桜 色 の 風


 ふとしたひょうしに掌に滲む汗に気付く。窓を締め切っているとそろそろ汗ばむ頃合なのか、昼も過ぎれば中天を過ぎた大らかな陽光は少し眩しく、強い熱を地上に孕ませる。
「窓、開けようか」
 顔を上げ、室内を見回してそこにいるのが自分と副長のオブライエンだけなのだと気付き、カミューは気軽にそう声をかけた。すると副長はガクン、と顎を落とした。どうやらこの春の陽気に負けて薄らと居眠りしていたらしい。
「し、失礼を…」
 畏まって照れと焦りにどもりながら彼は立ち上がると真っ直ぐに窓へと向かった。蝶番が渇いた音を立てて春の空気を室内へと引き入れる。途端に爽快な微風が髪を撫で、湿気を吹き飛ばした。
「気持ち良い季節になったな」
「ええ、外の景色も随分と穏やかな色合いになってまいりましたよ」
 すっかり眠気を取り払われたらしいオブライエンがそう言って窓外を指し示した。カミューが首を捻って外を覗くと、なるほど数日前まで色合いの乏しかった景色に新緑や淡い花々がちらほらと彩りを見せ始めている。中でも桜の見事な満開具合はなんとも言えず小春日和を感じさせた。ちょうど窓際に桜の大木があるために、張り出した枝は当然桜色で景色の半分を染め上げているのだ。それは風が吹くたびにちらほらと花びらを散らせ、そろそろ満開の盛りを過ぎて散り頃を示していた。
「花見がしたいなぁ」
 呟いてカミューは目の前の書類を見やって苦笑した。
「まぁ、この景色だけで満足するしかないか」
 おどけたように言うと副長も苦笑いを浮かべた。
「お疲れ様です」
「本当だな」
 本来ならば休日のこの日に、団長職の多忙さゆえに仕事に追われているのだ。致し方無しと溜め息のひとつもつきたくなるものだった。



 西日が淡く射す頃合。桜の花びらも橙色に染め上げられて、景色は幻想的な空気を醸し出す。
「やれやれ…」
 ふと息をついてカミューは顔を上げた。
 開け放っていた窓からは涼しいと言うよりは冷たい風が吹き込み始めている。窓外を覆う桜の張り出した枝からは幾枚かハラハラと花びらが散り落ちている。僅かならば風情もあって掃除しようという気にはならない。
「明日…早めに切り上げて花見しようかな」
 ぽつりと呟く団長に、オブライエンは動かしつづけていた羽根ペンを止めた。
「宜しいですなぁ」
「うん決めた。花見しよう花見――― そうと決まれば今日はもう少し頑張ろう」
「お付き合い致します」
「それは助かるが、良いのか? 最近帰りが遅いと奥方に責められているとこの間言っていたばかりだろう」
「最近はまた、花見にくらい連れて行けと責められているのですよ。もし宜しければ明日、赤騎士団は午前で執務全てを切り上げられるよう取り計らっても…?」
「良いね。幸いここ数日は厄介な執務も無い事だし」
 団長の快諾に副長は笑みを深めた。だがそんな時、それはやってきた。

 ゴンゴン、とやや勢い余ったようなノックの音に続いて聞こえてきたのは青騎士団長の声。
「カミュー! 俺だ!」
 入るぞ、と一声あってガチャリと扉が開く。と、その時室内の空気が流れた。
「だ……っ」
 ハッとして手を伸ばしそれを制したカミューだったが、時既に遅し。扉はすっかり開け放たれ、風の通り道が完全に出来あがってしまった。それはまるで紋章の発動に似て、窓から一斉に桜の花びらが舞い込み、室内が桜色に染め上げられた。
 散った桜の花びらに彩られたカミューの執務室を、呆然としてマイクロトフは見ている。その手は自分が開けてしまった扉の取っ手を確りと掴んでいるままだ。
「すま…ん」
 ぽつりと呟いてマイクロトフは未だ吹き込む桜の花びらに意識を奪われている。その脇にオブライエンが滑り込んだ。
「マイクロトフ様」
 失礼、扉を――― 素早く呟いてマイクロトフの手を取っ手から外して扉を閉めた。途端に舞い踊っていた花びらたちは力を失ってハラハラと床に降り、室内に静寂が戻った。
 一瞬の事で、どう対処していいやら分からぬその場の三人だった。なにしろ、執務机も棚も床も全て舞い込んだ桜の花びらに覆われてしまっているのだ。固まったままそんな室内を凝視する面々だったが、不意にカミューが押し殺したように喉で笑い声をたてて静寂は破られた。
「見事な花見になったものだなぁ」
 くっくっく、と愉快な笑い声に混じってそんな言葉が吐かれると、オブライエンも目尻を下げて笑う。
「さようですな。これほど壮観な花見もなかなか御座いませんでしょう」
 そして赤騎士の団長と副長が何やら楽しげに笑う中、マイクロトフだけが困惑顔で室内と二人を見比べ、首を傾げる。
「二人とも何がそんなにおかしいんだ?」
 しかし二人は可笑しそうに笑うばかりで答えを返さない。
「いやはや、これはもう無理に執務を切り詰めずとも良いかもしれませんな」
「そうだな……なんだか今ので私はすっかり気が済んでしまった」
「何の話をしているんだ?」
 頭を抱えるマイクロトフに、だが何処か晴れやかなカミューと副長はやはり笑うばかりで何も教えはしなかったのだった。



 その夜。
 夕飯の後に執務室に来るようにとカミューに言われてマイクロトフは、室内を花びらまみれにさせた詫びに掃除をしろとでも言われるのだろうかと考え、しかしそれも已む無しと決意を固めてそこへ赴いた。
 先刻とは違う控えめなノックに、室内からカミューの応えがある。
「窓は閉っている。開けても良いぞ」
 言われてそろりと窺うように開けてしまうのはもう仕方のない事である。だが開けた扉の向こうは薄暗闇に包まれていて、一瞬目をしばたくマイクロトフだった。
「カミュー?」
 呼びかけると窓辺から人の身動きする気配がある。
「ここだ」
 返事に目を凝らすと薄い月明かりを背に、窓辺に凭れる人影が見えた。その手に月光を受けて光るグラスも見える。いったい何を、と眉を寄せていると続けざまにカミューの声が届いた。
「足元に気をつけろよ。花びらで滑りやすくなっているから」
 そうして人影がこっちに来いと手招きをする。
 誘われるがままに、言われた通り足元に気をつけて窓辺に歩み寄ると、はっきりとそこに凭れて座るカミューが見えた。
「何をしているんだ」
「花見酒」
 返事と一緒に下におろしていたカミューのもう一方の手が持ち上がり、ワインの満ちたグラスを目前で揺らされる。驚きと呆れにマイクロトフは額を掌で覆った。
「な…おまえ、執務室で飲酒だと…?」
「夜だし、執務中ではないんだ。堅苦しい事は言ってくれるな。それよりほら…」
 もっと傍に来い、と腕を引かれて視線を促された先にあるものに、マイクロトフは言葉を一瞬失った。
「なかなか絶景だろう」
 静かなカミューの声に無意識にマイクロトフは頷いていた。
 その視線の先にあるものは、半月を頂点に擁き、その淡く白い光りを受けて発光するかのように輝く桜の花びらの群れだった。
「夜桜は昼のものとはまた別のものだと思えないか?」
「ああ…」
「これを肴に、おまえも飲まないか?」
「ああ…」
 呆然としながらマイクロトフはカミューからグラスを受け取ると、そこにワインを注いでもらい口元に運ぶ。苦味に混じる僅かな甘味が舌の上に広がり、視界を染め上げる景色とあいまって更に幻覚にとらわれたような気分に陥る。
「マイクロトフ」
 呼ばれてふと顔を向けると、カミューが指を伸ばして自分の前に空いた空間を指す。そこに座れと言う意志表示と気付いてマイクロトフは黙ってそこに腰掛けた。だが直ぐにまた腕を引かれて今度は室内に意識を引き戻される。
「なんだ?」
「良いから、ほら見てみろ」
 そうしてまたも促された先を見ると、室内がぼうっと白い輝きに満ちている事実に気付いた。
「え…?」
 いったい何が光っているのだと困惑するマイクロトフの耳に、カミューの優しい言葉が触れる。
「部屋に入って来たばかりの時は目が暗闇に慣れていなかったろう…だが今なら見えるはずだ」
「あぁ、そうか…」
 白く光っているのはマイクロトフが散らした桜の花びらの数々だった。
「明日には片付けられてしまうから今夜だけの特別演出だ」
 そんなカミューの名残惜しそうな言葉は、だが何処か楽しげで。
「せめて今夜一晩、一緒に楽しんでくれないか」
 そうして掲げられるグラスに、マイクロトフは即座に頷いていた。
「あぁ」
 一時だけ与えられた特別な空間を、共に味わう事になんの障害があろう。何よりも部屋を散らしてしまったと言う罪悪感にばかり苛まれていた己の心を、こうして癒され許される事に、何よりの感謝を覚える。

 だがマイクロトフは知らない。
 己が扉を開けたあの瞬間に、舞い込んだ無数の桜の花びらに、それを孕んだ風に包まれたカミューが絶句するほどに感動していた事を。寒さも遠のいた春日に、細雪に似て非なるそれに煽られた刹那は、例えようも無く美しい一幕だったのだ。喜びこそすれ、責めることなどありはしなかった。
 だから謝るばかりの男に少しばかり浮上してもらおうと、夜桜に誘った。
 何よりも自分の受けた感動を少しでも分かってもらいたくて。

「マイクロトフ」
「ん?」
「綺麗だよな」
「あぁ」
 なんの含みも無い純粋な同意に、カミューもまた微笑んで頷いたのだった。


END



毎日通っている場所があります
そこは桜並木の真ん前にあるビルで
ある日自動ドアを開けたら外からぶわっと桜の花びらが舞い込みました
驚く私と友達を警備のおじさんが嬉しそうに笑って見ていて
良く見ると入り口の床は桜の花びらに埋まっていました
翌朝には綺麗に掃除されていましたけど
あの瞬間は忘れ難いほどに舞い散ってくる花びらに圧巻されてしまいました
(しかしもっといちゃついてほしかったなぁ…しっぱい)

2001/04/15