すれ違い
ああ、傷つけた。
マイクロトフの精悍な眉が苦しげに寄せられて気付く。気付いた頃にはもう遅すぎて、口走った言葉は無かったことには出来ないし、撤回するにも意味がない。
それに、自分だってその前に発せられたマイクロトフの言葉に、こんなにも胸が痛い。
「もう、良い―――」
自分の腕を掴んでいたマイクロトフの手を振り払い、それ以上何かを言い募ろうとした言葉を遮って、カミューは視線をそらした。
「結局おまえとは相容れない、ということだな」
「待て、カミュー」
再び腕を取ろうとする手をかわしてカミューはマイクロトフの胸を押しやった。そして漆黒の瞳を見据えた。
「とにかく、これ以上言い争う必要はないな」
「カミュー」
「失礼する」
これ以上ここにとどまっては、マイクロトフの視線に負けて結局うやむやのうちに、彼の言い分を飲んでしまいそうだった。
青騎士団長の執務室を出れば、彼の部下や文官たちの執務する部屋があり、その幾人かの青騎士たちがカミューを振り返る。他団の団長に対して立ち上がり礼を取ろうとする彼らに、構わないと手振りで応えてカミューは真っ直ぐに廊下へと続く扉へ向かった。しかし。
「カミュー!」
直ぐに後ろから怒ったような声が追い掛けてくる。カミューはその声を無視して足早に廊下へと出た。そしてそれまでの気鬱に満ちた表情など欠片もなく、颯爽とした足取りで己の赤騎士団長執務室へと向かった。
諍いの元はマイクロトフが一ヶ月の遠征に出掛けると言い出した事からだった。目的の場所はマチルダの東方、ハイランドとの国境に近い辺境だ。遠征目的はかの地に跋扈し始めたモンスターや盗賊の退治。本来は配下の中隊をひとつ派遣すれば良い程度のもので、青騎士団長が陣頭指揮を取るような規模のものではなかった。それを何故。
「最近あの辺りで幾度かハイランドとの小競り合いが続いているだろう。辺境の者はさぞかし不安に怯えているだろうと思うのだ。俺が行けばきっと皆勇気付けられると思う」
なるほど、彼らしい言葉だ。しかし。
「認められないな。そんな場所におまえを無用心に赴かせられるものか」
「無用心ではない、俺の信頼する部下も共に向かう!」
「だったらそのおまえの信頼できる部下を名代にすれば充分だろう。どうしておまえ自身が赴く必要があるんだ。しかも一ヶ月だと? 一緒にモンスターや盗賊退治まで手伝う気か」
「当然だ。辺境は今困窮している。少しでも俺は彼らの力になりたい」
拳を固めてそう力説する姿はきっと彼の部下が見れば尊敬を更に集めるだろう。だがカミューにしてみれば忌々しい事この上ない。
―――それで……わたしに眠れぬ夜を過ごせと言うのか…。
何が起こるかわからない遠く離れた辺境に、どうしてそんな長期間彼を置けるだろう。どんなに優秀な騎士たちが彼を守ったとて、絶対はありえないのだから。何よりも彼は青騎士団長というマチルダ騎士団にとって重要な役職に就く人間だというのに。
「とにかく認められない。もしもの事があったらどうするんだ。仮にもおまえは青騎士団長だぞ」
命を狙われたらどうする、と。
それなのにマイクロトフは。
「その時はその時だ。俺の命運もそれまで、青騎士団長の器ではなかったのだろう」
瞬間的に頭が煮えた。
「…っ、本気かマイクロトフ!」
「ああ俺は青騎士団長の位を継ぐ時、心に決めた。俺は俺の信念を裏切らずにこの地位を全うするとな。今回の事も俺は意地や理想だけで言っているのではない。必要だと思うから俺は辺境に行くのだ」
マイクロトフの言い分は分かった。だがカミューの怒りを誘ったのはその点ではなかった。
「ならば行って来るが良いさ。それでおまえの優秀な信頼できるという部下たちが、何人おまえの盾となって散るか、わたしはこのロックアックスで報告を待つとしよう」
「……カミュー」
信じられないと腕を掴み、傷付いた顔をする。卑怯だ。
しかし今の言葉がどれだけマイクロトフの胸に響いたか、分かっているだけに撤回は無意味だ。
「とにかく、認めない」
「だが俺は―――」
それでも行きたいと、漆黒の目が違わず訴えてくる。カミューはその瞳を、怒りを抱えながら見詰めて押しやった。
「もう、良い―――」
これ以上は嫌だ。
彼にとって、自分という存在がどれ程軽いかを思い知らされるのは。
―――つまりあいつは辺境で死んでも構わないと言ったも同然なんだ。
カミューを置いて。
思い出すにつれ、怒りが増していく。同時に哀しくてならない。
危険な辺境に遣ると考えただけでも、もしもを思って胸が冷えるのに、あの男はそれでどうにかなっても良いと言う。自分の信念の為に。
そこにカミューの想いは一切介在しないのだ。
親友として以上に情を交わす間柄として、こんな薄情な事があるだろうか。自分はもう、マイクロトフを失う未来など考られないのに。
だからだろうか、いつもの諍いとは事情が違って、普段なら直ぐに仲直りが出来るものを、カミューが殊更意固地になって避けまくるものだから、かれこれ三日も二人は口も利かなかった。
マイクロトフも、どうやらよっぽどカミューを怒らせたらしいと分かっているのか、顔を合わせても視線を合わさないこちらの態度に、残念そうに眉根を寄せる。だが遠征を取りやめるつもりは無いようで、その準備は着々と進められていた。
だいいちあんなに酷い言葉を―――何人の部下がマイクロトフの盾になって斃れるか、などと―――ぶつけたのだから、侮辱に怒りを覚えているだろう。積極的にカミューを説得しようと働きかけてもこない。
どうもこのまま行くと、言葉も交わさずにマイクロトフが辺境に出立するのを見送りそうだった。
それはそれで仕方がないと思った。今回ばかりはマイクロトフも自分の信念を通すつもりらしいし、何より彼を崇拝し心酔している青騎士団の部下たちは、その意向を最優先にして動いている。
そしてカミューは変わらず反対の姿勢を取っていたが、最悪な事に白騎士団長のゴルドーが認可してしまった為に、カミューがどれだけ異を唱えても無意味だったのだ。
ゴルドーにしてみれば、ここでマチルダ騎士団の威光を示せという事なのだろう。確かに国境近くのハイランド兵らに対する威嚇には、勇猛馳せる青騎士団長のおでましはこれ以上ないほど効果的に違いない。
そして遠征の日が間近に迫った日。
このままマイクロトフと一言も言葉を交わさずに送り出し、そして杞憂の通りに万が一の事が起こったとしたらと、そんな仮定の出来事に思わず震えてしまうようになってしまった頃に。
「マイクロトフ様がおいでになっておりますが」
気遣わしげな副官の声にカミューが書面から顔を上げると、開いた扉の向こうに見慣れた青い色彩が見えた。
「どうしてもお会いして話したい事がある、と仰っておいでです」
「……通してくれ」
つかの間の躊躇いの後、カミューは副官にそう命じた。
ほどなく、執務室の扉をくぐってマイクロトフはゆっくりとした足取りで執務机の前に立った。カミューはこの期に及んでもまだ視線を合わせる事が出来ずに、その足元を―――ブーツだけを見下ろしていた。
入る時に扉を閉めてきた、という事は長居をするつもりなのだろう。おそらくは遠征に出る前にカミューと納得の行く話し合いがしたいと望んで。
だがこればっかりは何処まで行っても平行線だ。カミューに折れる気はない。このまま、マイクロトフが遠征に行ってしまっても、その無謀な行為を許すつもりは微塵もなかった。
だから、話し合う余地はないと告げようと顔を上げた。その間を図ってでもいたのか、久方ぶりに漆黒の瞳を見上げたまさにその時、マイクロトフの低い声が響いた。
「遠征は取りやめる」
口にしかけた言葉が消え失せる。
「腹心の部下を名代に立てる。俺は、行かん」
マイクロトフの目は真っ直ぐにカミューを見下ろしていた。その言葉の何処にも偽りの影はなく、真摯な眼差しは彼が本心からそう告げているのだと教えた。
そしてマイクロトフは机に手をつくと、前屈みになって顔を寄せた。
「だからカミュー。もう、そんな顔をしないでくれ」
「……わたしが、どんな顔を…」
言い返そうとしたとき、マイクロトフの広い掌がカミューの頬に触れた。手袋の乾いた感触が肌を撫でる。
「痛いのに、痛いと言わない顔だ。俺の何がカミューにそこまでつらい思いをさせているのか、正直俺にはまだ分からん。遠征をやめれば、また笑ってくれるか?」
見詰めればマイクロトフは不安げな顔をしている。カミューは呆然としながら僅かに首を振った。
「…信念だと、おまえは、言ったんじゃないのか」
だから危険でも辺境に自ら赴くのだと。それをどうして今さら撤回する。
するとマイクロトフはカミューの頬を捉えたまま、哀しそうな顔をした。
「ああ。だがそれは誰かを、カミューを傷付けてまで貫くものではない」
「命運だと言ったくせに……―――辺境で、わたしの知らない場所で斃れても良いと言ったくせによくもっ!」
「ああ、そうか。そういう事か」
漸く分かったとマイクロトフが呟く。それから、これ以上はないというほどに優しい声音で「カミュー」と名を呼んだ。
「すまなかった。おまえを傷付けるつもりでああ言ったのではないのだ。俺は、騎士として、青騎士団長として出来る限りの事を、この立場と責任に恥じぬように、全力で全うしたいと考えている。だからな、俺がこの地位に相応くある限りは、誰も俺を倒せはせんとも」
「何を……」
「俺が騎士団長の器である限りは、俺はずっと騎士団長であり続ける自信がある。誰にもそれは邪魔はさせん。ましてやカミューを置いて一人逝くわけがないだろう」
だから安心しろと。
そんな無謀なへ理屈があるかとカミューは怒鳴りつけたくなった。しかし、こんな男だからこそ愛しくて、そして好きでたまらない。ずっと支え続けてやりたいと願ってやまない。
「どうして…おまえはいつも…」
嬉しいのか哀しいのか悔しいのか。
カミューにも今自分の胸中を占める感情が何なのか判別がつかない。けれども、込み上げるものは紛れもなく泣く一歩手前のそれで、みっともなく眉根が寄る。
「カミュー?」
「遠征を、取りやめるというのは本当なんだな」
「ああ。実は副長からも反対された。おまえの所の連中からも、どうしてカミューの気持ちが分からないと何度も言われてしまったぞ」
「は?」
意外な言葉に驚いて目を瞠れば、気まずそうな目をして背後を気にしている。そこには閉じられた扉があるだけだ。
「俺の無謀に振り回されるカミューが気の毒だと。このまま本当に遠征に出向こうものなら、この城に俺の戻る場所はないとまで言われた。それでも、俺は行くつもりだったのだがな、昨日おまえの顔を見て考えを改めた」
「昨日…?」
「一瞬だけ、泣きそうな顔をした。それだけで俺はもう駄目だ」
マイクロトフの親指がそろりとカミューの目元を撫でた。
「カミュー、もう少し顔に出せ。もっとも、我慢しているおまえの顔も可愛いが……」
「………」
「傷付けてすまなかった。俺も今回の事で少し反省をした。確かに、信念を貫くにも、もっとよりよい方法があって良い」
「……わたしも酷い言葉を言った。撤回するよ、すまなかった」
「気にするな。あれはおまえの忠告だろう?」
「ああその通りだけど」
「身に染みた。だから気にするな」
許しを請う以前に、許されている。
カミューはますます泣きたくなったが、眉根が寄るばかりで表情にそれ以上の変化はない。だがそれだけでも十分にマイクロトフには伝わったようだった。
「カミュー、それではもう良いか?」
「ん?」
首を傾げると、耳元にマイクロトフが顔を寄せた。そして囁く。
「今夜おまえの部屋を訪ねても」
途端に滲みそうになっていた涙が引っ込んだのだった。かわりに目元には照れたような朱が上る。それをマイクロトフが嬉しそうに見詰めていたかどうかは、俯いたカミューには分からなかったのだった。
end
2007年8月を持ちまして閉鎖されました『昆布の都』様の10万HIT企画にて
リクエストさせて頂いた「喧嘩後、青が折れてくれて泣きそうになってるカミュー」
これで描いて頂いたイラストに触発されて書いた小話でした
閉鎖に伴い小話の引取りとイラストの掲載許可を頂きました
※ このイラストは小話の挿絵として掲載許可を頂いたものですので転載不可です。ご注意下さい。
2005/06/08
掲載 2007/08/13