名 前 を
その声に名前を呼ばれるのはとても心地良い。
「どうしたんだ?」
おっとりとした声で、寛いだ格好のカミューが首を傾げて問うてくる。
同盟軍に参入した時にあてがわれた一室。広くなく簡素ではあるが起居するに充分な仕様が施されている。こうして、騎士服を脱ぎゆったりと寛ぐのに何の支障も無い部屋の中。
もう二十代も半ばを過ぎて、数えれば三十代も近いというのに、何処か浮世離れした美しさを内包し、外見にもそれが滲み出ている青年。金茶の髪は飴のように煌いて、陽光の下では金に近く室内の暖かな光の傍では落ち着いた色合いを見せる。それがさらりと揺れてマイクロトフの傍近くに寄った。
「う、わ…っ」
いつの間にか息が触れるほど傍に来ていたカミューに、驚いてマイクロトフが仰け反る。
しかしマイクロトフの座っていたのは狭い寝台の上で、途端にごつんと頭が壁にぶつかってそれ以上は後ろに下がれなかった。当然、間近のカミューの伸びた手は、いともたやすくそんなマイクロトフの黒い髪をとらえた。
「何をぼんやり考えていたのかな」
力強く両手でこめかみを抑えこまれて、柔らかな口調ではあるが詰問するような眼差しを向けてくるカミューから、マイクロトフは逃れる様に視線を泳がせた。
「いや、何も、別に」
「人の顔を穴があきそうなくらい凝視しておいて、別には無いだろう」
そんなに凝視していたかな、とマイクロトフは焦る。しかし目前で覗き込んでくる微笑は追求を止めない。
「折角たずねて来ていると言うのにずっと上の空で。もしかしてわたしは邪魔かい?」
「とんでもない!」
反射的に叫び返していた。少し、声が大き過ぎたのかもしれない。カミューは眉を寄せて僅かだけ離れた。
「……だったら、考え事をしながらではなく、ちゃんとわたしを見てくれないかな」
こうして。
とカミューはマイクロトフの頭を両手でとらえたまま、じっと見詰めてきた。瞬きもせず開かれた琥珀にマイクロトフの顔が映る。と言うことはマイクロトフの瞳にもカミューの姿が映っているのだろう。無意識に、マイクロトフはごくりと唾を飲み込んでいた。
そこへ、密やかな囁きが落ちる。
「こんなに、ゆっくりと過ごせる夜は久しぶりなんだよ?」
「あぁ……」
時節柄、ずっと多忙を強いられていて、揃って夕食どころか何日も執務室でペンを片手に食事を摂るような日が続いていたのである。それが漸く落ち着いて、何日かぶりに城内のレストランで食事を共にし、ワインボトルを一本空けたところで早々に帰ってきたのである。
マイクロトフは自分の頭を挟み込んでいるカミューの手に、そっと自分の掌を重ねた。
「すまなかった。たぶん俺は、少しばかりひたっていたんだ」
「…ひたって?」
琥珀の瞳がゆっくりと瞬く。
「そうだ。おまえの声が俺の名を呼ぶ幸福に、酔いしれていたんだな」
言った途端にさっとカミューの頬に朱が上った。
「何言って…」
「久方ぶりだったから。おまえがこうして目の前に居るのがどうにも慣れなかったのか……それでぼんやりしていた」
つまりは、カミューを見詰めながらカミューの事をめいっぱいに考えていたのだと。
言うと、カミューは赤い顔のまま俯いた。
「わたしとて…同じくらい久しぶりで、こうして近くに寄っているだけで胸が潰れそうだよ―――」
実はどきどきしているんだ、とカミューは笑う。
「本当は…いつまで経っても慣れないよ。おまえと過ごすのに、いつも緊張する」
「そうなのか?」
思い掛けないカミューの告白に、マイクロトフは驚く。
何しろカミューがマイクロトフと二人きりのときに見せる寛いだ様子は、あまりにも普段と違うから、てっきり緊張も何も緩みきっているのだろうと思っていたのだ。
「あぁ…でも同時に安堵も覚えるんだがな。こうして、おまえの温もりを感じるとほっとする」
するり、と重ねられていた掌をずらせて頬を寄せる。
「夢の中にいるような穏やかさと安心を感じる。だが、どきどきもするんだ」
カミューはそして寝台の上に膝で乗り上げていた姿勢を崩して、マイクロトフの前に座り込んだ。
「マイクロトフに見詰められると、照れるし」
ふわりとカミューの掌がマイクロトフの瞳を覆った。
「声を聞くだけで胸が熱くなる」
そしてもう片方の掌が口元を覆った。
視界を遮られ、言葉も抑止されて黙り込みじっとしているほか無いマイクロトフである。しかし不意にそこだけは露わにされていた耳元にそっと息遣いが感じられ、びくり、とした時。
「マイクロトフ」
甘味を帯びた声が囁く。
マイクロトフの好きな声が。
名前を。
「…マイクロトフも……どきどきしているのか?」
こそりと喉の奥で笑うような。
「わたしばかり、舞い上がっているのも悔しい気がするのだけれど」
実のところ、どうなのかな。
囁いて、柔らかな感触がマイクロトフの耳を挟んだ。一瞬後に唇にくわえられたのだと悟ってマイクロトフは硬直した。
「なぁ、マイクロトフ。教えてくれないか」
ぺろりと濡れた感触が耳朶を這う。
「…っ……!」
流石に慌て、顔を包んでいた手を取りマイクロトフはカミューの両手首を捕まえるとがばりと引き離した。恐らく今の自分は情けないくらいに顔を赤くしているに違いない。案の定カミューはマイクロトフを見詰めると盛大に笑った。
「ははは、マイクロトフ。どうしたんだ?」
手首を掴まれた格好のままカミューは笑う。
自分がそう仕向けたくせに良く言うものだ。悔しくてマイクロトフは手首を掴む手を離し、素早くその背を抱き取ると一息にカミューを胸に抱き込んだ。
「俺がどんな状態かなど、自分で確かめろ」
そして激しく高鳴る胸にカミューの頭を押し付けた。途端に笑い声が止み、大人しく胸に耳を寄せる。
「あぁ…どきどきしているね」
胸元からくぐもった声が響く。見下ろせばカミューは目を閉じてしっかりとマイクロトフの胸に身を預けていた。まるで、離れまいとでも言うかのように、ぴったりと。
込み上げた愛しさが余計に腕の中の存在を感じさせてマイクロトフはいつの間にかその腕に力を込めていた。
「ちょ……マイクロトフ、苦しい……」
喘いだ声がのぼり、指がマイクロトフの服を抗議するように強く掴んだ。
「あ、すまない」
腕の力を緩めると、カミューが見上げてきた。若干ながら責めるような眼差しである。
「馬鹿力め、わたしは綿を詰めた人形ではないんだから、そんなに強く抱き締めたら苦しい」
「悪かった」
宥めるようにその背を撫でてやる。だが睨むような琥珀は変わらない。
「マイクロトフ」
「ん?」
首を傾げると、カミューは小さく溜息をついてそっぽを向いた。
「どうして分からないかな」
「何がだ……?」
分からないが、どうやら不機嫌を醸し出し始めているらしいカミューにマイクロトフは慌てた。何か不用意な事でも言ったかしたかしただろうか。覚えが無く考え込むマイクロトフに、カミューは今度は呆れた様に吐息をついた。
「言っただろう。ゆっくり過ごせる夜は久しぶりだと」
「あぁ」
言ったな。確かにその通りだ。
頷くマイクロトフに、カミューは暫く黙り込んでから唐突に手を置いていたその胸を強い力で押し飛ばした。
「うわ…っ……たっ」
突然のことで踏ん張りも利かず再び無防備に背後の壁に頭をぶつけて、マイクロトフは痛みに唸る。
「な、あ?」
「わたしは子供の持つ人形ではない! 恋人に触られたら感じるし抱き締められたら熱くもなる人間の男だ、ばか者!」
せきを切ったようにカミューは一息で叫ぶと痛みに俯くマイクロトフの顎をとらえて仰向けさせると有無を言わさず口付けた。
「カ……ん…―――」
最初から深く合わせた唇に、容赦も無くカミューの舌が滑り込んで遠慮も無く口内をなぞり刺激を与えてくる。その呼吸すら奪うような性急な求めにマイクロトフはなすがままだった。
そして長い口付けが解かれた時、お互い息も上がっていてマイクロトフは半ば呆然と、カミューは少し目を潤ませて相変わらず怒ったような表情をしていた。しかし事はそれだけでは終わらなかった。
カミューは不意にふっと厳しかった表情を微笑に変えると、マイクロトフの目の前で着ていたシャツのボタンをひとつひとつ丁寧に外し始めたのである。そして黒い瞳が呆然と見詰める中、すっかりと前を肌蹴させると今度はそっとマイクロトフの右手を取った。
「マイクロトフ……いい加減、わかれ」
呟きを落としてマイクロトフの手を自分の胸―――心臓の真上に当てさせると目を伏せた。
「ずっと、高鳴りが止まらないんだ。これを何とかするのはマイクロトフの責任だろう?」
「あ……―――」
「……分かった。回りくどい言い方をしたわたしも悪いんだと思うよ。つまりな―――何とかしろマイクロトフ」
最後の命令口調に、それまでずっと凍り付いていたマイクロトフの思考にぴしりと亀裂が入った。ついでに理性にもその亀裂が及んでしまったのはもう仕方の無いことであるし、ここまでくればそれはカミューの望むところでもあった。
滑らかな素肌に触れさせられていた掌を、改めて自分の意思ですべらせると漸くカミューがほっとしたように息を吐いた。その後に些か乱暴に押し倒されても微笑みすら浮かべてくる。
「マイクロトフ」
うっとりと名を呼ばれるに至って、カミューをここまで待ち侘びさせた己の不甲斐なさに少々の悔やみを覚えるマイクロトフであった。しかし、これほどまでに積極的なカミューも滅多に見られるものではなく、そこまで追い込んだ現状には何となく僥倖を感じる。
色付いた胸の尖りを撫で擦ると、カミューが恥ずかしそうに目を伏せる。
そう言えば部屋の明かりは灯ったままである。常ならばこの段階でもう部屋は暗がりに落ちているのだが、今日はまた状況が違うのだ。何しろカミューからの誘いである、手順が狂っているのは当然である。
と、そこで漸くマイクロトフは先程行われたカミューからのあからさまな程の誘いを思い出した。
何故あれで気付かなかったのだろうと、己の呆け具合が可笑しいほどだ。
常に無く接触を求め、耳をなぶり―――。
「あ…っ」
そう、カミューは耳が弱い。自分がそうされた時とは比べ物にならないほどの顕著な反応をする。耳を舐めるだけで跳ねる肢体を、抑えるように手を這わせればぞわりと鳥肌が立っている。それは右耳をなぶれば右側に現われ、左をなぶれば同じように。
いつの間にかカミューの身体は、マイクロトフの愛撫に応えて汗ばむほど熱くなってきていた。そのやはり常とは違う早急な昂ぶり方に、久しぶりだからなのかと思い至る。いつもはもっと時間をかけてゆっくりと溶けていくのだ。それがなんとも普段の飄々とした青年のものと違ってマイクロトフの欲を、また同じようにゆっくりと煽って行くのだ。と、そんな野暮なことを考えていると、ぐいっと伸びたカミューの白い手がマイクロトフの前髪を掴んだ。
「ま…た……別の事を考えて……るだろ……」
「つ…っ、だから、俺はおまえのことしかっ」
気だるげな腕を持ち上げて掴んでいるものだから、マイクロトフの髪にかかる重量はひどい。
「痛いから離してくれ」
「集中しないおまえが、悪い……そんな上の空だったら、こっちが抱くぞ」
「………」
最後の一言に冗談ではない本気を感じてマイクロトフは息を止めた。
「すまん」
誤るとカミューは目を伏せ髪から指を解いた。そしてポツリと漏らす。
「たとえわたしのことだとしても、おまえの記憶の中のわたしは、今、こうして目の前にいるわたしとは違う」
「おい、それは…」
カミューの言わんとすることに思い至ってマイクロトフはそれ以上を言い淀む。はっきりと指摘したならば、睨まれそうだったからだ。だが、睨まれても本当にそうなのだとしたら、それはマイクロトフにとってとても嬉しいことだった。
「俺の記憶にある自分自身に、妬くのか?」
だからつい、そうたずねていた。
そして思ったとおりに、カミューは一瞬だけ目を瞠って驚き、それから睨みあげてきた。だがそうしながら告げられた言葉はらしくなく素直だった。
「そうさ。おまえの記憶に刻まれた過去のわたしにすら、わたしは妬くね」
呆気に取られてマイクロトフが黙り込むと、カミューは唇を真横に引いてマイクロトフを真っ直ぐ見詰めた。
「だからマイクロトフ、ちゃんとわたしを見て、それで……名前を呼んでくれないかな」
不意に琥珀の瞳が哀しげに曇る。その言葉の意味を辿ってマイクロトフは首を傾げた。するとカミューはますます瞳を曇らせて項垂れた。
「おまえの声に名前を呼ばれるのは、とても好きなんだよ、わたしはね」
「それ、は」
まさに己が考えていた事と同じ事を言われてマイクロトフは面食らった。だいたい今日も、この部屋に二人揃って帰ってきてからも何度カミューが自分の名を呼んだかしれな…―――。
「……!」
思い至ってマイクロトフは目をむいた。
自分がして欲しい事を、カミューはどうしても簡単には口にしない癖がある。欲が無いと言えばそうなのだが、恐らくはマイクロトフの知らぬほど昔、望んでも与えられなかった遠い日々がそうさせるのか。しかし言葉にしなくとも、時折それを暗示するような行動に出る事がある。
見詰めて欲しい時は見詰めてくる。触れて欲しい時は、自発的に触れてくる。名を呼んで欲しい時は―――。
「どうも、今夜の俺は鈍くていかんな」
呟いてマイクロトフは目を閉じてカミューに詫びた。
「すまん………カミュー」
「別に…謝らなくても良い。今からでも良いから、マイクロトフ」
下から見上げてきながらカミューは両手をマイクロトフの首に絡めて抱き寄せた。そして近付いた耳元で、そっと囁きを寄せた。
たくさん―――頼むよ。
あぁ、それはもう。
マイクロトフは強く頷いてそれを実行するために、まずは口付けをカミューにおくった。
end
らーぶらーぶ
やっぱり甘く幸せがいちば〜ん
愛こそすべて
(ほんとは裏用に書いてたんだけどいちゃいちゃするだけで量かかっちゃって……どうよ?)
2002/04/17