良かった



 わたしを涙させる事が出来るのは唯一。

 わたしを幸福に出来るのもまた唯一。










 五月雨に泣く窓硝子を、飽く事無く見詰め続けていると、何処からともなく眠りの使者が訪れる。不意にガクンと衝撃に揺れた顎に覚醒を余儀なくされて、カミューはぼんやりと落ちかけていた首をもたげた。
 広い会議テーブルの差し向かいに、苦り切った顔のマイクロトフが見えた。

「会議中に居眠りをするとは……」
 米神を指で押さえ、マイクロトフは信じられぬと首を振るう。カミューはそれに対し軽く眉を持ち上げて、にやりと口角を持ち上げた。
「雨の日は何もかもが億劫で退屈なんだ」
 特に晴天続きに気紛れに降る雨の日は。言ってカミューは目の前のティーカップに指をかけた。数日雲一つ無い天気が続き、それこそ暑い季節の前のほんの息抜きの時期に、雨など降られては何もする気になれない。雨具は埃を被っているし、紙類は湿気を含んで重くなり書類も本も扱い難くなる。少し動けばじめじめと汗を掻くし、何処へ行くにも鉛色の空のおかげで昼間なのに灯りが欠かせない。今も、本来なら騎乗訓練のはずが雨だなんだと予定が崩れ、ぽっかり空いた時間を持て余して二人でお茶なんぞ啜っている。まったく退屈極まりない。
「だからと言って会議中に居眠りをして良い言い訳にはならんぞ」
 マイクロトフはそう言って、それでもそれっきりその話を打ち切る。
「ところで、お前昨日妙な事を言っていたな」
 突然会話の内容が変わる。
「昨日?」
「あぁ、夜に。寝床で」
 ぼそりと呟いてマイクロトフは指先で自分の、もう既に空になったティーカップに触れた。爪があたって小さな金属音が鳴る。そんな様子に、照れるなら口に出さなければ良いのにと思いながらカミューは聞き返した。
「あの後で?」
「後だ」
 咳払いに交えて答える。
「半分寝言か……わけの分からないことを言ったろう」
「…覚えていないな」
 首を傾げると、マイクロトフは「やはり寝言だったのか」と頷いて、視線を巡らせる。
「確か…こう言った」


 わたしを涙させる事が出来るのは唯一。

 わたしを幸福に出来るのもまた唯一。


 マイクロトフの男らしい不器用な言葉を紡ぐ唇が、そんな事を言うのは酷く不思議な気がして、カミューは一瞬ぼんやりとそれを見つめた。まるで詩を詠うのを聞くような心地だ。
「カミュー?」
 怪訝そうな声に意識が現実へと引き戻される。慌てて視線のずれを修正すると、マイクロトフが少しだけ不安な目をしていた。
「どう言う意味か、聞いても良いだろうか」
 真剣に問われて、カミューは顎を引いた。内心で困ったなと迷う。
 確かにそんな事を言った覚えがある。言われて思い出したが、あれは本当に眠る間際の呟きのようなもので、具体的に何かを思って口にしたわけではなかった。殆ど無意識に感じたままを言った気がする。
 マイクロトフの真っ直ぐな情熱に身を震わせ、我を忘れるほど夢中になったひとときの後。水面を漂うかのような倦怠に、混濁した意識があんな言葉を閃かせた。
 カミューは幼い頃からあまり泣かない子だった。大人の手をかけない良い子だと誉められた覚えがある。だがその分何処か醒めた性格もしていて、心から感動した覚えもまた少なかった。だが、と今現在を降り返って見ればどうだろう。感情があまりにも過多で止まらない。
 こんなにも――― 泣きそうなほどに想う事があるなどと考えもしなかった。何も要らないと想えるほどの幸福があるとは信じもしなかった。
 瞼がじんわりと熱くなる。その熱に包まれながらカミューは視線をひたりとマイクロトフへ据えた。

「おまえが良いと、そう言うことさ」

 ぽつりと吐く。

「良かったよ」

 かろうじてそれだけが言える。

「…良かった」

 それ以上は無理だ。言いたい事があり過ぎて返って何も言えなくなるから。
 だからそれきり目を閉じ、俯いてしまう。でも男の視線はまるで触れられているかのように生々しく感じられる。
「カミュー?」
 惑うようなマイクロトフの声に、カミューは視線を手元に落したまま微笑した。その唇が音もなく言葉を紡ぐ。



 良かった。



 おまえを好きで良かった。





 いつしか外の雨音は止んでいた。
 雨の日も、少しは自分の本音が分かって良いかもしれないと、何気なくカミューは思ったのだった。


END



はい。幸せを噛み締める赤さんでした(笑)

2000/05/03