忘れない背中
ちょっとした事でマイクロトフと喧嘩をした。
しばらく顔も見たくないと思って、勢い良く踵を返したのだけれど、そうして振り返った先に思いも寄らない光景が広がっていて、喧嘩のせいもあってつい冷静さを欠いてしまったのだと思う。
雪崩落ちてきた大量の本を避ける機敏さも失って、分厚くて重い書物の角が落ちてきたのは無慈悲にも両の足のつま先だった。身体中で落ちてきた本を受け止めながら、激しい痛みに声にならない叫びをあげて後ろに倒れ込んだ。
そもそもが女性の細腕でそんな大量の書物を運ぶ事に無理があったのだが、それを深く反省して青ざめて何度も謝りながら案じてくれるエミリアに、大丈夫だと笑顔は見せたものの。この時は騎士服でもない私服で、当然あの頑丈なブーツを履いていたわけでは無く普通の革靴で。
笑顔の下では流血は必至だと思えるほど右の親指と左の中指が燃えるように痛みを訴える。
「カミュー」
背後からさっきまでの喧嘩相手が、喧嘩の事も忘れたような声で覗きこんでくる。
「大丈夫か」
全然大丈夫なわけも無いが、さりとてマイクロトフを相手に虚勢も張る気も無く、しかし先程までの事情がカミューに理由の無い悔しさを募らせる。マイクロトフには無言で返し、痛みに耐えながら周囲に散った本を拾い集めてエミリアに笑顔で渡す。
そして心配そうなエミリアに気にするなと言ってその場を立ち去らせた。
だが、まぁ、図書館司書の背中を見送ってもなお、その段階になってもまだ立ち上がらないカミューに流石のマイクロトフも気が付いたらしい。
「立てないのか」
率直な物言いは時に相手の怒りを買うものだと、この男もいい加減学べば良いものを。
「分かっているなら手を貸せ」
朴念仁。
胸中で罵りながら、腕を出せばマイクロトフの大きな手がそれを掴む。だがそのまま力任せに引き上げられて、途端に両足に体重がかかってカミューは悲鳴を押し殺した。
「もしかして両足共か」
「……〜〜〜!!」
「歩けないようなら…」
「…歩、ける…っ」
抱き上げられそうになってカミューは慌ててそう言い張る。正直、体重がかかっただけでも涙が滲みそうなほど痛いのだが。
「肩だけ貸せ」
「………大丈夫か?」
少々荒い息で俯き痛みをこらえるカミューを、マイクロトフは心底心配そうな顔をして覗き込むのだが、それが返って腹立たしい。
さっきの喧嘩はなんだったんだ。
しばらくは顔どころか言葉すら交わさないつもりだったのに。出鼻を挫かれるとはこう言う事を言うのだろうか。
だからそうして肩を借りていざ歩き出そうと思っても、痛みやら情けなさやら悔しさが表に立って、しかも直ぐ真横に男の案じるような面差しがあって、自分でも理解不能の怒りが感情を埋め尽くした。
「その顔をどこかにやれ…!」
「なっ」
肩に掴まりながらの突然の怒りに、マイクロトフも面食らって声を失う。
「見てるだけで腹が立ってくるから、どこかへやってしまえ」
確りと肩は掴んで離さずにそんな事を言う己の無茶具合は百も承知だ。
「どこかへ…ってな、カミュー……」
「さっきまで見せられていたおまえの不機嫌面が思い出されて仕方が無い」
「………」
そこで漸くついさっきまでの喧嘩を思い出したらしいマイクロトフが、言葉に詰まって眉を顰めた。合わせてカミューも瞳を細めて真横の顔を睨み付けた。
「だから、どこかへやれ。そうしないと今にも殴り付けてしまいそうだ」
「殴られたくはない。だがおまえ一人では立ってもおれんだろうが」
「……だから肩を貸して、顔だけ何処かへやれと言っている」
「無茶を言うな」
「どこが無茶だ、やってもみないで言い切るな」
無茶は承知での発言である。なにせ痛いし、もう半分くらいわけがわから無くなってきている。だが、そんな破れかぶれなカミューの言葉にマイクロトフはなんと「それもそうだ」と思案し始めた。
そして。
「あぁ、よし」
ひと声頷いて、ひょいとカミューの腰を抱き寄せてかかえあげると壁際にその身を置いた。床に足先がついた時はまた痛みに声をあげそうになったカミューだったが、突然のマイクロトフの行動に怪訝さが勝る。
「マイクロトフ?」
マイクロトフはカミューに壁に凭れるように示してから、不意にくるりと向きを変えて背中を見せた。そして少しだけ背後のカミューを伺ってぼそりと言った。
「俺の顔が見えなければ良いんだろう。医務室まで運んでやるから、ほら」
ほら。
広い背中を見せて、そしてしゃがみ込んで見せる。それはつまり、おぶされと言う意志表示に他ならない。カミューは恐る恐るその背に手を伸ばした。
「早く、カミュー」
「…あぁ……」
呆然としながら、急かされるままに一息にその肩に両手を伸ばしてどさりと凭れかかって体重を預けた。途端に両膝の裏を攫われて、ぐいと身体ごと持ち上げられる。
「行くぞ」
「……ああ」
そしてゆらゆらと、揺れる背中の上でカミューは大人しくマイクロトフの黒髪を見詰めた。
確かに、これなら顔は見えない。
だが。
しかし肩を借りるよりも、腕に抱きかかえられるよりも近くないだろうか。
マイクロトフの歩調が直に感じられて、伝わる温もりは広く。
「ホウアン殿はおられるだろうか」
「……たぶん…」
前方からの言葉に応じる声が自然と小さくなる。
なにしろマイクロトフの声は接した背中から、響き過ぎるくらい良く響いて、後ろから肩に預けたカミューの耳に良く届く。
今や足の痛みなど別の次元のように感じて、やにわに早くなってきた自分の鼓動の方が痛いような気がしてくるカミューであった。
「カミュー?」
「………」
「痛いのか?」
決して振り向かずに、案じる声だけを聞かせる。
急に、さっきまでとは違う感情が芽生えて育った。
「うわっ」
唐突にカミューはおぶさったまま、マイクロトフの顔に手を回した。視界を塞がれて、驚いた声を上げてマイクロトフが立ち止まる。
「危ないだろう、カミュー。手を退けろ」
困惑したような声に、それでもマイクロトフは振り向かない。カミューはそろそろと手を引いて、だが背中の上でごそりと体勢を変えて乗り上げるように黒い髪を掴んだ。
「痛…っ」
「マイクロトフ」
「カミュー、いた…手、痛い」
「マイクロトフ」
「なんだ、離してくれ、頼む…っ!」
「マイクロトフ」
「だから、なんだ…!」
くるりと振り向いた、怒ったような泣きそうな顔に、カミューは掴み締めていた短い黒髪を漸く解放した。
「なんでもない」
「カミュー…!」
「ほら、医務室までもう少し」
肩越しに指を伸ばして廊下の向こうを指し示してやると、マイクロトフはぶつぶつと言いながらも歩調を早くする。
「あとで覚えていろよカミュー…」
「あぁ確り覚えておくよ」
くすくすと笑いながら、今度は背中の上でずるずると滑り落ちるようにすると、慌てて反動をつけて持ち上げなおされた。それでも背中に懐くように頬をくっつけてカミューは目を閉じる。
「忘れるものか」
「…カミュー……?」
揺れる僅かな振動。
息づかいすら背中ごしに響いてくる。
鼓動と共にどくんどくんと届く温もり。
忘れる事などできるものか。
見えてきた医務室の扉が、少しだけ残念に思えたのはマイクロトフには内緒にしておこうと思った。
おわり
お題がお題だけに、甘過ぎー……
2002/02/26
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