格子の向こう


 不意に、眼下の景色にカミューは意識をとらわれた。

 ―――マイクロトフ。

 視線の先にはただ普通に歩く男の姿がある。
 遠目にも、その仕草や気配だけではっきりと識別する事が出来る、誰よりも何よりも特別な存在。我ながら不可思議に思うほど、こうして見ているだけで胸の内に温かみが込み上げる。それは激務に身をやつす最中のほんの癒しとなった。気付けば柔らかな表情になっている。
 そんな己を省みながら、視線だけは男の姿を追い続けている現状に、ふ、とカミューは口許に笑みを浮かべた。



「今日の昼頃、図書館の前を歩いていたろう?」
 彼の男がベッドの上で胡座を組む、その脇に疲れた身体を横たえながら、カミューはくすりとその時の事を思い出して笑った。
「いつもおまえは速く歩くから、直ぐに見えなくなってしまったけど。その時わたしは二階の通路を…歩いていたんだ」
「そうだったのか」
 低い声が耳に染みる。そしてマイクロトフが、読んでいた本から視線を外し、その先を己に据えたのを感じてカミューは目を閉じた。するとそれを追うように髪に武骨な指が差し込まれる。
「良く見つけられたな。今日あそこを通ったのはその一度きりだ」
 カミューの髪を撫でながら、穏やかな声がそう言う。その撫でる指も、耳朶に触れる声も暖かくて心地良い。いや、良過ぎて困る。片手を億劫に持ち上げて前髪を掻き揚げると、そのまま髪を梳くマイクロトフの手に触れてその動作を止めた。
「カミュー?」
「うん……。眠くなってきてしまう…」
 すると頭上で男の微笑む気配がした。
「寝ても構わんぞ」
「あぁ……」
 そして今度は触れた手を撫でてくる男の手に益々眠りを誘われる。
「なら少し、眠るよ。ほんの数分で良い…から」
 半分まどろみながら漸くそれだけを告げると、微かにマイクロトフが低く「ああ」と聞くのを最後にカミューは溶け込むように眠りについた。

 そしてカミューは昼間と同じ場所に立って居た。
 だが、それが夢だとは直ぐに解った。時折、夢を夢とはっきり認識する場合があるが、今がまさにその通りだった。左右の景色はおぼろげなのに、正面にある窓とその向こうに広がる景色だけがやけに鮮明なのだから、これは苦笑するしかない。今日一番印象強かった出来事がこれだったというわけだ。
 この感覚だと、今は恐らくマイクロトフがそこを通り過ぎる前の頃だろう。あと幾らかも経たない内に男はそこを通り過ぎるに違いない。なるほどこれは昼の出来事の再現なのだ。
 だがふと、窓の外を眺めるカミューの脳裏に、ある警鐘が鳴り響いた。

 ――― 一度きりしか通らない。

 そうマイクロトフは言っていた。一度しかそこを通らないのだ。もしそれを見過ごせば二度とマイクロトフは目の前を通らない。カミューは、二度とマイクロトフが歩くあの姿を見ることが出来ない。
 夢とは斯くも矛盾するものである。カミューの頭はそれでいっぱいになってしまった。
 決して見逃すまい。機会は一度だけなのだ。
 そう心に刻みつけると、カミューは身を乗り出して窓の格子を両手で掴んだ。

 ―――格子?

 何故この窓に格子などあるのだ。こんな不躾なものが嵌っていては外の景色が遮られてしまう。
 しかし鉄で出来たそれは等間隔に、ぴったりと嵌ってあって、渾身の力を込めて揺すってもびくともしなかった。

 ―――駄目だ。取れない。

 頑丈なそれを目の前に、徐々に焦りがカミューを支配してくる。その瞬間はもう直ぐそこまで迫ってきているのだ。他に何か良い手立ては無いのか。間違い無くマイクロトフの歩く姿をとらえられる方法は―――。
 しかし左右を見ても、そこはおぼろげではっきりとしない。ただ目の前の窓とそこに嵌る格子だけが鮮明なのだ。

 ―――このままでは…マイクロトフを見失う。

 マイクロトフを二度とこの目に収める事が出来なくなる。
 その強迫観念のような焦燥は益々募り、とうとうカミューから一切の思考能力を奪ってしまった。何も思いつかない。ただ冷酷な格子を前に為す術も無く、その隙間から手だけしか伸ばす事が出来ずにマイクロトフを見失ってしまうのだ。

 ―――あぁ…。

 何も出来ないのか。
 どうにもならないのか。
 カミューはそして再び両手で格子を握り締めるとそこに縋った。もう直ぐ通る。せめてこの隙間からでもあの特別な存在を見つけるのだ。可能な限り目を見張って、何も見過ごさないように。
 だが、目の前の風景は変わらぬ空間を提供するばかりで、そこに男の姿が現れることは無かった。と、そこで不意に冷やりとした塊がカミューの鳩尾に落ちた。まさか―――。

 ―――まさか、見過ごした?

 それは恐ろしい仮定だった。
 既に見過ごしてしまったというのか。先ほど格子を外そうとして叶わず、他に手立ては無いかと窓から一瞬目を離した。まさかその隙に通り過ぎてしまったのか。
 まさか。まさか、まさか…!

 夢だと解っていながら、それは何にも勝る絶望だった。
 もうそれは過ぎてしまったのだ。カミューは機会を失った。これでマイクロトフとの全てを永遠に無くしてしまったのだ。もう、二度とあの特別な存在を見る事も触れる事も出来ない。
 両手に掴んだ鉄の格子が、ひたすら氷の如き冷たさをかもす。夢の中でそれを握り締めたまま、カミューは呆然とその恐慌に身を覆い尽くされていったのだった。



 ふと、頬に暖かいものを感じた。
 薄らと目蓋を上げると、暗い視界の中で更に暗く青味がかった黒い瞳がこちらを見詰めているのだと気付いた。
「…カミュー?」
 掠れたような低い声が、カミューの覚醒を促した。
「マイクロトフ……」
 声に出してその名を呼ぶと、黒い双眸が間近に迫って微笑んだ。
「夢から、覚めたか」
「……え?」
 ぼんやりと問い返すと、頬から温もりが消えた。
 あ、と思う間もなくそこに触れていたのはマイクロトフの掌だと知った。それが今度は優しく髪を撫で、こめかみの辺りを指で拭った。
「まるで氷みたいに冷えていくから、どうしたのかと思ったぞ」
 そこで始めてカミューは自分が全身冷や汗に濡れていることに気付いた。それをマイクロトフの掌が温めていく。
「暗くて良くは見えないが、顔色も悪いな。いったいどんな夢を見たんだ」
 問われてカミューは夢の内容を思い出し、切なく眉を寄せた。
「―――格子が」
「ああ」
「格子に遮られて、わたしはおまえを見失ってしまったんだ」
 吐息と一緒に吐き出すと、まるで言葉は魂を得て力を持ったかのように、カミューの意識にこびり付いた。

 ―――そうだ。見失ってしまったんだ。

 カミューは両手を持ち上げるとそれで顔を覆った。
「わたしは、おまえを見過ごした……二度と、その機会は無かったと言うのに……」
「俺は格子の向こうにいたのか?」
 そこを通るはずだった。だが、カミューはマイクロトフを格子の向こうに見つけることが出来なかった。
「…分からない……おまえの姿を、少しも見つけられなかったから」
「ならカミュー、俺は多分格子のこちら側にいたんだ」
「………?」
「分からないか? 俺は格子の向こうではなく、カミューのいる側にいたんだ。だから、今度は格子の方ではなくてな、ゆっくりと後ろを振り向いてみろ」
「後ろ…か」
「ああ、後ろだ」
 耳に馴染んだそれよりも、いっそうカミューの意識を甘く痺れさせる声が、再び眠りへと誘う。
「…後ろを……見れば…?」
 呟くと、まるで声無き声のようにそれはカミューの思考の内へと響いた。



 翌朝―――。

 目覚めた瞬間カミューは跳ね起きた。
 ハッとして振り返ると、果たしてそこにはマイクロトフの寝顔があった。突然跳ね起きたカミューの動作に覚醒を促されてはいるようだったが、確かにそこにいた。刹那、カミューの頬に朱が上る。
「………っ」
 その寝姿の生々しさは、夢で見たそれよりもいっそう実感を増してカミューを狼狽させた。
 確かに、振り向けばマイクロトフはそこにいたのだ。聞いた通りに素直にゆっくりと振り向いた先に、いた。そしてカミューを抱き締めてくれた。それから熱い口付けを施して、格子を掴んで冷え切った手を温め、冷や汗に塗れた肌を拭い、そして―――。
 そこでカミューはすっかり衣服を取り払われた自身に気が付いた。
 そして早朝の白々しい暁光の明るさの中、覚えの無い鬱血の痕も見つける。
「こ……この……」
 耐え切れず、拳を作ると傍らの黒い頭に振り下ろした。
「―――っ痛……な…カミュー?」
「マイクロトフ…おまえ」
 たかが夢に翻弄され、それをこの男に慰められ、夢の中で受けた愛撫を実際にその身に受けていたこの恥ずかしさ。拳骨の一発や二発でおさまる筈も無い。もう一度強く拳を握り締めると、再び寝惚け眼のその黒髪を殴り付けた。
「痛っ、カミュー。うわっ、よさんか」
「煩い!」
 確りと目覚めたらしいマイクロトフが両腕でカミューの拳を庇うのを見て、今度は足を繰り出して蹴りつける。
「人が疲れ切って眠っているのを良いことに、おまえと言う奴はっ!」
「すまん。いや、だがカミュー、おまえだって夢うつつ抱き返してきたぞ?」
「分かっているさ! ああ、くそっ」
 夢の中で確かにカミューはマイクロトフの抱擁を受け入れ、そして甘受した。しかしカミューにとってそれはあくまで夢の中であって現実ではないのだ。それを目覚めてから現実として突き付けられるなどとは。
「分かっているからこそ!」
 ドン、と最後にマイクロトフの胸を叩いてカミューは空気が抜けるようにベッドの上で脱力した。
「消えて無くなりたいとはこんな時に言うんだろうな」
 そんな事を呟く。するとマイクロトフが恐る恐るカミューの肩に両手を触れさせてきた。
「しかし……その…」
 いかにも言い難そうにマイクロトフは呟いた。

 ―――とても素直で俺は嬉しかったぞ。

 カミューがもう一発拳骨をお見舞いしたのは言うまでも無い。


END



らぶあまのバカバカップルを書く時ってどんな状態?
と言う話題がありまして、そういえば自分は拳を握って震えながら書いているなと
では最初から拳を作って書き始めるとどうなるのかなと試してみたら
こーなりました(笑)

2000/09/27