想いの根拠7


 それから二人してマイクロトフの持って帰った暗示の書籍などを読んだりしていたのだが、どうにもその内容が頭に入らない。
 暗示の本と言っても内容はばらばらで、『初心者にもできる暗示』とか『暗示による自己啓発』とか『恋愛における暗示』とか。大体が暗示をかける方法と、その眉唾ものの効果ばかりをあげている。
 医学書めいた、暗示による精神的な被害や障害への対処を書いたような本はなかったのである。
 そんなものだったから、マイクロトフなどは暫くは顔を顰めて文字を目で追っていたのだが、直ぐに集中力が途切れて本を閉じてしまった。すると傍らのカミューもまた同じように本から視線を逸らしてそんなマイクロトフに苦笑を向ける。
「流石に、そうそう都合の良い記述は見つからないね」
 今、自身が大変な状況であるにもかかわらず、相変わらずの柔らかな微笑を浮かべてそう語りかけてくれる。思わずマイクロトフは手にしていた本を傍らに置き、立ち上がっていた。
「カミュー」
「うん?」
「俺は、カミューが俺のことを忘れてしまっても、気にしないからな」
 そう口にした途端、琥珀の瞳が翳りを帯びてその表情が憂いに満ちた。それに気付いてマイクロトフは慌てて首を振る。
「ち、違うぞ。悪い意味ではない。その、おまえを責めているのではないんだ。カミューが悪いことなど少しもないのだから」
「だがわたしは……」
 しょんぼりと落ち込んでいくカミューに、マイクロトフは焦った。
「待て、後ろ向きに考えるな。名前が言えないくらいなんだと言うんだ。俺はたとえ目が見えなくとも耳が聞こえなくとも、カミューが好きだぞ?」
 これは悪いたとえだが。
 言って決まり悪そうにマイクロトフは俯いた。しかしその言葉に偽りは無い。今が戦時である自覚は嫌というほどあるのだ。絶対や必ずなどという言葉を使うような愚かな真似をするつもりはないが、この先カミューの身に何かが起こったとしても、それでマイクロトフの中の愛情が変質することはないだろう。
 きっと自分はどんなカミューも愛しく想うのだろうから。
「カミューは、違うのか。俺の名前を思いだせなくなったら、気持ちも一緒に忘れてしまったか」
「……なっ!」
 途端にカミューは青褪めて強く睨み返してきた。
「そんなわけがないだろうっ」
 その荒い語調にマイクロトフは思わず笑みを浮かべた。
「ならば、良い。大丈夫だ」
 そして頷くと、気勢を削がれたらしいカミューが呆気にとられたような顔をしてマイクロトフを見詰めていた。
「カミュー?」
 どうした、と名を呼ぶと不意にその秀麗な面差しがくしゃりと歪む。そしてあるかなしかの声で小さく聞こえた。
「悔しい」
「なんだと?」
「……今、おまえの名前が呼べないのが本当に辛い」
 見れば琥珀の瞳は強い光を湛えていながらもゆらゆらと揺れて、足元を見下ろして露わになったうなじが儚げな様相を思わせる。そして独白のような呟きが床に落ちていく。
「愛しているよ『おまえ』を。だけどまだこうして口がきけるだけマシなんだろうか。想いを伝えられるだけ、幸いなのかな」
 それからふわりと持ち上がったカミューの顔は、淡く微笑んでいた。
「苦しい。だが、それはおまえを想うからなんだよ。誰よりも大切だからこそ、名前を呼べなくてこんなにも心が痛い」
 そして本当に胸を痛めているかのように、そっと心臓の真上を掌で押さえてカミューは目を伏せた。その目蓋や頬が気の所為かいつの間にか透き通るほど白くなっている。
「全身が名を呼びたいと叫んでいるのに、どうしても…言え……ない」
「カミュー……」
「うん。だがもうわたしは焦らないよ。おまえのことを名前だけでなく他のことも忘れてしまったとしても、この苦しみは消えない。おまえを想う心がある限り、苦しいからね」
 そして薄らと微笑を浮かべたカミューを、マイクロトフは眉根を寄せて睨んだ。
「カミュー、一人で苦しむつもりか」
 思わず剣呑な声音になっていた。
 しかし青白い顔で笑っているカミューの姿はそれだけ痛ましい。
 ところがそんなマイクロトフの不安とは裏腹に、カミューはゆっくりとかぶりを振った。
「いや、あんまり苦しかったら助けを求めるよ。取り敢えずは今、胸が引き裂かれそうなんだ、慰めてくれるかい」
 そして首を傾げたカミューに、マイクロトフは無論だと頷いて手を差し伸べた。
「俺はいつでも、カミューの傍にいるからな」
「ああ、頼むよ」
 腕の中に引き込んでその髪を掻き上げながら、耳朶に言い聞かせるように囁くと、胸の温もりに擦り寄るようにカミューが頷く。

 夜の帳はそんな二人を優しく包み込むのだった。





 明けて翌早朝。

 まだ起き出すには早い時刻に、カミューは薄らと目覚めた。
 剥き出しの肩が冷えて寒かったためだろうか、毛布を手繰り寄せようと身じろいだのだが、身体は何かにがっしりと押さえられて動かない。辛うじて片腕だけが自由だった。
 一体何がと思って、未だはっきりと覚醒しきらぬ頭で目を開けると、目前にきりりとした男らしい表情の寝顔を見つけた。

 ―――誰だろう……。

 ぼんやりと首を傾げた。
 しかしこの温もりは良く知っている。
 自分の身体を抱く腕の確かさと、接する肌から伝わる脈動と胸の鼓動も。
 今は閉じられた目蓋の下に、髪の色と同じ澄んだ黒が潜んでいるのも。
 しかし。

 ―――誰だったかな……。

 名前が出てこない。

 けれど。

 とくん、とそんなカミューの胸が甘く疼いた。
 この温もりに包まれる心地良さも、鼓動を感じて得る安心感も、その瞳に見詰められる幸福感も。
 掛け替えのない大切なもので、何よりも愛しい。

 微笑んでカミューは、更なる温もりを求めてその腕の中によりいっそう潜り込んだ。
 すると―――。
 再び眠りの世界に落ち掛けたその肩に、ふわりと毛布が掛けられた。
 そして慰撫するようにその肩を毛布越しに撫でる掌があり、一瞬だけ、ささやかな声が夢に埋没しようとする耳にするりと忍び込んだ。



「俺は、マイクロトフだ……」



 ああ、そうか……。
 夢心地、カミューはぼんやりと頷いた。





+ + + + +





 その数刻後のことである。

 早朝訓練から戻ったマイクロトフが部屋に戻ると案の定、カミューはまだぐっすりと寝入ってた。
 ピクリとも動かず、上下する胸と微かな寝息だけが存在感を醸すのだが、その穏やかな寝顔は実に幸福に満ちている。毎朝のことだがマイクロトフはこの寝顔を必ずじっと見詰めてから、彼を起こそうと試みるのだ。

 この朝も、そうして暫くカミューのややあどけなさの漂う平和的な寝顔をじっくりと堪能してから、そっと手を伸ばした。
 昨夜は縋って来る腕があまりに嬉しくて、つい少しばかり度が過ぎた様な気がしないでもないので、起こそうとする手には慎重さが宿る。
 まず毛布越しに肩を撫でる。
 今朝起きたのは、腕の中で彼が寒さにか震えた所為だった。薄く開いた琥珀の瞳が茫洋と自分を見詰めていた。それがどうしてだかキョトンとしていて、マイクロトフはじっと息を詰めてそんな彼の気配を探っていた。
 すると微かに掠れた声で聞こえたのだ。
 誰だったかな、と。
 思わずマイクロトフは目を瞠って思考が停止しかけたのだが、驚愕している間に腕の中のカミューがごそごそと自分の胸に擦り寄ってきたのだ。
 そんな真似をされると驚愕などあっという間に吹き飛んだ。
 仕方無くぼそりと答えて、それから冷えた肩に毛布を掛けてやったのだが、その後時間が迫るまで暫くそんなカミューの肩を撫でていた。
 その数刻前と変わらない感触に思わず苦笑が漏れる。

「カミュー、起きろ……」
 優しく声を掛けるが、やはりというか当然というか、カミューの起きる気配は微塵もない。だからその肩に掛けた掌でゆさゆさと身体を揺すってみる。
「朝だ。起きろカミュー」
「……う…ん…」
 くぐもった声が敷布に散る金茶の髪の下から聞こえる。
「ほら、カミュー」
「うー……やだ」
「嫌だではない。起きろ」
 毛布に指を掛けてそっと剥ぐと、白い肌が見えた。すると寒かったのかぶるりと震える。その背中に掌を這わせて撫でると、ぴくりと顕著な反応が返った。
「カミュー?」
 問い掛けながら背中を上下に摩るようにすると、背筋がぴくぴくと波打つように震える。どうやら起きたらしい。
「起きたか……?」
 ひっそりと笑みを噛み殺しながら聞くと、ごそりと手の下の身体が反転して、振り返った肩越しに恨みがましい眼差しと視線が合う。
「身体がだるい」
 そして掠れた声でそんな文句を言われて、マイクロトフは今度こそ笑みを浮かべた。
「おはようカミュー。今日も良い天気だ」
「ああ、そうだね。随分と眩しい……おはようマイクロト、フ……」
 途端にカミューの表情が氷のように固まって、その瞳が真ん丸く大きく開かれた。マイクロトフはわけが分からず眉根を寄せる。
「どうした」
「……マイクロトフ」
「うん?」
 なんだ、と首を傾げた途端。カミューが腕を伸ばしてマイクロトフの首に飛びついてきた。
「っだ! うわ!」
 突然の勢いに支えきれず床の上に倒れ込む。必然、カミューも一緒に寝台の上からずるずると毛布を纏わせたまま、そんなマイクロトフの上に倒れ込んだ。
「な、どうしたカミュー!」
「言える!!」
「ああ!?」
「マイクロトフ!」
 よくよく気付けば喜色に満ちた声が鼓膜を震わせる。
「マイクロトフ、マイクロトフ、マイクロトフ……っ」
 首に強くしがみ付きながら耳元でカミューは何度も繰り返した。そこで漸くマイクロトフも理解した。
「カミュー……暗示…解けたのか」
 呆然と呟くと、何度も頷く気配がする。
「どうしていきなり」
「分からないけど、でも良い。元に戻ったのならそれで良いよ、マイクロトフ」
「ああ……そう、そうだな…」
 ほっと安堵の溜息をこぼして、マイクロトフもカミューの背中に手を回してぽんぽんと撫でる。そしてこの三日ほどの間、言えなかった分を補うかのようにカミューが繰り返し自分の名前を囁く声を耳に、微笑を浮かべた。
「カミュー、とにかくちゃんと起きて皆に報告をしにいこう」
 するとまた耳元で頷いて「うん、マイクロトフ」と聞こえた。



 よもや、早朝の半分眠った状態での名乗りが、暗示の解除を促したとは思いもよらないマイクロトフとカミューである。
 今朝の時点でカミューはマイクロトフのことをすっかり忘れてしまっていたのである。
 だが、カミューはそれでもマイクロトフを見知らぬ他人と突き飛ばすような真似はしなかったし、マイクロトフもカミューに「誰だ」と言われて無視するような真似もしなかった。

 それが、想いに揺らぎがなければ暗示など大した問題ではないとの証明だったのかもしれない。



end



お題は『何らかのショックで一時的に記憶喪失する赤』と『赤の記憶を取り戻そうと悩む青』でございました…。
微妙〜〜ですよね。すみません〜〜〜〜(汗)
しかも長いことかかってしまって、それも申し訳無く。
いや、でもちゃんと楽しんで書かせて頂きました。
赤さんを苛めるのが好きなのですよ……(笑)
でも青による救済がちゃんとあるという前提ですけどね〜。
皆様にとっては楽しいお話になりましたでしょうか!

2003/09/01