静かな夜のこと
ふと、カミューは読んでいた本から顔を上げた。
静かな秋の夜のことである。そろそろと忍び寄る肌寒さに、部屋にひとつある窓はきっちりと閉ざされている。だがカミューは本に栞を挟み卓の上に置くと、立ち上がり窓辺へと寄った。
そして暗い景色しか見えない窓の外をじいっと見つめた。
と、そこへノックも無く扉の開く音がしてカミューはハッとして振り向いた。そして扉から俯きがちにして遠慮なく入ってくる黒髪を認めて息を吐く。
「マイクロトフ……驚かすな」
「すまん」
悪びれず後ろ手に扉を閉める様を見て、カミューはやれやれと肩を竦め再び窓の外へと視線を戻す。
「何を見ている」
足音が真後ろで立ち止まる。灯りを受けて鏡のように室内を映す硝子越しに、マイクロトフの怪訝な表情が見えて、カミューは緩やかに微笑んだ。
「見ているのではないよ、聞いているのさ」
ほら、とカミューは窓を少し開けてみた。
「耳を済ませてごらん」
空けた隙間から涼しい空気が流れ込んでくるが、それと一緒に耳へと届くささやかな音がある。先ほどよりもずっと明敏に聞こえるその秋を感じさせる音にカミューは深く笑みを滲ませて目を閉じた。
ところがマイクロトフはカミューが何を聞いているのか分らないようだった。
「いったい、何を聞いている」
「分からないのか」
「人の声もせんし、何かの動く物音もせん。静かな夜だが……」
首を傾げるのにカミューは薄く目を開けて、小さく笑った。
「にぎやかな夜だよ。ほら、聞こえる―――大合唱じゃないか」
「聞こえんぞカミュー」
拗ねたような声がして、不意にカミューの体は背後のマイクロトフの胸の中へと抱き込まれた。そしてその広く大きな手がカミューの両目を覆い、耳元にその唇が寄せられる。
「こうすれば、お前の鼓動が良く伝わってくるがな」
そんな囁きが耳朶を直接震わせた。
「悪戯はよせ」
カミューは、低音の声から逃れるように身を捩り顔から手を離させると、苦笑を浮かべながら窓の隙間をもう僅かだけ広げた。
「聞こえるだろう。虫の音だよマイクロトフ」
最初からずっと絶え間なく聞こえてくる、小さな小さな音だった。一匹や二匹の音ではない。草むらに月の光に隠れて彼らは各々の音を出し、こうして人の耳に実に自然に聞こえる音を成しているのだ。
カミューとて何気なく気づいたそれを、偶さか部屋に入ってきたマイクロトフが気づかぬのも無理はなかっただろう。だがこうして言いさしてやればなるほどと頷く。
「あぁ、本当だ」
カミューに抱きついたまま息を潜めて耳を澄ます。そしてカミューも抱き締められたまま、再び目を閉じて神経を耳へと集中させた。
ところがそこへ、またそれまでに気づかなかった音が紛れてきてカミューは息を詰めた。
静かな呼吸音。衣服の布地が擦れ合うほんの小さな音。そして伝わる鼓動音。
「………」
いつの間にか虫の音よりも密接したマイクロトフの作り出す小さな音に気が向いてしまっているカミューである。途端に体の奥から滲むように顔が赤くなるのが自分で分かる。
風流よりも目の前の恋人が気になるか、とそんな有様に我ながらと苦笑して小さく溜息をこぼす。するとそれを聞きとめて何を思ったかマイクロトフがぎゅっと抱き締める腕に力を込めた。
「マイクロトフ?」
どうしたんだと後ろを伺って声をかければ、憮然とした声が返ってきた。
「確かに俺は虫の音など気付かん無骨だが、それも無理はないと思っている」
「なにを……」
「直ぐ傍にカミューがいるのに、他の事に気を向けることなどあるものか」
耳元でそんな殺し文句を吐いてくるのにたまらずカミューは今度は自分の手で目元を覆った。
「何を言うんだおまえは……」
「本当のことだ」
「……だからって…」
実のところ、もうすでにカミューの耳には虫の音など届いていない。全身が羞恥で今にも火がつきそうな気分である。そこへぐいとマイクロトフが動いて、指の間から覗けば腕が伸びて窓を閉じようとしている。
「部屋が冷える。閉めるぞ」
「あぁ…」
そしてパタンと閉じれば、途端にさっきよりもずっと静かになって、余計にマイクロトフの気配が顕著に浮き上がる。そんな存在に後ろから抱きすくめられているのだと言う現状に、堪らずカミューは逃れようともがいた。
「離せマイクロトフ」
「……断る」
「おい」
「虫の音よりも俺を見てくれカミュー」
不貞腐れたように言うからまた堪らない。こいつ……とカミューは呆れを通り越して笑ってしまった。
「莫迦」
はははと笑いながら罵るとまたむくれたように不満を言う。
「ひどいぞ」
「大概、鈍いお前もひどいと思うが。虫の音だってお前と聞くから良いんじゃないか?」
「……ん?」
首を傾げて数秒。マイクロトフはカミューの言わんとしていることに漸く気付いて嬉しそうに顔を肩口に埋めてきた。
「カミュー」
「はいはい」
懐いてくる大男の腕をぽんぽんと撫でてやりながらカミューは笑う。
気付けばいつの間にか秋だったのだなと、包み込む温もりを心地良く感じながらカミューは窓外の闇よりも暗い瞳を見つめる為に背後を振り返るのだった。
END
天然タラシ青。
そしてそんな青にめろめろな赤。
勝手にやって下さいな秋のバカップルでした。
2002/11/05
自力で戻って下さい