距離感
デュナン湖のほとりに立つその城の敷地は広い。居住区、商店街、執務区域、訓練場から図書館などの施設まで。建物の他にも水鳥の浮かぶ小さな池や、緑豊かな芝の広がる公園もある。もはや都市と呼ぶに相応しい、その敷地の中にはやはりそれに見合う雑多な人々が暮らしていた。当然ながら希少ではあるが変わり者も住んでいる。
その変わり者の筆頭が、宿星に名を連ねる自称発明家のアダリーである。
アダリーは常日頃から城内に設けられている自分の発明品、エレベーターの整備に余念が無いが、その新型開発もまた常に念頭に置いていた。
敷地内の、余人の迷い込みそうにない外れた場所に、その小屋はあった。
狭い小屋の内部は見た事もないような珍奇な部品や使い道のわからない道具が乱雑に散らばっている。そして今、ガタガタと不快な振動音が、単純な作りの小屋全体を震わせていた。
「む、いかん」
振動の只中にあるその人物がそう告げた時が、その時だった。
――――どおん。
轟々と爆音が弾けて、小屋がひとつ丸々瓦解したのは、のんびりとしたある日の午後。
その盛大な音にすわ何事かと、城内から兵士や一般人がわらわらと飛び出し顔を覗かせ、轟音の元凶がアダリーの研究所を兼ねた小屋と知ると、なんだと呟いて日常へと戻って行った。たまたまそこを通りがかった元マチルダ赤騎士団長のカミューも、くすりと笑って去ろうとしていた。
「おや?」
しかし視線の端に見慣れた青い服が見えた。目を細めて潰れた小屋から漂う白煙の中を見詰めると、やはり間違いない。
「マイクロトフ?」
驚いて駆け寄ると、マイクロトフは顔を顰めて辺りに散った瓦礫を押し退けながら、よろよろと横たえていた身を起こした。そしてその直ぐ傍らではアダリーが目を回して気絶をしていた。
アダリーは転げた拍子に頭でも打っていたらしい。ホウアンが探ると頭部に大きなたんこぶが出来ているとの事だった。今は医務室のベッドに枯れ木のような身体を横たえ、安静を保っている。
だがマイクロトフの方はと言うと、これが大変な事態になっていた。
「どんな感じですか?」
いつも柔和な口調で患者に語りかけられるホウアンの声は、だが幾分声量が大きい。しかも口許に掌を添えて、遠方に呼びかけるが如くのそれ。
「壁越しに聞いているような感じだ」
そしてそんなマイクロトフの応答に、傍にいたカミューの表情が曇る。だがホウアンは軽く首を傾げただけで「大丈夫ですよ」と微笑んだ。
「耳の何処も傷付いた様子はありません。爆発音の大きさに一時的に麻痺しているだけでしょう。明日の朝頃には元に戻りますよ」
「そうですか」
ホッと息をついてカミューはマイクロトフを見やった。だが首を傾げて両耳を探っている姿を見るなり、再び眉をひそめ深い吐息を落としたのだった。
医務室を後にして、取り敢えず私室へと戻りざまマイクロトフは漸く事情を語った。
「窓から見たらあの小屋が物凄く揺れていてな。で、何事かと尋ねに行ったら実験中だったらしいアダリー殿が『いかん』と仰って、慌てて小屋を飛び出したらあの爆発だ」
そんな危険な作業を黙認していて良いのか同盟軍。
幸い火は出なかったが安普請とはいえ小屋が丸々吹っ飛ぶ実験とはいったいどんなものなのだろう。しかし、以前小耳に挟んだことがあるが、アダリーはサウスウィンドウにいた時も市中の自宅で爆発騒ぎを繰り返していたらしい。よくも今まで五体満足でいられたものだとカミューは見当外れな感心をしていた。
「なるほどな」
上の空で返事をし、辿りついた私室の扉に手を伸ばそうとした。ところが脇からマイクロトフの腕がすっと伸びていち早く取っ手を掴む。そして。
「なんだ?」
背後から覗き込むように聞き返してくる。
「え? あぁ、なるほどなと、そう言ったんだよ」
やや声を大きくして答える。
するとマイクロトフは「ああそうか」と苦く笑って扉を開けた。
「耳が良く聞こえないと言うのは、面倒だ」
部屋に入りながら呟くのにカミューは「あぁ…」と嘆息した。
普段通りの声量では聞き辛いらしい事を、つい忘れがちになる。明朝には治るとはいえこれは結構不自由かもしれない。それでも時が経つのを待つしかないので、どうにも出来ない。
「ま、今晩だけか」
軽く呟いてカミューは肩を竦めたのだった。
なのに。
何故その今晩に限って、会話の隙にふと漂った気配にとらわれるのか。
何故今晩に限って、手を伸ばせば届く距離にいたのか。
――――あぁ、そうか。
腕を引かれ、瞬く間にその胸に抱き込まれながら、カミューはぼんやりと思い至る。
常よりも聞き取りにくい会話に、自然と距離を詰めていたのだ。
聞こえない、と聞き返してくるマイクロトフの顔が、今日はいつも間近にあった。何度かそれに苦笑で応じながら言葉を繰り返していたが、だからこそ、その距離感についそんな気分になったのかも知れない。
「カミュー」
囁きかけてくる声はいつも通り。だが、カミューの応えを待つ男の仕草はいつにも増して慎重なものだった。
「マイクロトフ」
寝台に横たわり、はっきりとその名を呼び返すと嬉しそうに目を細める。しかし徐々にその行為が切羽詰ってくると流石にカミューも己の声量にかまけてなどいられなくなる。
「……っ」
受ける愛撫につい息を飲むと、マイクロトフは一瞬手を止める。
「カミュー」
「ん…?」
弾み始めた息の合間に続く言葉を促すと、マイクロトフは軽く眉を寄せて困ったように切り出した。
「声を出してくれ」
刹那、羞恥が沸き起こったが直ぐにマイクロトフの耳の事を思い出し、カミューは珍しく戸惑った。
「出して…くれって……」
するとマイクロトフは小さく笑った。
「普段でさえ滅多に聞かせてくれないものを」
そしてマイクロトフはカミューの耳に唇を寄せて囁いた。
「今日はこうしないと聞こえない」
耳朶を嬲る低音にぞわっとカミューの項が粟立つ。
「マ、イクロトフ……!」
堪らず腕を突っぱねて押し戻すとマイクロトフはきょとんと首を傾げた。
「なんだ?」
余裕で聞き返してくるのが実に小憎らしい。カミューは熱くなってきているらしい自分の頬を自覚しながら唇を噛んだ。
「なんだじゃない。全く……おまえと言う奴は」
「え?」
「聞き返すな」
ゴン、と握った拳で殴ってやりながらカミューは顔をそらした。それを追うように、またマイクロトフが距離を詰めて覗き込んでくる。
「カミュー?」
「だいたい出せと言われて出せるものか」
「すまん」
間近でマイクロトフの苦笑が聞こえてカミューは顔を顰めた。ちらりと視線を向けると、常にないカミューのうろたえぶりに優位を感じて機嫌を良くしているらしい。
「マイクロトフ」
その黒髪を掴んでカミューはぐいぐい引っ張った。
「随分楽しそうだな? え?」
「いたたたたた」
痛がりながらも笑っているマイクロトフの態度にカミューは内心で「この野郎」と口惜しさを噛み締めたが、直ぐにパッと髪を掴む手を離した。そしてまた顔を背けると身体ごと反転した。
「カミュー」
追ってくる手を払うと、流石にマイクロトフの焦る気配を感じた。
「怒ったか?」
「さあね」
窺うような声音につれなく応えると、そろそろと手が触れてきた。ところが肩に触れたその指先は、がしりと掴むなり強く引いてカミューの身体を一息に返させた。
「分かったカミュー。おまえに声を出してくれなどと言う方が間違っていた」
「え?」
随分あっさり非を認めたな、と訝しがる間もなくマイクロトフの手がカミューの肩を撫で、そして続いた言葉にカミューは絶句を余儀なくされた。
「俺がおまえに声を出させれば良いんだ」
「ば……なに……」
「と、言うわけだカミュー。俺が悪かった」
全く悪びれた様子も無くマイクロトフは嬉々としてカミューを抱き寄せてくる。
「ちょ、マイクロトフ!」
慌てて男の身体を剥がそうと試みるが時既に遅し。すっかりやる気のマイクロトフに力で敵うはずもなく――――。
その後、どう言う経緯かアダリーへの実験禁止命令が出た。理由は匿名で目安箱に投書された、実験による危険性をうたう詳細な報告書のためだった。
唐突な命令にアダリーは当然反論をしに軍師の元へ押しかけたが、彼の手が軍師の部屋の戸を叩く前に、何故だが何かに脅えているような赤騎士がすかさず駆け付けて、取り押さえるなり宥めすかしてどこかへと連れ去ったという話しである。
END
軽い聴覚障害のある知り合いがいますが
その人と会話をしているといつの間にか距離が近くてうろたえます
という事で、新鮮な距離感にどきどきする赤さんを書くつもりだったのですが
いったい何処で間違ったんでしょう(笑)
2000/11/28