蜜 色 の 宝 石
その夏は珍しく涼しい日が続き、例年ならば肌を焼く炎のような照り付けも随分と弱い、そんな夏だった。
おかげで夏の作物は悉く不作の憂き目にあい、辛うじて寒地であるマチルダの作物だけがその冷夏を乗り切り、野菜の値が高騰してしまい農家とそこからの税収入のある騎士団は儲かったものの、民にとっては苦しい夏であった。
だがマチルダの民はまだそれでも野菜が多少の値上がりだけで良かった方だろう。南部の土地では今年は実りが薄くて、流通すら難しいと聞いた。
だがその夏も終わり頃に、まるでこれまでのつけを支払うかのような勢いで、残暑とは思えぬ暑さが各地を襲い、その熱で老人などが相次いで亡くなるという出来事が起きた。
常ならばおいおいと上がっていく気温に身体も順応していくものを、涼しげな気候に慣れきったところでの猛暑である。冷ややかな泉から突如引き上げられて滾る熱湯に放り込まれたようなものだった。
「まったく、今年はどうなっているんだろうね」
ロックアックスでの先月の死者数を記した書類を睨んでカミューはそんなことを呟いた。
そんな激しい残暑も漸く先週辺りからおさまりだした。途端に秋の気配が待ち構えていたかのようにそろそろと彩りを見せるのだから、自然というものは侮れない。
これで漸く一息つけると安堵の吐息を零したのはカミューだけではなかったろう。しかし夏がこんな有様だったら、冬はいったいどうなってしまうのだろうとの懸念が過ぎるのは仕方のないことだった。
「これで大寒波に見舞われでもしたら夏の比じゃないぞ……」
厳しい気候が続けば老人から先に倒れてしまうのは世の理とはいえ、人が一人死ねばその分だけ虚ろが生まれる。増してや冬が厳しければ何も倒れるのは老人だけに留まらない。
生まれてくればいつかは死ぬのが定めとはいえ、出来るだけなら死者は少ない方が良いと思うのは傲慢な考え方だろうか。しかしそんなカミューの呟きに同調するように頷く男が一人。
「例年より余剰を持たせた方が良いだろうな」
マイクロトフも同じく書類を睨みながらそう呟いた。
「麦もそうだが、炭の類も―――冬は食い物があっても凍えれば一発だからな」
「それはその通りだが、分かってるのか? 今年はきっと麦も炭も高いぞ?」
冷夏の影響は何もその時だけに出るのではない。夏の不作は冬の蓄えにも響いてくるのだ。その値上がりした分だけを通常通り用意するだけでも大変だろうに、今年は更にそれを上回る量を騎士団で確保しておかなければならない。
だがそれはマイクロトフとて承知である。不機嫌そうな顔のまま書類から目を離さずに頷いた。
「ああ、仕方が無いな」
その一言で終わらせてしまう。
カミューは堪らずこめかみを指先で押さえて顔を顰めた。
「マイクロトフ…」
「うん?」
沈痛な声音に引かれるようにマイクロトフが顔を上げる。その黒い瞳を眇めた眼差しで見詰めてカミューは不貞腐れたような表情をした。
「その金をどうやって捻出するのか、おまえ全く考えるつもりが無いだろう」
「それはカミューに任せる。青騎士団はそもそも体力仕事が務めだからな」
「おいこら、赤騎士団だって似たようなものだ。だいたいこうした事は白騎士の役目だぞ、くそ」
「だが、白騎士だけには任せるつもりが無いからこうしているんだろうが」
「その通りだともマイクロトフ。だがどうして厄介ごとはわたし任せになるんだ。分かっているのか、費用の捻出にはどうしても白騎士団を納得させなければならないんだよ。つまりはゴルドー様を説得しなければならない」
身を乗り出して思わず雄弁に語るカミューに対し、マイクロトフは椅子の背に凭れたまま、軽く首を振って答えた。
「適材適所だカミュー。俺はあの方とは相性が悪い」
「わたしならば相性が合うとでも?」
ほう、と瞳を細くして薄笑うカミューに、マイクロトフは僅かに眉を潜める。しまった失言だと気付いても、言った言葉は引っ込められるものではない。
「少なくとも俺と違って口論などせんだろう。頼む、俺も出来るだけ手段を考えてはみるが、最後には結局あの方の裁可が必要なのはカミューも分かっているだろう」
「……ああ、まぁね」
「おまえに面倒を押し付けているのは充分承知している。だからその分の埋め合わせを必ずすると約束しようカミュー」
「埋め合わせ?」
きらりとカミューの瞳が瞬いたのに、深く頷いてマイクロトフは胸を撫で下ろす。
「ああ、そのうちにな」
微笑を浮かべてみせると、カミューは「なら良いよ」とあまりにもあっさりした口調で応じると、にこりと笑みを差し向けてくる。思わずその笑顔にどきりとしたマイクロトフであったが、琥珀の瞳が再び真剣に書類を見詰めるのに慌てて思考を切り替えた。
「……でも冷夏とはいえ雨は適度だったから、それだけはまだ良かったよなぁ」
「ああ、長雨は困るが全然降らないのも困る。今年は水は丁度良い」
まるで世間話に天候の話でもしているかのようだが、実際のところはそんな能天気な会話でもない二人の言葉の応酬は、その手にある書類全てに目を通すまで暫く続けられたのだった。
それから随分してからのことだった。
秋も色を増し、先日の会話のことなどすっかり忘れた頃に、マイクロトフが深夜不意に訪れた。その手には小さな紙袋を携えて、片手には酒のボトルを一本抱えている。
カミューは驚きつつも彼を部屋へと招き入れ、いったいどうしたのだと首を傾げた。マイクロトフが夜半に訪れるのはそう珍しいことではないが、それは大抵夕食後であったりそう遅くない時刻で、酒に誘うのなら誘うで、事前に何らかのお伺いがある。これでも互いに多忙であるのだから。
だが今夜のマイクロトフの訪れは唐突で、しかも彼は外出着のまま扉の前に立っていたのである。
「何処かに出掛けていたのか?」
「ああ、街までな。少し」
ボトルと紙袋を卓上へ置くと、マイクロトフは上着を脱いで椅子の背に掛けると、勝手知ったる具合で奥の水場へ向かい顔を洗って戻ってくる。その間カミューは取り敢えずグラスを二つ取りだしながら、紙袋の中身を気にしつつも大人しく待っていた。
だが戻ってきたマイクロトフは先ずボトルを開けると、グラスに注いで喉が渇いていたのかそれを一気に呷る。カミューは紙袋が気になって仕方がないのに、一向に気付かない様子で満足の溜息などをついている。
「なぁマイクロトフ、その紙袋はなんだい?」
するとちらりと視線を向けたマイクロトフは、何やらにやりと笑ってカミューの瞳を覗き込んでくる。
「気になるのなら、開けてみろ」
「良いのか」
「構わん」
そこまで言うのなら、とカミューは挑発に乗って紙袋を手元に引き寄せるとカサコソと音を立ててその中を開く。ところが現れ出てきたそれに思わず目が丸くなった。
見覚えのある美しい箱も、その印も間違いがない。
「すごい、メリーのマロングラッセだ……」
呆然と呟くカミューに、一転してマイクロトフは満足そうな顔をしてほっとしている。どうやら気に入りの品を持参出来たことに安堵しているらしい。
それも当然である。メリーと言えばロックアックスではチョコレートで有名な老舗である。それが秋に限定してマロングラッセも販売するのだが、カミューの記憶ではその販売はまだ二、三日は先のはずだ―――それがどうして今ここにあるのだろう。
「実は頼み込んで先に入手させて貰った」
「え……?」
呆然としていたカミューはマイクロトフの言葉を聞き損ねた。確か頼み込んでとか言ったような。
首を傾げると苦笑で返されてなんだか気まずい。しかし、メリーのマロングラッセは評判の菓子で、ロックアックスの住民のみならず甘党ならば秋になれば一度は口にしたいと願う代物だ。販売初日の朝は店の前に長蛇の列が出来て、昼を待たずに完売するような限定品である。
カミューは箱の中に慎ましく並べられているであろう、蜜色に輝く宝石を想像して思わず唾を飲み込んでいた。
カミューはそう大袈裟な甘党ではない。だが美味たるものには目がないのだ。かつて、騎士となってからのある秋の日に、レディの幾人かがこのメリーのチョコレートと共にマロングラッセを好意から贈ってくれたことがあったのだが、初めて口にしたその栗のえもいわれぬ触感と芳香、そして味わいには驚愕した。
以来毎年、秋になれば列に並んででも手に入れていたのだが、今年はそれが販売を待たずに目の前にあるのが信じられない。
そんなカミューの驚愕を知ってかマイクロトフはじわりと苦笑を浮かべると、未だ紙袋の中におさまっている箱を指差して言った。
「食べて良いぞ」
「………」
「カミューのために手に入れてきたんだ。この程度で埋め合わせになるとは思わんが、全部食って良い。それはおまえのものだ」
わたしのもの……。
硬直した思考がその言葉に反応する。
知らず、夢心地のまま手は動いて紙袋から箱を取り出して、そっとその蓋を開けていた。途端に昨年の秋から久しい香りが濃密に鼻腔をくすぐる。
そして震える指先で、とろりと光を弾く果実を一粒摘み上げた。きらきらと輝くそれからはブランデーの香りと微かなバニラの香りも漂ってくる。そしてそっとそれに歯を立てた。
確かな弾力が返るが、更に歯を立てると今度は驚くほど柔らかに果実は分断されて欠片が舌の上に転がり込んでくる。途端に栗独特の味わいが広がった。それをゆっくりと咀嚼しながらカミューはぎゅっと目を瞑って残った欠片も口に放り込むと拳を握り締めた。
「……〜〜〜〜っ!!」
「美味いか」
マイクロトフの言葉に無言で頷く。
美味いなどといった代物ではない。まさに秋の宝石。涙が滲み出そうだった。
「ならば良かった。苦労した甲斐がある」
「苦労?」
漸く人語を取り戻したカミューが、口内に残る味わいを堪能しながら尋ねると、マイクロトフは苦い顔で頷いた。
「言っただろう、頼み込んで先に入手させて貰ったのだと。俺とてそれの評判は知っている。普通なら並んで漸く手に入れるような大変な物だ。それを先に……と言うのは無茶な話だ」
だがマイクロトフはそれを実現してきたのだ。
「マイクロトフ……」
途端になんだか切なくなってカミューは手の中の箱をおずおずとマイクロトフに差し出した。おまえも食べろ、という意味だったのだが彼はゆっくりと首を振った。
「俺はいい。店で割れた奴を食わせて貰ったのだが、確かに美味いがそう沢山食えるようなものではないな」
その言葉を聞いた途端にカミューは思わず立ち上がっていた。
「割れた奴! それだって袋詰めにされて少し価格を下げて売り出されるんだぞ。わたしはそれも毎年一緒に買い入れて…―――」
割れて欠けた物でも同じ味だ。少しずつ味わうのに丁度良くて、お茶の時などに持ちだして食べているのだった。するとマイクロトフは苦笑して椅子の背に掛けていた上着に手を伸ばした。
「それも知っている。だから都合して貰った」
言って上着からまた紙袋を取り出して中を開ける。するとそこからは割れたマロングラッセの袋詰めがなんと二つも出てきたではないか。
「マイクロトフ……おまえ、いつからそんな気の効いた奴になったんだ」
「失礼な奴だなカミュー……」
そして暫く互いに無言のまま目を見合わせてから、どちらからとも無くふわりと笑んだ。そしてカミューはマロングラッセをもう一粒摘み上げ、マイクロトフはグラスをもう一度掲げた。
「今年の冬がよき冬になるように―――」
「ああ、カミューの努力が報われるようにな」
微笑んで告げたマイクロトフにカミューは片眉をひょいと持ち上げる。予定よりも多く白騎士団から資金を引き出した功績は紛れもない。おかげで麦も炭も大量に備蓄できた。今冬は死者も少ないだろう。
+ + + + +
それは麗らかな秋の午後だ。
同盟軍本拠地のレストランのテラスでカミューはマイクロトフと茶を飲んでいた。すると盟主の姉ナナミが向こうから走り寄ってくる姿が見えた。
「カミューさん、マイクロトフさんっ」
気の所為でなければ彼女は厨房から出てきたようだ。なんだろうと微笑を浮かべながらカミューが首を傾げていると、ナナミは二人の手前で立ち止まりニコッと笑った。それから。
「あのね、カミューさんかマイクロトフさんか、どっちか栗を使ったおいし〜いお料理知らない?」
カミューはマイクロトフと目を合わせた。
「……栗、ですか」
「うんっ。あのね栗の実がこぉ〜〜んなに採れたんだって。それでハイ・ヨーさんがどうしようって今考えているの」
ナナミは両腕を大きく広げて山を描いた。その様子に思わず笑みを誘われたカミューは喉を鳴らして笑うと、もう一度マイクロトフの顔を見た。
「マイクロトフ、何か思い浮かぶかい」
「栗ならば俺よりお前の方が詳しいだろう」
言われてカミューはふむと顎に指先で触れて考え込んだ。
「料理というよりも、菓子ならば或いは思いつくのですが」
そんなポツリと囁いた呟きに、しかしナナミは目を丸くして飛びついた。
「お菓子? 栗のお菓子!?」
「ええ、栗を使った菓子はわたしの好物でもあるんですよ。特にマロングラッセはマチルダにいた頃は毎年の秋に必ず食べていたくらいで」
「……マロン……グラッセ、ってどんなのですか?」
途端に心許ない様子でナナミが問うてくるのにカミューは柔らかに笑んで頷いた。
「皮を剥いた栗をシロップで煮詰めてブランデーで香りをつけたものですよ」
「シロップで? うわぁ!」
再び目を輝かせたナナミに、カミューはゆっくりと立ち上がった。
「レシピなら知っていますから、ハイ・ヨー殿に教えに参りましょうか」
そしてナナミを伴って厨房まで向かおうとする。しかしその手を寸ででマイクロトフが掴んで引き止めた。
「おいカミュー」
「ん?」
「何故レシピなど知っているんだ」
好きが高じて己で作るほどだったか。
しかしカミューはゆっくりと首を振った。
「そんなもの、わたし一人が喜んでいるのではつまらないじゃないか。お前も好むようなマロングラッセは無いものかと調べてみた結果だよ」
「俺も……?」
甘味は苦手とするマイクロトフである。酒は好きだが、いくらブランデーの香りが濃密でもマロングラッセは甘すぎて量は食べられなかった。
「それで?」
「いや、根本からして無理だった。砂糖で煮詰めるのだから、甘くなく作れよう筈も無い」
肩を竦めるカミューに、マイクロトフは「そうか」と答えて掴んでいた手を離した。ところが琥珀の瞳は愉快そうに瞬いて軽くそんな男の黒髪を掌で撫でる。
「だけどね」
そして顔を上げたマイクロトフに微笑んでカミューは髪から手を離す。
「砕いたマロングラッセを使った甘くないパウンドケーキなら可能だ。胡桃なんかも入れたらお前も食べられるだろう?」
カミューの後ろでナナミがまた歓声をあげた。
「ハイ・ヨー殿に作って頂けるか伺ってくるよ」
「それは、楽しみだ」
数日後、蜜色のきらめきが味わい深い、特別に甘くないパウンドケーキがひとつ丸々、青騎士団長の元へと届けられたとかどうだとか。
この秋、ハイ・ヨーのレストランに誕生した新デザートは好評らしい。
END
うーんラブラブしてない…
マロングラッセは最高に美味だと思うです
2003/08/30