色のよくない頬に、零れ落ちていく。
反射的に指を伸ばしていた。
「ごめんなさい」
頬に当てた白い手袋に涙が吸いこまれていく。そのせつないぬくもりに胸をつかれながら、
「カタリナ殿」
その名を口にした時、傍らからいきなり真っ白な手巾が差し出された。
「これを・・」
どこかぶっきらぼうに響いた声にそちらを見上げると、マイクロトフの厳しい顔があった。
「もう少し休んでいた方がいい」
カタリナに手巾を渡して、そういい置いたマイクロトフに、いきなり二の腕を掴まれた。そのまま引っ張られるようにして、カミューは挨拶もそこそこに医務室を出る羽目になったのだった。
「いったいどうしたんだ?」
先に立って歩いていく男は固い表情を崩していない。
「マイクロトフ!」
その名を呼ぶと、やっと腕を放された。
「あんな形で退室するなど、カタリナ殿に失礼だろう」
が、マイクロトフは返事をしない。
いきなりぐるりとばかりにこちらを向くと、
「知っているか。カタリナの初恋の相手はお前だったそうだ」
いきなりそんな事を言われて、カミューは目を見張った。
「・・・・そうか。それは光栄だな」
そう応じつつも、なぜマイクロトフが今そんな事を言い出したのか、まるで見当がつかなかった。
黙りこんだまま、マイクロトフは窓枠に手をついて、外へと目をやっている。困惑をかかえて、カミューもそれにならった。
どこかから子供の声が響いてくる。
夕餉の支度がはじまっているのだろう。胃の府を刺激する匂いが、あたりに漂っていた。日がな一日外で働いていた人々がもどってくるざわめき。かわされる帰宅の挨拶。
この本拠地が、人々の生活の場としての顔を一番色濃くみせるひとときである。
赤ん坊のかすかな泣き声。それをなだめる子守唄。どこか懐かしいその旋律は、戦いのさなかとは思えないこの平和な夕刻を象徴しているかのようだった。
けれど彼らは、焼き払われた村や街からここに逃げ込んできたのであり、カタリナのように行き倒れ寸前で辿りついたものもけして少なくないのだ。
ルルノイエを落とせれば、おそらく待ち望んだ平和がやってくる。人々は本来の地にかえり、生活を立て直し、些細な、けれどかけがえの幸福に包まれた日々をおくれるようになることだろう。
だがその戦いは、同時に、再び数多の不幸な人々を作る事になるのだ。カミューはその矛盾を、軽く首を振る事で心の片隅に押しやった。
「彼女はどうして・・」
問いかけると、マイクロトフは低い声で語り始めた。
「ご夫君が徴兵され、戦場で命を落とされたのだそうだ。それで、いたたまれずに婚家を出てきたらしい。敵国の人間である上、身内の俺はマチルダを捨てて同盟軍に合流していたしな。辛い立場だったんだろう。逃亡の途中で、従っていたメイドとはぐれ、金目の物も奪われたそうだ。
話を聞いてそのメイドの行方を探索させているが、まだ見つかってはいない。おそらく・・」
言葉が途切れたが、聞かされなくても見当はついた。放逐された女主人に付き従ってきた忠実なメイドを襲った運命を思うと、胸が痛む。
カタリナがなめた辛酸を口にするのも辛いのだろう。暗い目をしてそう語ったマイクロトフを慰める言葉もなく、カミューは黙ってその肩に手を置いた。
「カミュー」
「うん?」
こちらを見た辛そうな顔に応じると、そのまま唇を覆われた。誰が通りかかるかわからない往来である。いつものマイクロトフらしくない行動に驚かずにはいられなかった。それどころか、触れるだけでは終わらずそのまま深いものにしてこようとするのに、カミューはあわてて身を引いた。
3日間触れていなかった相手の熱を伝えられて、思わず反応しそうになってしまっただけに、狼狽もひとしおだった。
「場所を考えろ!」
再び掴まれていた腕を振り解く。
「いったいどうしたんだ?」
問いかけにも答えはない。目を伏せている男に、
「戻った方がいいんじゃないか」
とカミューは言った。
「カタリナ殿が心配されているだろう」
「戻れ、と言うのか」
「それこそ、いわば敵国に身を置いているんだ。さぞ心細いことだろう。レディを守るのは騎士の務めじゃなかったか」
そう言うと、漆黒の瞳がじっとこちらを見つめてきた。
「疲れているなら、しばらくはわたしが替わろうか」
尋ねるとマイクロトフは首をふった。予想していたとおりの反応だった。
「そう言うだろうとは思ったよ。お前の方が身体を壊したりしないように気をつけろよ」
「俺は頑健にできあがっている」
踵を返したマイクロトフに
「待て。わたしも行く」
続こうとすると
「おまえはこなくていい!」
鋭い声に足が止まった。
「何故だ」
問いかけに足を止めることもなく、マイクロトフはいつもと同じ力強い足取りで再び医務室へと戻っていく。
振りかえりもしない相手に、引き止める言葉が口をつきそうになった。思わず腕を伸ばしそうになった。だが心の中に抱えている迷いが、その衝動を身の内に押し留める。
カミューはその場に佇んだまま、曲がり角に消える同僚を見送った。
マイクロトフが見せた彼らしくない苛立ちの理由が気にはなったが、おそらくここ数日の疲れが言わせたものだろうと当たりをつけた。カタリナに悲痛な思いをさせたのは自分だという良心の呵責にも責められているのだろう。
カミューは再び窓枠に凭れて、暮れゆく空を見上げた。
「・・初恋の人、か」
皮肉なものだと呟いた。カタリナこそが、マイクロトフのはじめての淡い恋の相手だったと知っている。もっとも自覚していたかどうかは少々怪しいものだが。彼女に話しかけられるたびに赤面し、いつにもまして口ごもり、苦手だと口にしながら視線はその後を追っていた。あまりのわかりやすさにからかう気にもなれなかった。
そこまで思い返して、カミューは苦笑を浮かべた。カタリナが寄せてくれていた気持ちには気づかなかったというのに、あの頃から自分はカタリナよりマイクロトフの事を気にしていたわけだ。自覚がないのはどっちだったんだか。
「綺麗になっていたな」
やつれてはいても、彼女がかもしだす明るい雰囲気はそのままだった。辛い経験をくぐりぬけて、おそらくこれからの彼女は、より輝いていくことだろう。そうなれる日が来る事を心から願った。
彼女はきっとそれだけの強さをもっている女性だと思う。
ビクトールはあんな事を言っていたが、マイクロトフは親身になっても、ほだされはしまいと思っていた。自分という存在があるからだけではなく、つらい境遇にあり、ましてやご夫君を亡くしたばかりとあれば、そこにつけこむような恋情を抱ける男ではないと知っている。
だが、もしこれから先、マイクロトフがかつての初恋の人に慰められ、心を委ね、彼女を大切に思う日がくるというのなら。
・・それはそれでいいのかもしれない。
カミューは小さく呟いた。
−3−
体調が回復して、城の中を歩き回れるようになったカタリナの傍らには、常に長身の青騎士団長の姿があった。ご婦人の相手は苦手とはいえ、騎士としての礼儀はわきまえている彼が、漆黒の髪の麗しい乙女をそつなくともなっている姿は人々の目を奪わずにはいられなかった。
女性と二人でいるところなど今までになかっただけに、いっそう噂の的になったのだろう。
悲劇的なカタリナの身の上もあいまって、昔がたりの騎士と貴婦人の姿に二人をなぞらえるものも少なくなかった。
最もそうして盛り上っているのは、青騎士団長と赤騎士団長の仲を知らないあたりで、事情を知っているものは、みな心穏やかではいられないようだった。
穏やかな陽射しの元、テラスは、その陽光をあじわおうとする人々でにぎわっていた。常日頃からここを気に入りの場所にしている赤騎士団長も無論例外ではない。
本のページをゆっくりとめくっていると、
「お似合いだよな」
そんな言葉とともに現れたのは、いつものごとくビクトールである。その視線は少し離れたところで、テラスから見渡せる風景をカタリナに説明しているマイクロトフに注がれている。
「実に似合ってますよね」
手にした本から顔をあげもせずにそう応じると、ビクトールの手があごに伸びてきて、くいとばかりに持ち上げられた。
「カミュー・・」
睨みつけられてその格好のまま肩をすくめると、ビクトールは手をはなし、どすんと前の椅子に腰掛けた。
「マイクロトフは一体全体どういうつもりなんだ。見せつけているとしか思えないじゃないか」
「あいつにそんな器用なことができるとは思えませんが」
「おまえな、やせ我慢も大概にしろ」
「そんな風にみえますか?」
やせ我慢をしているつもりはなかった。マイクロトフがカタリナの傍につきっきりである理由は知っているし、それは自分が望んだ事でもある。カタリナに誘われれば、3人で食事をともにし、昔話に話を咲かせたりもしている。ただ、何故かそのたびにマイクロトフが厳しい顔をみせるのだ。
先ほどもテラスに顔をだすなり、カタリナは嬉しそうに手をふってくれたが、その傍らにいたマイクロトフが眉を顰めるのがわかったので、挨拶だけですませたのである。
考えてみれば、マイクロトフは最初から自分をカタリナのそばに寄せつけないようにしていた。最初に間諜かもしれないなどと不用意に口にしてしまったせいで、不興をかってしまったのかもしれない。
やれやれとばかりに小さくため息を落とすと、
「ほれみろ、気にしているじゃねえか」
とビクトールが身を乗り出してきた。
カミューはパタンと音を立てて本を閉じた。マイクロトフとカタリナにしばしの間目をとどめ、その視線をゆっくりとビクトールに戻した。
「気にしているのは、別の意味でですよ。それに、他の事を考えるのに少々忙しいものですから」
「他のことだと?」
とビクトールは顔をしかめた。
他に何を考える事がある?ルルノイエの攻略のことか?今後の同盟諸都市のことか?騎士団の再生か?それとも今日の夕飯は何にしようかとかそんなことだというつもりじゃないだろうな。
たたみこまれるようにそう言われて、カミューは苦笑した。
「ビクト−ルどのはどうなさるんですか?」
「何がだ?」
「今日の夕飯」
降って来たこぶしをよけながら、笑い声がこぼれた。盾がわりにした本を取り上げられて、また取り返しをしながらふと気づくと、いつのまにかせっかくの陽射しが遮られている。
そちらを見上げると、傍らに立っていた人影が、これ見よがしのため息を落とした。
「軍師どの」
いつにもまして仏頂面のシュウが、じろりとばかりにこちらを見下ろしてくる。
「いい年をして何をしている。みなが呆れているぞ。いやしくも隊の頭領を勤めているものたちのすることか」
なるほどそう言われてみると、いつのまにやら視線が集まっているようだった。
さすがに咳払いをしてごまかすビクトールに苦笑しつつ、
「何かご用でしょうか?」
とカミューは尋ねた。
「例の件についての情報が届いている。興味があるなら執務室にいる」
そっけなくそう言いおき、そのまま立ち去っていく軍師に続こうと、カミューはすぐに立ちあがった。
その腕にビクトールの手が伸びる。
「何の話だ?」
浮かんだ微笑はすこし困ったようなものになったのだろう。見かけによらずに聡い男が声を低める。
「他の『考える事』か?」
「そんなところです」
それ以上は語らずに、カミューはそのままテラスを後にした。
「やはり、背後にはハルモニアがいるようですね」
「あからさまな挑発だ。隠す気もないんだろうな」
書状に目を通し終えたカミューに、シュウの苛立たしげな言葉が返る。
「ハイランドにグラスランドにと、忙しい事だ」
一時は平和をたもっていたグラスランドでまたぞろ起きはじめた不穏な動きを伝えてくる書状だった。先日マイクロトフがカタリナを連れかえった時に見せられたものに続く、より詳しい情報である。
前々から国境付近をさわがせていた『炎の運び手』と呼ばれる盗賊団が、その騒ぎの一端をになっているらしいこと。その背後に、ハルモニアの影が見え隠れする事。
「おそらく近いうちに騒ぎが起きるだろう」
それをグラスランドの知り合いに伝え、牽制してほしいというのが先日シュウから受けた要請だった。
ハイランドとの戦いには間もなく終止符が打たれるであろうが、勝利をおさめても、疲弊しきっている時に第三国に狙われてはたまらない。グラスランドで騒ぎを先行させ、ハルモニアをそちらに足止めしたい。
情報を伝えられるグラスランドの部族にとっても、先手を打てれば今後の対応も楽になるだろう。
そう説かれたカミューは同意する前に、より詳しい情報を要求したのだった。
「これで動いてもらえるか?」
シュウに尋ねられて
「もう、動いていますよ」
しらっと返された言葉にシュウは眉を寄せた。
「今、なんと言われた?」
「商人をつかって知らせてあります。行動は迅速にすべきでしょう」
「カミュー殿!」
「こちらも早速伝えさせていただきます」
そういう青年をシュウは腹立たしげに睨みつけた。
「ただ働きをさせられたわけか」
苦々しく吐かれた言葉に、カミューはすみません、と素直に頭を下げる。
「知らせがグラスランドに届くまでの日々を無駄にしたくなかったものですから。
なんと言っても、あの地は遠い」
微笑む赤騎士団長をしばしねめつけていた軍師は、椅子をきしませてその背に凭れかかった。
「こちらが治まれば今度はあちらか。人間というのは性懲りのない生き物だな」
珍しくシュウの口から愚痴めいた言葉が漏れた。次から次へと持ちあがる難題にさすがに疲れは隠せないのだろう。
「本当にそうですね」
執務室にしばしの沈黙が流れる。シュウの鋭い視線に気づいてそちらを見ると、
「グラスランドに行かれるつもりか?」
投げかけられた問いには答えず、カミューは書状を返した。軍師が眉を顰める。
「知らせを作るのに必要だろう」
「もう頭に入りました」
「つくづく可愛げのない男だな」
「よく言われますよ」
今後も互いの情報を交換しあうことを約すると、カミューは執務室を出た。
シュウには明言しなかったが、カミューの心は前回の知らせを受けた時に、すでに決まっていた。この戦いに決着がつき、騎士団の今後が形になったら。そうしたら。
はじめからそのつもりではあったのだ。
はぐくんでくれた氏族と人々への恩もあるし、グラスランドに吹きゆく風はいつも自分の心を捉えてやまなかった。
それに何より、戦いがもたらす悲惨さをいくら思い知らされても、人の愚かさに呆れながらも、自分はやはりその渦中で生きることのできる人間だと思うのだ。剣をふるい、敵を屠ることを生業としてきた。ためらいを感じなかったと言えば嘘になるが、悲嘆も後悔も、戦いにはつきものとして、心の片隅におしやることもできる。
故郷の地が困難の中にあり、その平穏を勝ち取るために武力が必要だというのなら、自分のような存在が求められているというのなら、どうしてそれに応ぜずにいられよう。
ただ一つ自分が心を残すものがあるとしたら・・。
「マイクロトフ・・」
その名を口にしても、彼でさえ、自分をつなぐ頚木にはなり得ないと、カミューは思うのだった。
つぼみから満開になっていく花のように、日々カタリナの顔が明るくなる。自ら何事かを楽しげに語り、微笑み、笑い声をあげる。それにつられるようにマイクロトフもその顔をほころばせる。少女時代の屈託のなさそのままに、談笑しながら、ごく自然にマイクロトフの肩や頬に手を伸ばす。
時には二人と席を共にしながら、時には通りすがりに思いがけず、そんな情景を目にすることが珍しくなくなっていた。
苦笑ひとつで、カタリナのそんな行為をうけいれているマイクロトフを見るたびに、かすかに胸がざわついた。身内同士の親愛をこめてのものだと理性は冷静に告げてくるのに、何故か、二人のそんな親密な姿をみたくなかった。そう思ってしまう自分に呆れ、持て余しながら、カミューはいつしか二人から遠ざかるようになっていた。
それでなくてもマイクロトフの方もそう仕向けているので、一緒に過ごす時間はどんどん減っていく。
気をまぎらわせる対象はいくらでもあった。騎士たちの鍛錬を監督する役目も回ってきていたし、間近にせまったルルノイエ攻略への準備も大詰めである。
一人で過ごす事が多くなった赤騎士団長には男女問わず話し掛けてくるものが増えた。
ロックアックスでしこまれたそつのない対応は、殆ど本能と化しているし、もともと好奇心が旺盛なほうである。今までさほど親しくなかったあたりと親交を結ぶにもさほど時間はかからなかった。
それなりに楽しく過ごしていると言ってもいいだろう。
マイクロトフと顔を合わせるのは、必要に迫られた時だけで、仕事がらみなだけに互いの副長を伴う事も多かった。二人きりになることはまずない。それが終わればごく普通の同僚同士のように席をわかつ。自分も相手も余計なことは口にしない。
それでも自分の毎日は何の支障もなく過ぎていく。
無論ときおりたまらなくそのぬくもりが恋しい時もあった。自室で一人でいるときなどは、冷たいものがただひたひたと胸を満たして行くような孤独を感じたこともある。
だが、とカミューは自分に言い聞かせる。
自分は、マイクロトフのもとを離れる道を選ぼうとしている。
その自分が彼を求めるのは、自分だけを見ろと願うのは、ひどく勝手なことだと思うのだ。
そしてまた同時に、自分がその程度の思いしかいだけない人間であることが、真剣な気持ちを寄せてくれたマイクロトフに対する不実の極みのような気がして、嫌悪にかられずにもいられなかったのだが。
−4−
その情景を目にすることになったのは、ほんの偶然だった。滅多に人が通る事のない本拠地の裏手。
わずかにあいた時間に、誰かと話をする気にもなれず、ふらりと散歩に出た帰り道だった。
銀木犀の甘い香りの中、見なれた青い色が視界の中に飛び込んできた。その胸に抱かれている人影に気づいたのはその一瞬後である。固く抱きあったまま、長身の青年が腕の中の乙女の額に口付けを落とす。そのまま耳元に何事かを囁きかけ、力ない様子で首を振る相手をもう一度しっかりと抱きしめる。
マイクロトフがカタリナの肩を抱いてその場を立ち去るまで、カミューはそこから1歩も動く事ができなかった。
私室にもどると、机の上には明日の軍議への出席を促す書状が載っていた。おそらくルルノイエ攻略の日取りが本決まりになったのだろう。
カミューは書状を手にしたまま机に腰をかけて、暮れゆく空を見つめた。いつもならその行儀の悪さを咎めてくる男が、今は自分のそばにいないのだと、ぼんやりと思った。
最後の戦いが始まる。平和の為にと人々はまた傷つけあい、命を奪い合うのだ。
自分がひどく感傷的になっているという自覚はあった。普段なら割りきれる事が心に留まったままで去っていってくれない。
「人とは本当に愚かな生き物だな」
小さな呟きが部屋の中に吸いこまれていく。
その中でも自分が一番愚かだと、そう思う男の口元には、苦い笑みが浮かんでいた。
「マイクロトフさんが・・」
耳に届いた声に、思わず足が止まった。片隅に寄り集まった数名の少女たちが口にしている話題は、自分が目撃したのと同じようなマイクロトフの行状についてだった。ニナにテンガアール、アイリにメグに・・。何故かユズの姿まである。このような話題に加わるには、いくらなんでも少々早過ぎるのではないかと思うのだが。
そのまま立ち去るつもりが、気配に気づいたのかこちらをみたニナと視線があってしまった。そうなると逃げ出すわけにもいかない。さすがに気まずそうな表情を見せる少女達に、カミューは穏やかに声をかけた。
「人のプライヴァシーを声だかに云々するのは、あまり感心したことではありませんね。レディ方」
「ご、ごめんなさい」
と素直に謝ってきたのは、アイリである。目が合うのを避けるように、顔を伏せる少女達の中で、一人、まっすぐにこちらを見上げてきたのはユズだった。
「みんなはマイクロトフさんはあの女の人と浮気しているんだっていっているよ。カミューさん、気にならないの?」
回りの少女達が多いにうろたえて、正直な少女の口をふさごうとするのに、カミューは苦笑した。自分たちの関係を隠す気もなかったが、こうまっすぐに問いかけられるとは思わなかった。
「あいつは浮気をするような男ではありませんよ」
「・・・・」
沈黙が不満げなのは、おそらく彼女たちも実際にそういう場面を目にしたことがあるからだろう。
「そう、なの?」
「するなら本気でしょう」
胸に痛い言葉を口にしながら、微笑をうかべることが出来た。
「どうぞ暖かい目で見守ってやってください」
にこり、と笑みを残して背中を向けると、
「え〜!うそ、うそ!あの二人できていたんじゃなかったの!」
テンガアールの大声に、カミューは思わずため息をついた。
気をつけてみると、マイクロトフとカタリナの事はもう数日前から噂になっていたようだった。当事者の一人とみなされているのであろう自分の耳には、さすがに今まではいってこなかったらしい。
曰く、
マイクロトフと助けられたレディが人目を忍んで抱き合っていた。口付けを交わしていた。いつのまにやらわりない仲になっていたらしい。すでに将来を誓い合ったのだろう。戦いがすんだら結婚なさるにちがいない。
カミューの問いに応じて、しぶりながらも、囁かれている噂の数々を教えてくれたビクトールが、
「おまえがはっきりしねえから、ほれ、面倒なことになっただろうが」
と仏頂面を向けてくる。
「青騎士団長殿の評判は地の底まで落ちているぞ」
もっともカミューとの仲をしっているあたりだけでのことだろうが。
「しかも根も葉もない噂だけっていうわけでもないしな」
言いよどむビクトールもまた、自分が目にしたような二人の姿を目撃したのだろう。それだけに今回ばかりはすぐには言いにこれなかったらしい。
「気をつかっていただいてすみませんね」
カミューは苦笑した。
「不用意にもほどがあります。小器用な振る舞いはできない男ですが、迂闊な事はしないようにと言っておきますよ」
ビクトールが表情を変えた。
「カミュー、おまえな!」
諌めるというより怒りをこめた声だった。その険しい表情の言わんとする事はいやというほど知りながら、カミューはそのまま席をたった。
「お話はまた後で伺います」
無礼な態度だと知ってはいる。だが、あの情景を目にしてから、心のどこかが凍り付いているような自分をこれ以上ビクトールの前に晒す気にはなれなかったのだ。
ただの邪推だと心の何処かが冷静に告げている。
その一方でマイクロトフが自分を遠ざけようとしていた理由はこれだったのかと思ったりもする。
ざわつきなどという言葉ではおさまらないものが、自分の胸の中に渦巻いて、出口を求めて猛り狂っている。
それをいったいどうすればいいのか、カミューにはまだ答えをみつけることが出来なかったのだった。
「すみません」
短い詫びの言葉を残して立ち去ろうとすると、ビクトールの声が追って来た。
「カミュー。経験豊富なお前さんに俺なんかが今更とは思うがな。肝心要の事を知らないみたいだから教えておいてやる。人間、本当に欲しいものときがある時は、とにかくそれを口にしろ!ちゃんと欲しがれ!そしてどうなるかは、それから考えればいいんだ!」
カミューは足を止めた。
『本当に欲しいもの?』
ビクトールに向けた顔はめんくらったものになっていたかもしれない。自分にそんなものがあっただろうか。
こちらを睨みつけている傭兵隊長に、再び曖昧な笑みを返しただけで、カミューは再び歩き始めた。
後ろからの足音に気づいたのは自室の前である。人影がいなくなったところで振りかえると、少女達の噂話の中心になっていたニナの姿があった。
「何かご用でしょうか?」
「カミューさん、わたしたち、あの、憶測や無責任な興味本意だけで、話していたわけじゃないから」
「噂だけではないということは、知っています」
穏やかにそう言うと、ニナは驚いたように目を見張った。やげてその顔に浮かんだのは、先ほどのビクトールと似た表情である。
「カミューさん、あなたの態度はよくないわ!」
腰に手をあてた彼女お得意のポーズで上目遣いにねめつけられた。
「ちゃんと言う事を言わなくちゃ。平気な振りをしていたら気持ちは伝わらないわよ!!恋っていうのはね、どっちか片方が始める事だけど、愛って言うのは二人で積み上げていくものなのよ。その時に一人が逃げ腰だったら、あっというまに崩れちゃうでしょ。そこんとこ、よくわかっている?」
「・・それはエミリアさんあたりの説でしょうか?」
「17にもなればこれぐらいわかるわよ」
そう言って憤慨して見せたものの、ニナが見せた一瞬の躊躇は、カミューの推測が正しかった事を伝えてくる。
おそらく一方的にフリックを追い掛け回すニナをやんわりといさめるためにかけられた言葉なのだろう。
「私たち、けして面白がっているわけじゃないから。二人が上手くいって欲しいと思っているんだから」
「・・・・心しておきます」
まだ言い足りなさそうな、どこか怒ったような表情で、ニナは大きく頷いた。その姿が視界から消えても、カミューはそこに立ち竦んでいた。
17歳の女の子に説教されるはめになるとはな・・。
もっとも、むくわれなくてもただひたすら一途にフリックに自分の思いを伝えてわるびれないニナは、こと恋愛沙汰に関しては自分よりはるかに先輩なのかもしれない。
「逃げ腰、か・・」
と呟いた。たしかにそうだと、うなずくしかなかった。
おまえはどうしたいんだ?とカミューは改めて、自分に問い掛けた。
先ほどのビクトールの言葉が蘇る。
おまえは本当はいったい何を望んでいるんだ。いったい何が欲しいんだ。本当にマイクロトフがカタリナにその心を委ねる事を願っているのか?
出てきた答えは、自分でも呆れるようなものだった。
マイクロトフの部屋の前でしばし逡巡したものの、カミューは大きく息を吐いて、その扉を叩いた。
ノックの音に、予想に反して応えが戻る。誰何の言葉に、
「わたしだ。話がある。入るぞ」
短く応じると、言い終わらない内に扉が向こうから開かれた。まさしく飛びついて開けたという風情だった。
「カミュー」
自分の名を口にする男の顔に浮かぶのは、ここ最近見せていた厳しい表情ではなく、何とも嬉しそうな笑顔である。
「俺もいま、おまえのところに行こうと思っていたんだ」
とマイクロトフは言った。
「心が通じ合うとはこういうことだな」
何とも能天気なその台詞に、激しく出鼻を挫かれた。話とはなんだと聞かれて、そちらの用事こそなんなんだ、と問い返す。
「俺の役割が、ようやく終わったんだ」
安堵の中にかすかに自嘲が伺える声音だった。
昨日、カタリナは、彼女が知りうる限りのハイランドの状況を教えてくれたのだという。それをまとめて文書にし、さきほど軍師への提出も終えてきたと、マイクロトフは言った。使いを出していたカタリナのロックアックスの実家からは、その無事を知って涙を流さんばかりに喜んでいるという返事が届き、すぐにも迎えを寄越すという。その一行がつきしだい、彼女はそちらに向かう事になるだろう。
「そうか。ご苦労だったな。さぞ辛い役目だったろう」
軍師の命令に十二分にこたえた成果だったが、マイクロトフにとっては、それで満足を覚えられるようなものではなかったろう。
「ああ。そのおれの気持ちを察しておまえのほうも俺を避けていてくれたんだろう」
「え?」
「必要な事だと思いながら、カタリナから情報を聞き出すのは正直辛かった。まるでつけこむようで。そんなことをする俺の姿をお前にみせるのはいやだったんだ」
訥々と語られた事の意外さに、カミューは目を見開いた。
「それに、その・・カタリナからおまえを遠ざけたいという気持ちもあったしな。初恋の相手だと知っていたし、おまえに会う時は、カタリナの表情がまるで違ったから、まだお前に思いを残しているのかと・・」
言いよどむマイクロトフの勘違いぶりに呆れた。10年以上前の子供の恋をまだ引きずっているとでも思っていたのだろうか。カタリナの態度がちがっていたのは、彼女がマイクロトフには心を許していたからだろうに。女心に疎いのは相変らずらしい。
「それはお前の誤解だと思うが・・」
「お前がカタリナの涙に手を触れたとき、ひどく腹がたった。引き剥がしたくてたまらなかった。そんな狭量な自分がとてもいやだったんだ」
開き直ったようにマイクロトフが言った言葉に、カミューは唖然とした。あの時マイクロトフが妙に不機嫌に見えたのは、妬いていたのか。そうだったのか。
「いやな気持ちだった」
そうだろう。この男に嫉妬心ほど似合わないものはない。
自己嫌悪にかられた様子で黙りこんだマイクロトフをしばし見つめ、
「そうだな。自分の妬心と向き合うのはあまり気持ちのいいものじゃない。わたしもつい最近経験したばかりだがな」
カミューは静かに言った。
「妬いたよ、マイクロトフ」
告げた言葉にマイクロトフが目を見張る番である。
「もう少しで理性のたがが外れそうになるぐらいにね」
「あれは、あの噂は!」
さすがに耳に入っていたのだろう。マイクロトフは真っ赤になった。
「あれは誤解だ。たしかに話をするうちに感極まって泣き出したカタリナを抱きしめたことはあったが、密会しているとか、そ、その、口付けを交わしていたとか、ましては将来を誓ったなどと、でたらめもいいところだ」
焦りまくるマイクロトフに微笑がこぼれた。
「それでも、少しは心が動いたかい」
穏やかに問いかけると、マイクロトフが一瞬固まるのがわかった。
「・・す、少しは」
正直な答えに、そうだろうと思う。そうでなくてはこの生真面目な男が、身内とはいえ、カタリナをあれほど固く抱きしめ、感極まった様子で、その額に口付けを落としなどするわけがない。憐憫なのか情愛なのか、どちらにしろ、目の前の男がそれぐらいは心を揺るがせたのは確かだろう。それを浮気だのなんだのせめるつもりは無論なかった。ただ自分がそんな些細なゆらぎにさえ、衝撃を感じ、嫉妬を覚えてしまったのは事実だった。
「だが俺は同情と愛情をまちがえるほど未熟ではない」
マイクロトフがきっぱりと言った。
「カタリナに感じた物は、おまえに寄せるものとはまるで違う。彼女のことはただ守りたいと、癒してやりたいとそう思っただけだ」
「おや、私のことは守ってくれないのか」
「おとなしく守られてくれるような人間じゃないだろう」
「確かにな」
「・・おまえに触れたかった。傍に行きたくてたまらなかった」
それを我慢していると、おもわずしかめつらになってしまうんだ。
真面目な顔でそう言われて、ああ、これが連日の厳しい顔の理由か、とカミューは呆れた。呆れながらも言われてみればと納得している自分がいる。
マイクロトフはこういう男だ。それは自分が一番知っていたはずではなかったか?
長い付き合いの男の事は、大体わかっているつもりだった。なのに、こと二人の関係がからむと、自分はすっかり冷静な見方を失ってしまうらしい。自慢の理性ははるか彼方に飛んでいき、愚にもつかない憶測ばかりに捕らわれてしまうのだ。
これが人を思うということなのか?カミューは自分に問い掛ける。何て情けなくて、格好が悪くて、かつ、疲れる事なのだろう。
「お前が焼きもちをやいてくれるとは思わなかった」
どこか感慨深そうにそう言いながら、こちらに伸びてきたマイクロトフの手が頬に触れ、カミューは思わず瞳を閉じた。その暖かさを触覚だけで味わいながら、このぬくもりがいつになく大切に思えるのは、それだけで心を揺さぶられるのは、ここ数日のすれ違いのせいだと思う。
「ところで、お前の話とは何だ?」
今更のように問いかけられてカミューは苦笑した。
「わたしもお前に触れたかったと言いにきただけさ」
頬に当てられていたマイクロトフの手をとり、その指先に唇で触れる。そのまま、驚いた表情をかくさない男に微笑みかけた。
「カミュー・・」
「とてもね」
視線がからみあう。マイクロトフが何か言いたげに、口を開きかけた時だった。
どこかから聞こえてきた歌声に、二人はふと動きを止めた。
「子守唄、か?」
「ああ、そうだね」
この前耳にしたのと同じものかもしれない。子供をなだめる優しい歌声。
こちらの気持ちも穏やかにしてくれるような懐かしい旋律。
「前も今ごろだったな。赤ん坊はよく夕方にぐずるからかな」
「何故だ?」
「さあ。1日が過ぎてしまうのが子供ごころにも悲しいのか、それとも、夕刻は母親が多忙な事が多いから、その関心が惹きたいのかもな」
「わがままなことだ」
自分もかつては赤ん坊だったことを忘れているような男の台詞に苦笑がこぼれた。もっとも、この男は、赤ん坊の頃から、皆が忙しそうだからと、泣きたくても我慢していたのかもしれないが。
わがままか、とカミューは思う。相手の都合などお構いなく、全力で親の庇護を求める赤ん坊。自分だけを見ろと、自分だけをかまえと訴えるのに必死な存在。
自分が今から口にする事はそれとかわりないほどのわがままなのかもしれない。
この男のそばにはいられないのに。自分という人間の全てをささげることは出来ないのに、それなのに。
「なあ、マイクロトフ」
とカミューは口を開いた。
「生涯そばをはなれないとか、けしておまえを一人にしないとか、そんな誓いが欲しいかい?おまえに寄せる思いが全てだとか、おまえの為なら他の何を切り捨ててもいいとか、そんな言葉が聞きたいかい?」
めんくらった様子のマイクロトフに、カミューは言葉を継いだ。
「私にはそんなことは言えない。誓う事はできないんだ。でも・・」
一度言葉を切り、じっと相手をみつめる。
「それでも、私はおまえが欲しい」
何故言えないのかと、何故誓えないのかとマイクロトフが問いかけてきたら、素直に答えるつもりだった。この戦いが終わったら自分が何をしようとしているのかも。
マイクロトフは問い掛けては来なかった。しばらくその瞳をカミューにすえた後で、マイクロトフはゆっくりと口を開いた。
「おまえがたとえ何処にいっても、おまえの心が俺のもとにあるというのなら、俺はそれだけでいい。おまえが俺のものでなくても、俺はおまえのものだ」
語られた事に、カミューは言葉をなくした。
「俺となにか他のものを較べる必要はないさ、カミュー。たとえ何がおまえの心を占めていても、俺はもう、おまえという人間の心の基盤だ。けして揺らぐ事はない。そうだろう?」
カミューは明るい色の髪をかきあげた。
「・・まいったな・・」
かろうじて口をついたのはそんな言葉である。マイクロトフの腕が伸びてくる。腕を取られ引き寄せられて、
「俺の中のお前がそうであるように」
耳元でそうささやかれれば、おさえようがなく、身体が震えた。
一見初心なこの男は、ひょっとすると、自分以上に色恋沙汰にたけているのではなかろうか。
そのままマイクロトフの胸に抱きこまれて
「おい!」
反射的に咎める言葉を口にしたものの、無論それはカミューの本意ではなかった。
それなのに、マイクロトフははじかれたように両手をはなした。この後の展開は自分に委ねられたのだと気づいて、カミューはうろたえずにはいられなかった。
黙って自分の反応を待っている男に、こいつはいつのまにこんな忍耐を身につけたんだと思う。
だが、よく見れば、そのマイクロトフの顔には、わずかに伺うような、不安そうな表情が浮かんでいるのだった。
強い男だと思う。自分を律する事を知っている男。赤ん坊の頃もあまり泣かなかったのであろう男。懐の深さとあふれる情熱とそれを制御するすべをその身に兼ね備えた男。
その強さに感嘆しながら、カミューはふとそれをせつないと思った。マイクロトフに対して、こんな感情をいだいたのは始めてだったかもしれない。離れるといった自分すら許容するその強さに痛ましさを覚えずにはいられなかったのだ。
「わかったよ」
瞳をふせ、カミューはゆっくりと息をはく。
「おまえの言う通りだ。私にとってもおまえはそういう存在だ。何があっても何が起きても、例え二人の進む道が分かたれる日が来ても、けして揺らぐ事はない。実に陳腐な台詞で、口にするのも恥ずかしいが、全くもって、その通りだよ」
「陳腐はないだろう」
一瞬むくれてみせたものの、マイクロトフの顔には安堵の色がうかび、すぐに満足そうな笑みへと替わっていく。その男に、カミューも微笑みかける。
10の言葉より雄弁な微笑だった。
「確かめさせてもらってもいいか?」
言葉と同時に再び腕が伸びてくる。
「ご存分に」
とカミューはうなずいた。
「わたしもそうしたかったところさ」
旅立ちの日は、見事な晴天になった。
「マイクロトフがわたしについていてくれた間、カミュー様に忙しい思いをさせてしまってごめんなさい」
昨日、出立前の挨拶にと、私室にカミューを訪ねてきたカタリナは開口一番そう言った。
ハイランドの情勢を教えてくれた事に礼を言うと、カタリナは瞳を伏せた。双方に縁のある彼女は、何を尋ねられてもけして口にすまいと心に決めていたという。
その彼女にマイクロトフは最初から率直に全てを語ったらしい。
間諜かもという疑いをもたれていること。護衛と監視を兼ねて自分がずっとそばにいること。その間に、本拠地で生きる人々と自分たちの姿を見て欲しいこと。自分たちが作ろうとしている新しい時代に共感してくれるなら、戦いを終わらせるために必要だと思えたら、その時始めて、カタリナが知っていることを話して欲しいのだと。
「相変らず馬鹿正直でとっても不器用」
とカタリナは笑った。そういうマイクロトフのそばにいるのが辛くて、できればカミューに替わって欲しいと願いもしたのだという。
「そうしたら・・」
とカタリナの目がいたずらっぽく輝いた。
「すごい剣幕で断られたの。『俺はカミューを信じているが、まん万が一ほだされては困る!』って」
マイクロトフの口調を真似するカタリナにめまいがした。馬鹿正直にもほどがある。
「さすがに少し驚いたわ」
それはそうだろう。幼馴染の二人がいつのまにかそういう事になっていたのだ。それを知った時の驚愕は察してあまりある。
「・・すみません」
謝るしかなかった。カタリナは終始楽しそうに笑っていたが。
馬車に乗りこむカタリナの側に近寄っていくと、
「ご武運を」
と声をかけられた。複雑な思いがこめられたその言葉を、カミューはそっと胸の中にしまいこむ。大きな戦が迫っている。その戦いで剣をかわす相手の中には、カタリナの知り合いがいるかもしれないのだ。
「ありがとうございます。カタリナ殿もどうぞお気をつけて。ご幸運をお祈りします」
「私は大丈夫。とても幸せな一時を夫からもらうことが出来たから、それを糧に生きていけるし、もう一度あんな幸福を味わえる日が来るかもしれないと期待もしているから。」
カタリナはちらりと少し離れたところに立つマイクロトフに視線を走らせ、
「あなたがたも、どうぞお幸せに」
小さな声でつけ加えてくれた。
幸せな日々を糧に生きて行けると、再び幸福を望めるとカタリナは言ったが、それが口にするほど簡単なことではないとカミューは知っている。これから先も、胸がつぶれるような悲しみに襲われ、いきどころのないやるせなさに涙する夜は繰り返し彼女のもとを訪れる事だろう。それでも微笑んで見せるカタリナのその顔が、ゆっくりと崩れ、泣き笑いに変っていく。頬をつたう最初の一滴を目にした時、カミューは思わず腕を伸ばし、カタリナをその胸に抱きしめていた。
おしゃまで生意気だったお転婆娘。子供時代の最後の一時を共有した大切な仲間。自分を初恋の相手だと言ってくれた少女。
あれからいつのまに時は流れたのだろう。自分たちはいつの間に、こんなところまで、きてしまったのだろう。
カタリナの髪にそっと唇で触れながら、ああ、なるほどとカミューは思う。マイクロトフもきっとこんな気持ちでカタリナを抱きしめていたのに違いない。
視線を感じてふと顔を上げると、その当人と目が合った。青騎士団長はしきりに両手を握ったり開いたりしながら、こちらを凝視している。感情が爆発するのを必死にこらえているらしいその形相に、カミューはため息を落とした。どうやらこの事態はまったくもって彼のお気に召さなかったようだった。
ロックアックスに向かうカタリナの一行に時間の許すかぎり同行し、別れと餞の言葉を再びかわしあうと、カミューとマイクロトフは馬首を返した。
夕暮れの鐘が鳴り響く中、二人の騎士団長が馬を並べ、ゆっくりと本拠地へともどっていく。
その姿を目にした人々は、いつかのように手をとめてその光景に見ほれ、二人の騎士が身にまとうその鮮やかな色彩を、見事な騎乗姿を、そして二人の顔に浮かんでいた穏やかで満ち足りた表情に胸打たれたことを、その後までも語り合う事になったのだった。
歴史が動く。
新しい時代の幕開けはすぐそこまでせまっていた。
−FINー
「1年目の浮気」・・・浮気「騒動」にもならずに終わってしまいましたよ・・・(爆)
ぐるぐるしていても結局はらぶらぶ。(涙)それだけの話をここまで引っ張るか?と自分で既につっこんで、大変へこんでおりますので・・許して下さいませ。
ところで、パスワードはお分かりでしょうか?バレバレだとは思いますが〜。
タイトルの「Abendlied」は相変らずのドイツ語まがい。意味は、「夕べの歌」と言ったところです。夕べ・・はい、ここらへんですね〜。
それでは読んでいただいてありがとうございました。ブラウザの戻るでお帰り下さいませ。