思い出の波
たとえば、彼を失ったらと―――考えてみたことなど数え切れないほどあった。
夜半に訪ねてきた恋人が、片手に携えていたのは一本のワインボトル。真っ赤な液体を揺らめかせて悪戯に笑うカミューを、マイクロトフは黙って室内に招き入れた。
どちらかがどちらかの部屋に、こうして深夜に訪れるのはそう珍しいことではない。そもそもが忙しい身だから執務は遅くまでかかる。それを終えてから騎士服を脱いでこざっぱりと人心地つくころには、もうすっかり宵を過ぎているのだ。
しかし、もう寝るところだったとしても訪れた恋人を追い返す無粋など、これまで働いたことは無い。寝るなら寝るで、丁重に寝台まで誘うのが常である。そうした時はたいていどちらも疲れ果てているから、互いの体温を頼りに穏やかな眠りにつく。
そうではなく、眠れなくて訪れた時は、棚に置いてある酒の封を開けたり、あとは肌を求め合ってみたり。夜の過ごし方はいくらでもある。
しかしこの夜は、滅多に無い貴重な酒の存在に、眠気もなにも吹き飛んだマイクロトフである。なるほどカミューの悪戯な笑みはこの所為であったかと納得しながら気に入りのグラスを二つ出した。
「いったいどこで手に入れたんだ」
「賄賂」
「なに?」
予想外の返答に気色ばんだマイクロトフにしかしカミューはくすくすと笑って手を振った。
「冗談だ、実は祝いで貰ったんだよ。今日は、部下に子供が生まれたんだ」
「誕生祝にこんな酒をか?」
マイクロトフが驚くのも当然のことで、目の前に鎮座するボトルは手に入れようと思ったら騎士の一月分の給料ほどをあっさりと手放さなければならないくらいのものなのだ。もしこんなものを子供の誕生祝に知人に配ったとしたら、生活費にだって困るのではないか。
ところがそんなマイクロトフの驚きなど最初から予想していたのだろう。カミューはにやりと笑うと、そこはね、と囁いた。
「わたしの人徳と言うものだよ、マイクロトフ。これはわたしだけに贈られた特別の品だ。部下の父親がね、感謝の気持ちだと言って、秘蔵のものを一本分けて下さったんだよ」
言いながらカミューは惜しげもなく、ワインの封をナイフで切り落とした。
そして器用にコルク栓を抜く。途端に鮮やかな芳香が立ち上った。
「流石だ。良い香りがする―――さて、まずは開封直後に味見をしようか?」
赤ワインは通常空気に触れさせるほど味わいが良くなると言われる。だから本来なら、事前に封を開けて別の器に移し変えて置いておくのが一番なのである。しかし今日は突然のことでそんな暇など無かった。
カミューは僅かばかりを二つのグラスに注ぐと、ボトルをテーブルの真ん中に置いた。そして手前のグラスを手に取り、香りを楽しむ。マイクロトフも同じようにグラスを手に取り、さっさと舌の上に放り出した。
「……うまい」
「だな」
見ればカミューもワインを口に含み、目を伏せて微笑を浮かべている。その秀麗な面差しをぼんやりと見つめながら、マイクロトフはこの相伴の理由を問うた。
するとカミューは微笑をたたえたまま、ひっそりと呟いた。
「………一年前の戦いを、覚えているか」
「ああ、覚えている」
ハイランドとの国境で、赤騎士団がハイランド軍と小さくは無い小競り合いを起こした。被害は甚大で、近年で一番の死者が出た戦いだった。そこでカミューは多くの部下をなくしたのだ。
「今日子供が生まれた部下は、あの戦の生き残りだ」
「………」
「息子を生き延びさせてくれたと、感謝されてしまったよマイクロトフ。おかげで孫の顔が見れたと涙ながらに」
そしてカミューはグラスに残ったワインを干した。
「こんな高価な酒をわたしにと言うんだよ。こんなもの、わたし独りでは到底、飲めないじゃないか」
マイクロトフも、黙ってグラスの酒を呷った。
自分でいうのもなんだがマイクロトフ自身は酒に強い。多少飲んだところで酔うことは無く、翌日にも残らない。そしてカミューも負けず劣らず、ザルと呼ばれるほどに酒に強い。しかも彼はマイクロトフ以上に味にうるさい男だ。
しかし、それを彼は独りでは飲めないと言う。
カミューは黙って、空いたマイクロトフのグラスにワインを注いだ。まだ封を開けたばかりの赤ワインは、先ほどからそれほど香りを違えてはいない。
「飲んでくれマイクロトフ。美味しいだろう」
「ああ、うまい」
「わたしも飲むけどね。ああ、なぁマイクロトフあれがあったろう、あの豊作年のとっておきの赤」
不意にカミューは指先を閃かせた。
己の空いたグラスにも酒を注ぎ足しながら、マイクロトフの部屋の棚を指し示すのだ。
「何だ。……まさかあれを開けろと言っているのではないだろうな」
「そのまさかだよ。こんな良い酒、たった一本開けただけで今夜は終わらせる気かい?」
くすくすと笑ってカミューはグラスに満ちたワインを今度は勢い良く喉に流し込んだ。
「良いじゃないか。明日は―――確か大きな訓練なんかはなかったろう? 飲もうよマイクロトフ」
はや酔い始めたとでもいうのか、潤んだ琥珀にそう訴えられて、マイクロトフに否やと返せるはずも無かった。
卓上の空きボトルはもう既に三本。
いつしかカミューは機嫌良く笑い声を飛ばしながらマイクロトフと様々会話を交わし出していた。
「覚えているかマイクロトフ。あの時、あいつは本当は痛くて今にも泣き出しそうだったんだよ」
「ああ覚えている。やせ我慢をして後で医師に怒られていたな」
そう語る昔の友人はもうこの世にない。
「あとは、あの失恋したと騒いでばかりいた―――あいつは本当はずっと本命がいた一途な奴だったんだ。なのになかなか言い出せなくて、結局本命は別の男にさらわれてしまって」
「うむ、それから後がしばらく大変だったな。おかげで慰める言葉をたくさん習得した」
そんな友も、今は墓石の下に眠っている。
「なぁマイクロトフ。皆、懐かしいな」
「そうだな。今でもありありと思い出せるが―――随分と懐かしい」
「こんなでは、四十五十になった時、一晩じゃ語り尽くせないよ」
「まったくだ」
カタン、と。置いたグラスを握り締めてカミューが酔いに火照った頬を掌に隠して微笑む。
「ほんとうに、ついこのあいだのことのようなのに」
ぽつりと呟いて琥珀の瞳を閉じる。
そして、それきりカミューは口を閉ざした。
マイクロトフは暫く黙り込んでそんなカミューを見ていたが、そのうちグラスを握っていた彼の指先がほどけていくのを見て、ワインボトルのコルクを手に取った。
「カミュー」
コルクを掌に握り締め、その感触を味わいながら呼び掛ける。しかしカミューは何の反応も返さなかった。
「眠ったのかカミュー」
問い掛けというよりは確認のようにマイクロトフは言って、まだ少し中身の残っているボトルの口にコルクを押し込むと、手を伸ばしてカミューの指からグラスを抜き取った。
そして黙って卓上を片付けると、足音を立てずにカミューの背後に歩み寄った。
手を伸ばせば柔らかな金茶の髪。愛しげに数度それを指先で梳きながら、マイクロトフはカミューの肩に触れた。それからやはり反応の無いことを確かめると、おもむろにその身体を椅子と卓から抱き上げた。
流石に眠り込んでしまった身体は重い。だが運ぶ先は僅か歩くだけの距離にある寝台の上だ。マイクロトフは危なげない足取りでカミューを横抱きに運ぶと、抱き上げた時と同じようにやさしく敷布の上に下ろした。
カミューがあれだけの酒で酔いつぶれるなど、普段ならありえない話だ。ただ、今夜は酔ってしまう要因があっただけのことである。思い出の波がカミューを飲み込んでしまったのだ。
酔ってしまいたい夜。
その相伴の相手に自分を選ぶカミュー。
酔い潰れた姿を無防備にさらす、唯一の相手。
「カミュー……」
静かに名を呼び、マイクロトフは部屋の明かりを消した。
小さな衣擦れの音がして、後にはかすかな寝息だけが響く室内。
夜明けまで、その穏やかな気配が破られることは無い。
END
酔うと亡くなった人のことを良く思い出すんです。
楽しい思い出に笑ったり、その喪失感に泣いたり。
少々感傷的な夜でございました。
2003/12/20