傷 口
妙な場所を怪我したものだ、とカミューは我ながらその器用さに笑った。
利き手の親指の付け根。ちょうど人差し指との谷になる場所に小さな切り傷を作ってしまった。原因は割れたグラスであった。うっかり手から取りこぼしたグラスをすかさず掬い上げようとしたのだが、場所悪くそこにはテーブルの角があった。受け止めようと広げた手の直ぐ側で音をたてて砕け散ったグラスの破片が、勢い良く飛びつつもそんなカミューの掌を傷付けたのだ。
最初は結構な血が流れたのだが、それが止まった後はただもう疼くような痛みしか残らなかった。ただそれが暫くして妙な弊害をもたらすものだから少々戸惑った。
物を力強く握ると、傷口が開くのだ。
これが利き手では無い方の手だったならまだしも大丈夫だったろうが、こうなって見れば利き手と言うのは日常から随分と使役されているものだ。気がつくといつもふとした小さな痛みに顔を顰めている。
その時もカミューは椅子を引こうとしてその背凭れを掴んで力を込めたところで顔を顰めた。
「………っ」
手袋をしていてもその感触で分かる。また、傷口が開いた。
いかに寝起きが悪かろうと、普段からのんびりと過ごしているように見えていても、至極健康な成人男子であるからして、カミューの新陳代謝はホウアンも太鼓判を押すほどである。だからこんな些細な切り傷などいつもなら直ぐに治癒するところなのだが、これが中々治らないのだ。
「どうした」
動きを止めて右手を見下ろすカミューを不審に思ってか、マイクロトフが声をかけてきた。今日はレオナから譲り受けたカナカン産の珍しいワインで宵を過ごそうと言うので、マイクロトフを自室に呼び寄せていたのだ。
「いや、ちょっと怪我をして」
「手をか?」
首を傾げるとマイクロトフは貸してみろと、有無を言わさずにカミューの利き手を取ると手袋を剥ぎ取った。カミューは戸惑いながらもそんなマイクロトフに抗わず黙って成すがままにいた。
「どこだ。あぁ……ここか」
少し血が滲んでいるのを見つけてマイクロトフは眉根を寄せて不機嫌そうな顔を作った。
「いつ頃だ」
「一昨日の晩かな。グラスでスパッとね」
「あぁ、それはさぞかし綺麗に切れたろう。直ぐ繋がりそうなものだが」
「うん、それがねぇ」
事の次第を説明するとマイクロトフは苦笑を浮かべた。
「難儀なものだな」
まぁ用心することだなとマイクロトフはカミューの手を離した。
「しかし、カミュー。おまえ両方とも利き手同然に使えたのではなかったか?」
問われてカミューはコクリと頷くが、どうしても無意識に動くのは慣れた方の利き手であった。
「つい、ね」
滲んだ血が乾いていくのを見下ろしながらカミューは首を傾げる。
「おまえだって両手とも器用に使うくせに、右手ばかり使うだろう? いつでもさ」
そしてカミューはマイクロトフの騎士の紋章が宿る右手を取った。
「剣を使うのも、ペンを握るのも、わたしの髪を撫でるのも」
な? とにっこり笑ってカミューが言うのに、その最後の部分でマイクロトフが意表をつかれて顔を赤くする。
「た、確かに……」
右手をカミューに預けたまま、残った左手で口元を覆ってマイクロトフは肯定を示す。カミューは益々笑みを深めて、己の手におとなしく委ねられているその男らしい大きな手をぎゅっと握った。
途端にぴりっとまた小さな痛みが走ったが、それよりも手の中の暖かさの方が心地良くてカミューは幸せそうに笑った。
「だからわたしの中では不思議と、おまえの左手よりも右手の方が馴染みがある」
そしてカミューはマイクロトフの左手をも取ると合わせて見比べた。
「おまえは右ばかり使うから、やはり左右で随分と違うね」
肉付きからその指の太さまで。無骨でがっしりとして硬い右手に比べて、左手は男らしく在るもののどこか品が見える―――。戦う事が本業ではあるが、日常では手指が酷使される事の無い暮らしをしているのだから、その手はとても綺麗な部類に入るだろう。無論、カミューの手も似たり寄ったりだったが、マイクロトフほど左右に差異は無い。
「時々には左手でも触れてくれ」
そしてカミューはその左手の指先に唇を触れさせた。意外にさらりとした感触の温もりに、そんなカミューの口の端が僅かに笑みを刷く。
「わたしはどちらのおまえの手も、好きなのだから」
そこまで告げると、不意にマイクロトフの身体が沈んだ。
驚いて見下ろせば両手をカミューに預けたまま床に膝をつき、顔を真っ赤にして在らぬ方を向いていた。
「勘弁してくれカミュー。あたまに血を上らせて俺を殺すつもりか」
「なんだ、照れているのか?」
くすりと笑うとマイクロトフは赤い顔のまま眉を寄せた。
「違う。嬉しくてどうにかなりそうなだけだ―――くそっ」
悪態を吐くなりマイクロトフは両手を取り戻すと、あっという間に目の前のカミューの両足を抱え込み立ち上がった。
「おいっ」
慌てたのはカミューだが、楽々と肩に担ぎ上げられてしまうともう抵抗の隙さえなく、寝台へと運ばれてしまう。
「願いどおり、今夜は左手でおまえを愛する事にしよう」
「………」
やり過ぎたかなどと思っても、実際の本音ではあったし確かに自覚がなくとも充分な誘い文句だったろう事に気付いてカミューは大人しくマイクロトフを見詰め返した。
「ではまずマイクロトフ。この傷がまた開かないように確り手を握っておいてくれるかな?」
親指の付け根にある傷口。
結局はまたそれが開いて血を滲ませる事になるのだろうが、今夜ばかりはその痛みに顔をしかめる事は無いだろうと考えるカミューだった。
END
やなところに切り傷を作ったのは実は座谷
それにしても気が付いたらいつも以上にラブ甘い二人になってしまった…
2002/09/15