うたたね


 さやさやと、風の音にしては透き通った響きを耳に、カミューはうっとりと目を閉じた。
 ―――今…執務中なんだが……。
 穏やかに侵食してくる眠りへの誘いが、青年の四肢から力を奪っていく。するりと指の間から書類が滑り抜けた。
 揺ら揺らと落ちて行く意識の中で、カミューは「まぁ良いか」とあっさり執務への集中力を手放した。

 ふと、副長が顔を上げて自団の青年団長を見た。
「…カミュー様?」
 応えは無く、代わりに微風が青年の金茶の髪を撫でて揺らしたのだった。

+ + +

 そこは、幼き頃を過ごしたグラスランドの草原だった。
 前方にせり上がる丘を越えて、草を凪いで吹いてくる渇いた風を、身体全体で受けとめる瞬間。それは風の形が見える一瞬だった。風の圧力が肌に触れるその時に目蓋を閉じると、風が運んでくる僅かな匂いも嗅ぎ取れる。
 刹那、いつの間にか少年の姿になっていたカミューは身を翻した。
「雨だ」
 呟くと少年カミューは駆け出した。
「雨が来る」
 鋭い口笛が響くと、横合いから青毛の駿馬が、駆ける少年の横へ寄って来て並走する。その鬣を鷲掴むと、器用にも少年は駆けながら一息で駿馬の背へと飛び乗っていた。
 ―――帰らなくちゃ。

 どこへ…?

「え……?」
 胸の内で響いた問いに、カミューは周囲を見回した。
 両親の姿は無い。共に暮らした人々の姿も無い。幼なじみの友達の姿も―――。
 そこは鬱蒼と木々が茂る森の奥深くだった。
 カミューは今は栗毛の馬の上で、片手に持った故国の刀で枝を払いながら駆けていた。
 ―――雨が来るんだ。
 後からやってくる商隊の連中に教えてやらなくてはならない。確か彼らとの間に広い洞穴があったはずだ。荷が濡れないように教えてやらなくては。
 だが森の中は到る所木の根が剥き出しになっていて、積み重なった腐葉土が所々それを見事に覆い隠している。衝撃がカミューの全身を覆った。
 落馬の瞬間―――帰らなくちゃ、とカミューは今は遠いグラスランドの青い空を思い浮かべた。

 だが、目の前に開けた景色は石造りの堅牢な街、ロックアックスだった。

 高台の頂きに一人仰向けに寝転がりながら、街並みを見下ろしカミューは呟いた。
「帰らないと……」
 雨が来るから、濡れてしまう前に騎士見習いの住まう兵舎に戻らなくては、さぼっているのがばれて怒られてしまう。
 だがここにこうして寝転がっていると、間近に草の匂いが感じられて気持ち良いのだ。まるでグラスランドにいた時のような気分になる。
 だがいつまでもこうしてはいられない。
 起き上がると放り出していた見習い用の剣を手に取った。
 ―――雨が降る前に帰らないと…。

 何処へ…

「……?」
 街に下りて石造りの通りを城に向かって歩いていると、背後で遠く雷鳴の響く音が聞こえた。
 もう雨雲はそこまで来ている。
 ―――帰らなくては。
 吹き抜けた風に煽られたマントを押さえて青年は駆け出した。
 また前のように濡れ鼠で帰ると、友である黒髪の騎士が煩い。揺れるユーライアの鞘をしっかりと押さえると、カミューは全力疾走で城へと向かった。
 あいつの元へ帰らなくては―――。

+ + +

「カミュー!」
 鼓膜を破るかとでも言うほどの大声で名を呼ばれて、カミューはハッと顔を上げた。
「あ……マイクロトフ…雨が…」
「何を寝惚けているんだおまえは!」
「…え?」
 ぼんやりと問い返すと、男の手が伸びて白い手袋の指先がぐいとカミューの顎を掴んでその口許を拭った。
「涎を垂らしているんじゃない…! 執務中に寝るなんぞ…おまえという奴は!」
 叱る声が小声なのは、マイクロトフの背後にいる赤騎士団の副長を慮っての事だろう。だがその副長もカミューと目が合うと呆れたような表情を一瞬だけ浮かべて、さっさと部屋を辞していった。
 パタンと扉の締まる音がして、そこで漸くカミューは自分がうたた寝をしていたのだと気付いた。
「あ…寝ていたのか」
 ぼんやりと呟いて、何気なくカミューはくんと鼻をならした。そして横に並ぶ窓から覗く外の景色を見た。
「雨だ―――」
 外はどんよりと曇っている。
「雨?」
 聞き返してきたマイクロトフにカミューは頷いて見せる。
「雨が降るよ」
 まだ寝惚けているような、くぐもった声音でカミューは呟いた。そして立ち上がった。
「帰らなくちゃ」
「カミュー?」
 椅子を引いて執務机から離れる青年の背中に、男は呼びかける。するとくるりと降り返ったその頭がこっくりと俯いて、金茶の髪が揺らめいた。
「雨が降る前に帰らないと……」
「何処へだ?」
 問われてカミューはぼんやりと首を傾げた。その瞳が上目遣いに目の前で怪訝に眉を寄せる男を見て、徐々に大きく見開かれて緩やかな覚醒を知らしめる。だが、夢から覚醒へと移るその最後の瞬間、夢の名残が青年の脳裏を鮮明に過ぎった。

 ふと、カミューがその秀麗な顔を笑みに綻ばせた。そのまるで大輪の華が咲き広がるかのような美しさにマイクロトフが呻き声を上げる。そしてそんな男の頬に青年の白い手袋に覆われた指先がかかった。
「おまえへだ…マイクロトフ」
 微笑んで、カミューはゆっくりと目を伏せた。

「ただいま」

 身を伸ばして男の耳元に唇を寄せて囁くと、さやさやと葉擦れの音がして、次にさぁっと砂粒がばら撒かれたような音と共に、雨が降り出したのだった。


END



寝惚けて涎を垂らす赤さんを書きたかっただけ…(笑)
だって居眠りしてヨダレ垂らす赤さんとそれを拭いてやる青氏って…良くないですか?
え? 私だけ??(笑)

2000/07/23