一夜忘れじ -ひとよわすれじ-
目覚めた瞬間にカミューは後悔していた。
夏の早朝。涼しげな微風が僅かに開けていた窓からそよと吹きそそぐ。戯れに浮いた髪をひと房撫でて過ぎ行くその風は、だがカミューの心に積もった深い悔恨を掃ってはくれなかった。
ただただ気鬱にとらわれてカミューは震える吐息をゆるゆると落とした。するとそれに呼応するかのように間近に同じように深い吐息が漏れた。
「なんてことだ……」
低い聞き馴染みのある声は、今朝ばかりは掠れている。昨夜に過ごした酒のためか、それとも寝起きだからか。カミューはゆるゆると重く気だるい身体を叱咤して身体の向きを変えた。
「マイクロトフ、起きたのか」
声を掛ければ間近に起き上がっていた身体がびくっと震えた。
「カ、カミュー」
恐る恐ると振り返った黒い瞳が最大限に見開かれる。
その様子に少なからず淡く温めていた気持ちを傷つけられたような心地に陥りながらも、カミューは努めて明るい声で返した。
「昨夜は何をしたか覚えているかい?」
問い掛けながら横臥の体勢で肘をついて見上げた。するとマイクロトフはうろたえるように瞳を揺らし、僅かに頷いた。
「ああ……その、俺は……いや、俺たちは…」
「飲み過ぎたようだな」
「あ、ああ」
戸惑うように持ち上げた片手を短い黒髪に差込み、マイクロトフは何度もまたたく。そして信じられないものを見るような目をしてカミューを見下ろした。
「俺は、おまえを」
「……生憎、酔った挙句の悪夢じゃない。体中が軋んで正直今、かなりきつい」
「すまん」
「別におまえが謝る事じゃない」
カミューは息を詰めてぐっと身を起こした。そして「お互い様だしな」と付け加えた。
昨夜は飲み慣れない酒を飲み過ぎたのだ。おかげで二人ともいつもと違う酔い方をして、何がどうなってと細部までは思い出せないものの、確かにベッドに傾れ込んだのだ。
親友同士の戯れにしては過ぎた行為だった。だが酔って正気を無くした思考に歯止めは無かったらしい。渦に飲み込まれるように行為に没頭して、そしてこうして翌早朝に理性を取り戻し、愕然としているのだ。
カミューは苦く笑って乱れた前髪をくしゃりとかき上げるとマイクロトフを見た。そして目覚めた瞬間に後悔と共にそうせざるを得ないだろうと心に決めた言葉を発する。
「忘れよう」
マイクロトフが「え?」と小さく声を上げた。
「昨日のあれは無かったことにしようと言ってるんだよ。そうでなければこの先やり辛いだろう?」
カミューはマイクロトフとの友情を失いたくなかったのだ。マイクロトフの側に友愛以上の好意がない限り、忘れる以外に変わらぬ付き合いを続けるなど無理ではないか。だとすれば、たとえカミューにとっては忘れ難い一夜であっても表面上は無かったことにした方が良い。
だからカミューはこの提案を頼むから呑んでくれと、祈るように俯いた。しかしマイクロトフの答えはそんなカミューを落胆させた。
「俺は、忘れる事などできん」
「マイクロトフ…」
「無理だ」
短くとも重く告げられた言葉に、カミューは黙り込み顔を顰めた。その傍らでマイクロトフはごそりと身を動かし、勢いよく寝台から飛び出すと床にあられもなく散っていた衣服を拾い上げて行く。
「俺は無かった事にはできん。いや、そうはしたくない」
俯いたまま顔を歪ませているカミューにマイクロトフは背を向けたまま次々と衣服を着込んで行く。そうしながら毅然と言い放ったのだ。
「すまんがカミュー、もうおまえとは友人付き合いはできん」
え、とカミューの意識が空白状態に放り込まれた。
どういう意味だと慌ててマイクロトフを振り仰げば、酷く苦しげな顔をしてマイクロトフはきっちりと着込んだ服の皺を掌で撫でながら言った。
「俺は……もうおまえを以前のように友人と見る事はできん。残念だが、今日を限りにこれまでの付き合いを終わらせる」
そして苦痛を帯びたような表情のまま、マイクロトフはくるりと踵を返すと最後にもう一度「すまん」と言い残し部屋を出て行った。その背を見送り、取り残されてカミューは呆然と敷布を握り締めた。
「マイクロトフ……?」
今、なんと言ったんだ。
問うても返る答えは無かった。
+ + + + +
たった一夜のことだった。それだけの事だったのに、もう取り返しがつかないと言うのだろうか。
カミューはあまりの呆気なさに喘ぎ、遣る瀬無さに机に伏した。
あれから、もう既に十日あまりの日々が過ぎていた。その間、マイクロトフとの交流は一切断たれていた。相手の意図によるだけにカミューには自ら出向いて問い質すだけの意思もわかない。それでもしも最後通牒を叩きつけられたら立ち直れないような気がしたからだ。
密かに育てていた愛情は、酷く脆くて少しの事にも簡単に砕けそうだった。
最初から受け入れられるとは思ってもいなかった。だからこそひた隠しにしてきた想いだ。それだけに一夜の甘い記憶はカミューをほんの一瞬の陶酔に引き込む。しかしそれと引き換えにそれまで必死で繋げてきた友誼を絶たれると知っていたなら、如何に酔っていたとは言え必死で阻止したに違いなかったのに。
後悔はだがいくらしたとて限りが無かった。
カミューはこの十日、ただじっと息を詰めてマイクロトフの動きを見守り、その些細な仕草に何かしらの意思が見えはしないかと必死で探しながら、一方ではもう二度とかつての様に気の置けない友人関係は取り戻せないのだと後悔と哀しみに苛まれていた。
ところが、そうして誰にも打ち明けられぬが故に、一人密かに嘆き苦しむカミューに、唐突に呼び出しの手紙が舞い込んだ。差出人の名はマイクロトフで、今日の執務後に城の中庭の一角、人気のない木立のある場所で待っているといった内容だった。
カミューは手紙をじっと見下ろし暫し思案に暮れた。
いったい何の用向きなのだろう。あれからただの一言も交わさず姿すら見ていない。元々団が違えばそう出会う機会も無い。互いに会おうと努めていたからこそ共に食事を摂ったりと出来ていただけなのだ。それがこの数日は全くの音沙汰もなしでいたものを。
そしてカミューはあの日の朝の事を思い出していた。
一言「すまん」と告げて去ったマイクロトフ。あれが最後の言葉だった。友人付き合いはこれっきりだと言った顔は辛そうで、カミューと同じく酷い後悔に苦しんでいたようだった。
あの時マイクロトフは確かにもうカミューを友人とは見れないと言った。そしてあの男に限り二言は無い。だとすれば呼び出す理由に、あの言葉を撤回するという事項は含まれないのだろう。ならばこれは何のために寄越された手紙なのか。
カミューは考えて、そして思いついた理由に泣きそうになった。
まだぐずぐずと未練を残しているカミューに念を押そうというのでは無いだろうか。マイクロトフの噂に耳を傾け、もし会えたなら変わらず挨拶だけでも交わそうと企んでいた。それを察して引導を渡そうというのでは。
友人としての顔は失っても、騎士として同期の顔がある。それすら、失ってしまうのかもしれないと。そう思ったらあまりの虚無感に足元から力が抜けそうになる。カミューにとってマイクロトフの存在がなくなるなんて想像し難い、耐えられないことだったのだから。
カミューはそしてあれこれと埒もなく考え、執務の終わる頃には動悸と息切れで今にも倒れそうな心地だった。それでも行かねばなるまいと立ち上がる。
それに、とカミューはきゅっと唇を噛んだ。
これでもう駄目となるのなら、最後にせめて想いを伝えたら良い。どちらにせよ二度と言葉が交わせなくなるのなら、自分の本当に正直な気持ちを告げたいと思った。
マイクロトフには心底嫌われてしまうかもしれないがと、そんな己の決意を自嘲しつつカミューは指定の場所へと一人向かった。
+ + + + +
果たして、マイクロトフは既にそこに来ていた。
遠目にも決して見間違えたことの無い背を見つけてカミューの心臓がどきりと跳ねる。近付くにつれ久しぶりに見るその制服の青に目眩すら覚えた。だが靴が草を踏む音が聞こえたのだろう、不意にその背が振り返った。
「カミュー」
名を呼ばれて不自然なほどに顔が引き攣った。そして途端にぎくしゃくと、出来の悪い人形のように動きがぎこちなくなる。決意に今にも下がりそうな顎を持ち上げマイクロトフを見詰めてカミューは唇を震わせた。
「マイクロトフ」
小さな、風に攫われてしまいそうなほどの声でカミューは名を呼んだ。するとマイクロトフは生真面目な顔をしてこくりと頷いた。
「来てくれて良かった」
「………」
本当は最後まで来るべきか悩んだカミューだった。それでも、本当の心を告げようと思ったから、引き返したがる足を引き摺って此処まで来たのだ。だがここにきてカミューはまるで声が出なかった。目の前にマイクロトフがいて自分を見ているのだと思うと喉が凍りついたようになってしまう。
そうするうちに、視界に映っていたマイクロトフの靴先がすっと動いて一歩カミューに近付いた。
ハッとして顔を上げるといっそう表情をなくしたマイクロトフがカミューを見詰めていた。
「マ、マイクロトフっ」
「……ん?」
「わたしもおまえに話があるんだ」
早口に告げた。そして勢いのままに告げてしまおうとしたが、目の前のその顔が怪訝に曇るのを見て舌が硬直する。
「そ、の……」
「待ってくれカミュー。まず俺の言うことを聞いてくれないか」
遮られはっきりと言われてしまえばカミューには黙り込むしか術が無かった。どうしてこれほどまでに情けないのだろうかとカミューは歯噛みしてまた俯いた。そこへまたマイクロトフが一歩近付く。
「カミュー」
意識してのものではないのに、肩がびくりと震える。最悪の展開を一足先に想像して血の気が引いて行く。カミューはぎゅっと拳を握り締めてマイクロトフの次の言葉を待った。するとひとつ咳払いが聞こえて目の前に大きな掌がすっと差し出された。
「カミュー」
もう一度呼ばれてカミューは「え……」とゆるゆると顔を上げる。するとそこには顔を赤くしてじっとこちらを見据えるマイクロトフがいた。そして。
「俺と付き合ってくれないか」
と、そう言った。
少しの間が空いてから、カミューはぽかんと口を開けたまま「え?」と尋ねていた。するとマイクロトフはぐっと顎を引いて差し出していた手を握り込んで答えた。
「今までの友情を盾に迫るつもりは毛頭ない。だから正直な気持ちを聞かせてくれカミュー。嫌ならそうと言ってくれたら良い。だが良いのなら、俺と付き合ってくれないか」
「マイクロトフ…?」
「俺はもうこれ以上おまえをただの友人として扱う真似はできんのだ。あんな事をしてしまって、だからここで一度けじめをつけたいと思う」
そしてマイクロトフは奥歯を噛み締めてカミューを真剣な目で見た。
「それでもどうけじめをつければ良いのか悩んだのだが、十日も考えて結局正直な気持ちを言おうと決めた。いちからやり直したいと思うんだ」
「…それって、マイクロトフ……」
自分が考えていたこととまるで同じではないかとカミューは呆気に取られていた。
それでは、もう友人付き合いはできないと言ったのは、友人以上の付き合いを望むからで、忘れるのが無理だと言ったのはつまり……。そこまで考えたところでマイクロトフがまた一歩踏み出してカミューの手をがしっと握りしめた。
「好きだカミュー。俺と付き合ってくれ」
じゅっと、熱で身体が焦げるんじゃないかと思うほどカミューの全身は熱くなった。
「マ、マ、マイクロトフ……」
「この前の夜の事は酔っていたとは言え、本当に済まない事をした。気持ちもなくする行為ではないのだから、おまえが忘れようと言ったのは分かる。だが俺はあの時、本当に嬉しくて幸せでならなかった」
マイクロトフは何かに追われているかのように口早に思いのたけをぶつけてくる。カミューはその全てを受け止めるのに必死でただ口をあんぐりと開けたまま真っ赤な顔で硬直していた。
「こんな事を言えばおまえが怒るだろうと思ったが、だが俺はあの夜の事は絶対忘れない。これっきりおまえとの付き合いが絶たれるような事があってもだ。俺は、おまえの事がずっと好きだったんだ」
そこで、カミューの思考は混乱の極地にあって突然に働く事をやめたらしい。
「うわ、おいっカミュー!!」
気が抜けたとでも言うのだろうか。極度の緊張を保ちながらこの待ち合わせの場所までやってきたカミューである。そして最悪のシナリオばかり巡らせていたところでこの仕打ちであった。それまで強張っていた全身の力が抜けて膝からがくっと崩れ落ちそうになる。慌ててマイクロトフが支えるも、そのままずるずると地面に座りこんでしまった。
「カミュー。どうした、大丈夫か」
「……い」
「なんだ?」
「大丈夫じゃ、ないぞ……マイクロトフ……」
カミューはぐったりとしたままよろよろと片手をあげて自分の顔を覆った。そして隠れた口元から微笑みが零れる。
「ははは、なんてことだ」
「カミュー?」
「最高だよマイクロトフ。くっくっく……」
そして声を上げて笑い始めたカミューを、ずっと腕の中で支えながらマイクロトフは困惑も顕わに問い掛ける。
「お、おい、カミュー。どうしたんだ」
「いや、ごめん。ちょっと気が抜けて」
はははと笑いながらカミューはマイクロトフに支えられながら自力で姿勢を保つ。そしてひとしきり笑い終えて息をついた頃、マイクロトフが不安そうな顔をしてカミューを見詰めた。
「カミュー。すまんが、返事を聞かせて貰えるだろうか」
「え? 返事? あ、ああ」
きょとんとして、それからカミューははにかんで頷いた。
返事など最初から決まっている。
カミューはにっこりと微笑むと、緊張しているらしいマイクロトフの耳元に唇を寄せて囁いた。
「あの夜は、本当はわたしもとても嬉しくて幸せだったんだ。絶対に、忘れない」
今度はマイクロトフの気が抜ける番だった。
END
片思いするのは赤さんが良いです。
でも告白するのは青からと言うのも素敵ですよね!
男らしくばーんと言って欲しいです。
2002/10/27
自力で戻ってください