伝えたかったこと
騎士団を離反し、同盟軍に加わってそれなりに慣れてきた頃の事だった。
ある若い娘が死んだ。
救えなかったのだ。むざと死なせてしまった。
それはある戦いの場での事だった。
誰も責められるべきではない状況であった。
娘は、自ら矢面に飛び出したのだから。
己の意思によって死に向かおうとする魂を、引き止める事は困難である。
だが、死なせてしまった。
娘の死は、あるひとりの赤騎士の死が呼んだものだった。
+ + + + +
「カミュー」
聞き慣れた声が自分の名を呼ぶ。いつもと変わらず、淀みの無い存在感のある声。こんな時までも変わらない。
「やぁマイクロトフ」
「こんなところで何をしている」
「お茶を飲んでいる」
いつもと同じように。
同盟軍のレストランのテラス、所定のテーブルで。
「そんな事は見れば分かる。俺が言いたいのは」
「墓の前で哀しみに暮れていた方が良いかな?」
先を遮ってカミューがそう口早に言うと、途端にマイクロトフが言葉に詰まって黙り込んだ。その色を失ったように伏せられた瞳に罪悪感が込み上げて、カミューは逃げるようにカップの中の紅茶に視線を落とす。
分かっている。
この場合カミューの方が間違っているのだ。
だが、カミューはマイクロトフのような打たれ強さは持ち合わせていなかった。
それなのに。
「…カミュー……」
その切ない呼び掛けにカミューは苦笑を浮かべた。強いくせに、妙なところで脆い。そこがこの男の、人から慕われ愛される点なのだろう。
「悪かった―――わたしが悪かったよマイクロトフ」
だからそんな情けない声を出してくれるな。
「カミュー、俺は、責めを言いに来たのではないぞ……?」
「うん……」
分かっている、と頷いてカミューはティーカップを置いた。
「直ぐ、仕事に戻るよ」
そう言って立ちあがろうとした。だが、すかさず肩に置かれた手がそれを阻む。
「マイクロトフ?」
「気にし過ぎるのは良くない。だから息抜きをするなとは言わん。だが―――」
そこまで言ってマイクロトフはそれ以上を言い淀む。
「なんだ?」
カミューが首を傾げると、マイクロトフは不意に顔を顰めて首を振った。
「…いや。ただ、全てがお前の所為ではないんだ。赤騎士の死は避け難かったし、あの娘が恋人だったのだとは誰も知らなかった」
低く耳に染みる声に含まれる、確かな慰めの響きは、しかしカミューの胸をいっそう締め付けるしかなかった。
「あぁ……そうだな」
殊勝に頷いて見せるものの、正直、肩に置かれた手を払い除けてそれでも自分の責任だったんだと怒鳴り散らしたい気分だった。それでもかろうじて肩の手に触れてそっと離れることで理性を保つ。
「もう、行くよ」
「カミュー…」
「後でな、マイクロトフ」
男を置いてレストランを後にする。
気にするなと、言うのは簡単だと分かっているからあんな言葉をかけてくれるのだろう。それでも責められた方がよっぽどましな気分の時もある。それが、ただの自分勝手に過ぎないのだと思っていても。
マイクロトフとは大抵、互いの都合がつく限り夕食を共にする習慣がついている。だが、この日はカミューから敢えてその習慣を崩した。
まだ夕方とも呼べる頃合ではあったが、無性に飲みたい気分に駆られ単身で同盟軍の酒場へともぐりこみ、隅の席を見つけてらしくなく独り侘しく杯を重ねた。
ところが少しも立たない内にアニタがふらりとやってきた。
「座っても良いかい?」
テーブルの縁に手をついてカミューの顔を覗きこんで来る。普段この美女剣士は親交の深いトランの女将軍とカウンターで飲んでいる事が多いはずだ。
「バレリア殿はどうなさったんです」
「見れば分かるじゃないか。ふられて独りさ」
アニタはきょろと周囲を見回すと、カミューの了承を待たずに向かいの席に腰掛けた。
「お互い相方がいない同士仲良くしようじゃない」
そしてアニタは確り持参してきたらしい自分の酒とグラスを卓上に置く。そんな女剣士の気安い態度に、そもそもから女性には気を砕き過ぎるきらいのあるカミューも苦笑して手の中の杯を掲げた。
「お酒って良いね。こうして色男と差し向かいで座る理由を作ってくれる」
「確かに、美しいレディとひと時を過ごす良い口実ですね」
微笑んで視線を合わせれば、流石に初心な娘ではないアニタも微笑を返す。
この、気の置けないアニタの気風がカミューには酷く居心地が良かった。いつの間にか良い雰囲気で互いの酒を酌み交わすようになる。だが、そんな朗らかな空気に水を差すものがいた。
「騎士って奴は、気楽なもんだな」
不意に棘のある声がそこに落ちた。
ふと振り返れば同盟軍の一般志願兵らしい顔ぶれが、少し離れたテーブルからカミューたちを見ていた。その四、五人はおろうかと言う彼らのどれもが侮蔑と嘲笑の混ざった笑みを浮かべている。しかしカミューはそんな彼らを一瞥したのみで直ぐに目前のアニタへと向き直った。
それが気に入らなかったらしい。
「おい」
剣呑な声と共にがたんと椅子の倒れる音がして、その音に今度はアニタが目を向けた。カミューはただ俯いて酒を舐めている。
「おいって言ってんだ」
険しい声は足音と共に近付き、直ぐそばまでやってきた。
「分かってんだろ騎士さんよ。てめえの事だ、こっち向きな」
「…何か?」
穏やかな微笑を湛えたまま振り仰げば、あからさまな敵愾心を向けて見下ろして来る男の顔。
はて、ここは味方しか居ない同盟軍の酒場だった筈だが、とカミューはちらりと考えて、何処にでも何かが気に食わないと言って来る輩はいるなと苦笑した。
「何笑ってやがる、てめえマチルダの騎士だろうが」
「いかにも。失礼だがあなたは?」
「俺か? 俺はそうだな、さしずめここに居る野郎どもの代弁者だ。正義面してお綺麗な調子でいやがる騎士さまに一言言ってやりたくてね」
カミューは顔色も変えず、ただ小さく嘆息した。
「では手短に願います。今はこの通り、美しいレディとご一緒させて頂いている所ですから」
邪魔するな、と。
途端に男は顔色を変え、拳を振り上げるとテーブルを殴り付けた。反動でグラスが跳ねる。
「ちょっとあんた」
アニタが難色を示すが、カミューがそれを制す。
「乱暴な真似は止して頂こうか」
「なんだ? 男のくせに、いや騎士のくせに乱暴な真似が嫌いだって言うのか?」
とんだ騎士さまだな、と男は背後を振り返って仲間たちに嘲笑を求めた。途端に揺れるような笑い声が酒場に満ちる。もうその時点で酒場にある全ての目がそんなカミューたちを心配そうに、半ば興味深そうに見ていた。
難癖をつけてきた男は、そんな場の空気に満足したらしく余裕たらしい笑みでカミューをもう一度見下ろすと唾でも吐きかねない調子で言う。
「まあ、むざむざ娘を死なせるような奴らだ。乱暴が嫌いだってのも頷ける」
ぴくりとカミューの肩が揺れた。
「…………」
だが発せられる言葉はなく、穏やかなままの微笑にも変化はなかった。
そのカミューの態度に、男は途端に不満げな顔をした。
「何も言い返さないのか? いや、言い返せないんだな。は…っ。娘一人守れず何が騎士だっつってんだよ。だいたい当の騎士が殺したようなもんじゃねえか」
「よしな」
不意にアニタが酷く真剣な面持ちで遮る。どうやらある赤騎士と娘の死は同盟軍内ではそれなりに知れ渡っている事らしい。アニタはそれに対し沈黙を守り、この男は憤懣を覚えたようだった。
「いいや、よさねえ。そもそも俺ぁてめえら反逆騎士が気に入らなかったんだ。一度何かを裏切ったやつらは次また何かを裏切るからな」
「よしなって言ってんだよ」
「はっ…若造が団長団長と崇められて、何か勘違いしてんじゃねえか?」
男はカミューをさして、更に挑戦的に言い募った。
「まだここが出来る前だ。ハイランドが攻めてきた時も、傭兵の連中見捨てて退去したらしいじゃねえか。そのくせ今はそんな事も忘れたようにでかい顔して歩いていやがる。俺たちのようなぽっとでの奴らはおかげで活躍の場すらねえ、死のうが死ぬまいが気にもされねえ!」
再びカミューが嘆息した。
その伏せられていた瞳がふと色濃くなる。
死んだ事を広く取り沙汰される。それがそんなに羨ましいのか。
「おまえらみたいな対面ばっかり立派な奴らが居るから俺たちが安く見られる。娘一人守れない、簡単に死ぬような奴らばかりならこれ以上でかい顔してるんじゃねえよ」
男の言葉はカミューの怒りを誘うに十分な筈だった。
だが周囲が思うほどの動揺も変化も、この秀麗な青年は見せなかった。
ただ穏やかな表情のまま男を見つめて、そして薄く微笑む。
「あなたの言葉はこの胸に留め置きましょう。ご忠告ありがたくお受けします」
「怒りもしねえか! そういや騎士ってのは紳士ってぇ名の軟弱者だったな! 女のご機嫌とってりゃいざって時に庇ってもらえるもんなぁ!」
アニタが絶句した。
「せいぜい色男ぶって女落としてりゃ良いやな」
「あんたねぇっ! それは何かい? あたしの事も侮辱するつもりかい」
憤って剣の柄に手をかけるアニタだった。しかし抜き放とうとする寸前、カミューの手が伸びてそれを制した。
「止める気かい」
「はい」
「生憎アタシは気が短いんだけどさ」
「剣士がそう簡単に剣を抜くものではありませんよレディ」
全くその場に不似合いなほど、柔らかな声音を浴びてアニタから力が抜ける。
「分かったよ。でもこのまま放っても置けないんだけどね」
「あぁ…困りましたね。ならば場所を移って改めて食事などご一緒にいかがです。勿論わたしがご馳走させていただきますよ。不快にさせてしまったお詫びに」
目の前でここぞと女性を誘って見せるカミューに、アニタに誘われて剣を抜きかけていた男は極まって叫んだ。
「てめえふざけてんのか!」
男の抜き放った刃に酒場の娘が鋭い悲鳴を上げ、一瞬にしてそこが騒然となる。そして男がカミューたちめがけて白刃を上段から振り下ろした。それを。
「いい加減にしてくれ!」
鋭い声は、カミューが発したものだとは一瞬誰も分からなかった。だが見守る人々の目の前で、流れるような仕草で抜刀したユーライアで、青年は男の剣を受け止めていた。そして、微かな手首の捻りでいとも簡単に男の剣を弾き飛ばした。
だが。
弾き飛ばされた男の剣が床に跳ねるよりも早く、煌いたユーライアの切っ先が男の首に当てられその先から血がじわりと滲んだ。
あとほんの僅かだけその手に力を込めれば剣は男の喉を貫くだろう。
しかしカミューは静かに、抜いた時と同じように淀みない動作で刀身を鞘に収めた。途端にその場の者は詰めていた息を吐き出し、どっと汗を吹き出した。
「カミュー…あんた」
アニタは眉を寄せて呻き声を上げた。
「申し訳ありませんレディ。食事はまた次の機会にお願いできますか」
「それは、良いけどさ」
でもあんた、と言い募ろうとするアニタにカミューは素早く向き直ると、最前まで浮かべていた苦笑を見せた。
「ありがとうございます」
そして踵を返すと振り返りもせずに酒場を出ていったのだった。
手が、震える。
勝手に湧きあがらされた血が、納まりどころを探してぐつぐつと方々に飛び散ろうとしている。
カミューは猛然と廊下を進むと自室へと勢い良く飛びこんだ。
だがそこで思いがけず穏やかな瞳に出会って呼吸を止めた。
「カミュー、どうした?」
「…マイクロトフ……」
扉を背にしたままカミューは喘いだ。
そんなカミューにマイクロトフは怪訝な顔で歩み寄る。
「留守だったので入って待たせて貰っていたのだが……顔が赤いな」
指摘されてカミューは反射的に顔を背けたが、更にマイクロトフはそんなカミューを覗き込んで来る。
「酒で酔った……わけでもないな」
ほんのりと漂う酒精に気付いたらしい。しかも的を得ていて益々居所がなくなる。
「カミュー」
とうとう追い詰められて、マイクロトフの手がカミューの米神に触れた。そして逃れられない間近で問われる。
「ユーライアをどうした。抜いたのか」
「………っ」
迂闊にも鞘止めを留め忘れていた。戻って来る間さぞかし不安定に揺れていただろうに、興奮した頭はそれを認識していなかったらしい。
どう言い繕おうかと考えをめぐらすカミューだったが、マイクロトフは顔を近づけると小さく鼻を鳴らした。
「血の匂いはせんな……―――良かった」
滲む安堵の声と一緒に不意に抱き締められてカミューは戸惑った。
良かった?
何が。
ずっと苛立って、それを抑え切れず抜刀した挙句酒場の客たちに冷や汗を掻かせて。
―――何が、良かったと?
マイクロトフの腕の中、慄然としてカミューは身を固くした。だが次に響いた言葉に眉を寄せて首を捻る。
「まだ、大丈夫だな?」
「…なに?」
怪訝に問い返すとマイクロトフのくぐもった笑い声が接した身体から響いた。
「ずっと手負いの猫みたいに気が立っていたからな。誰かを引っ掻いて怪我をさせる前にこうして捕まえられて良かった」
「…………」
どう言う意味だそれは。
「怒るな」
「怒っていない」
確かに爪を立てるくらいのことはしてきたが、誰が猫だ。
憮然としているとマイクロトフは苦笑混じりに続けた。
「野生の猫のように弱みを見せない気高さは好む所だが、あんまり酷いと俺も見ない振りもできん」
そして、また強く抱き締められた。
「だがまあ、カミューは猫ではないからな」
「当たり前だ」
「あぁ……分かっていれば良い」
「なんだそれは。わけが分からないぞ」
文句を言いながら、強く抱く腕に苦しいと訴えると少しだけ拘束の力が緩んだ。それでも決して離してしまおうとはしない。だがそうして胸の内に抱き締められるのは決して不快ではなかった。
ゆるゆると、逆立っていた筈の心が穏やかになっていく。
「……カミュー」
宥めるような声が興奮に熱くなった血を冷ましていく。
不意に泣きたくなった。
「マイクロトフ」
だが涙は出ない。出して良いものでもなかった。だから代わりに詫びた。
「すまない……」
抱き締められるまま安堵を呼ぶ胸元に顔を埋めてカミューは呟きを落とす。
「マイクロトフ……すまない」
弱みを見せない己を。
追い詰められても独りでどうにかしようと足掻く己を。
頼らない己を。
分かって傍にいてくれる男を、余裕がないばかりに距離を置こうとした事を詫びる。すると、分かっているからとでも言うように、確かな温もりがカミューの身を更に深く包んだ。
+ + + + +
腕の中、すっかりと大人しくなったらしいカミューの背をゆっくりと撫でながらマイクロトフは苦笑をひっそりと浮かべた。
どうにも無意識で分かっているらしいので敢えて言う事もないが、最初から伝えたかったことは確り伝わっているらしい。
誰が悪い事でもないのに、自らを責めるカミューに、いつでも傍にいるからとだけ伝えたかった。
口下手ゆえに上手く言葉に出来ずに終わったが、こうして腕の中にこの存在がいるのだからそれで良いかと思う。
痛ましい死の齎した心の痛みも、緩やかに癒して行けば良い。
この青年にとってそれが難しいことであろうとも、己がそばにいる限り癒えない傷はない筈だ。
騎士団を離れての夜。
場所は変わっても二人を繋ぐ距離は何も変わりがないのだと。
カミューが確りとそう認識してくれる日はいつだろうかと考えながら、いつまでもマイクロトフは愛しい背を撫で続けたのだった。
END
このお話はストックから引っ張り出してきたのですが
保存の日付を見たら 2000/11/04 てありました(どっひゃー)
でも半分以上は今日書いたんですけどね(笑)
こんなの書きたいなって思ってても
それなりの形にするにはタイミングが必要らしいと思った今日この頃
でも全然形になってないところがまた泣けるこの頃……
2002/01/31