氷の溶ける音
部屋に戻ると、マイクロトフは扉を閉めるなりカミューの身体を腕の中に抱き寄せた。
「マイクロトフ?」
己の肩口から聞こえる声に、マイクロトフはさらりと目前の金茶の髪を撫でる。
「何があった、カミュー」
「……何が、って。別に何も」
「嘘をつくな。会議で何かあったのか」
「………」
黙りこむ。
こうなればカミューはなかなか口を割らない。
柔軟に見えて実はかなり頑固なところもある男だ。
酒場に入ってきた顔を見たとき、妙な違和感に気付いたのだ。
傍によって気のせいかと思った。
だが酒場の連中がマイクロトフを引きとめた時に、垣間見せた弱々しい表情に確信を得た。
普段ならば人前でそんな顔を見せることのないカミューだ。
いつだって凛として、毅然と構えている。
だがそれに綻びが見えた。
何もなかったわけがない。
「カミュー」
少しばかり語気を強めて名を呼ぶと、腕の中でびくりとその背が揺れた。
そしてどれほどの時間をそうして過ごしていただろう。
ふと腕の中でカミューの身体が重みを増したように感じた時、ぽつりと呟く声がした。顔は見えない。だがきっと萎れた顔をしているに違いないと思った。
「……マチルダを…」
「うん?」
「マチルダを、攻める時―――」
「……ああ」
会議でその話が出たか、とマイクロトフは納得する。
状況的にも戦略的にも同盟軍がマチルダを攻めるのは、もう自明のことだ。
マイクロトフとて心構えは出来ている。
しかし、カミューだってその筈だった。今更その事で落ち込むのには遅いし、妙な話だった。
「それでどうかしたのか」
「……とあるレディに……」
「誰だ」
「………」
そこは言いたくないらしい。相手を庇うつもりなのかなんなのか、カミューらしい態度にマイクロトフは溜息をひとつ吐いて先を促した。
「その人が、何か言ったか」
「ためらいはないのかと、言われたよ」
抱きしめたまま、マイクロトフは一瞬だけ言葉を失った。
ためらいなど、そんなもの―――。
あるに決まっている。
しかし。
「それで、カミューはどう答えたんだ」
「無用」
「そうか」
頷いてマイクロトフは再びカミューの髪を撫でた。
するとカミューの身体が身じろいで、マイクロトフを押し返すように腕を突っ張った。自然と、距離が生まれ俯けた顔が見えた。
「カミュー?」
「自分で言っておいて、妙な話だが」
彼の綺麗な唇がふと自嘲げに歪む。
「自分の言葉に、落ち込んだよ」
「そうか」
「レディも、傷つけてしまったかもしれない」
「そうか」
「だけどね、他に答えはないんだよマイクロトフ」
「…そうだな」
項垂れて自分を責めているカミューの姿。
マイクロトフはそっと手を上げて、カミューの顎先に指で触れた。
「カミュー」
そして促すようにして顔を上げさせる。
僅かな蝋燭の灯火のなかで、彼の琥珀の瞳が揺らめいていた。その瞳を真っ直ぐに見つめて、マイクロトフはふと微笑を浮かべた。
「大丈夫だ。きっと、分かってくれる」
「レディが、かい?」
「あぁ、いや……それもあるが、そうではなく、マチルダが」
「え……?」
「カミューは、マチルダを大切に思っているだろう。騎士団を大事に思っているし、マチルダの民の幸せも願っている。違うか?」
「違わないが、だけどマイクロトフ」
「ならば分かってくれる」
マイクロトフがカミューを想うように、そしてその想いにカミューが応えてくれたように。
どれほどに戦時下のやむを得ない事態だとしても。非常時でそれ以外に選択肢がなかったとしても。
誠意を忘れなければ、きっと。
「マチルダも騎士団も、カミューも俺も―――幸せになれる」
琥珀の瞳が、再び揺れた。
だがそのカミューの顔が、直ぐにもう一度マイクロトフの肩口に押し当てられて、その瞳が見えなくなる。ぐいっと、今度はカミューの方から抱き付かれて、己の背中にその手を感じる。
「カミュー」
ぽんと頭を撫でると、ややもして肩口からくぐもった声が聞こえた。
「……酔っ払いに慰められた」
「む」
「酔っ払いにまともな事を言われてしまった」
「そう何度も酔っ払いと」
「マイクロトフ」
「なんだ」
「酔った弾みで、恋人を押し倒す気はないか」
その時、マイクロトフの背に回っていたカミューの手に、ぎゅうっと力が篭ったのは気のせいではなく。
「ある」
即答した直後、部屋の明かりが掻き消えた。
部屋の外。
息を潜めていた男は、漸く扉からそろりと身を離した。
「……やれやれ」
蓬髪を掻き乱し、肩を竦める。
「ま、大丈夫だろうとは思ったけどよ、心配じゃねえかよ、なぁ」
誰に対しての言い訳か、ひとりブツブツと呟いてビクトールは張り番の騎士にちらりと視線をやって、にやりと笑う。
「さて、俺も飲みに行くかな」
そして同盟軍の夜は更けていくのであった。
end
えぇ、つまりそういうことで(笑)
2006/06/18
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