分け与える想い
太く骨ばった彼の指先が、自分の目尻を撫でる。
カミューはうっとりと目を閉じながら硬く乾いた男の指先を肌で感じていた。
「カミュー?」
不思議そうな声が耳朶を擽る。
おぼろげな焦点を結ぶ瞳を上向ければ、どこまでも深い黒瞳と出会う。カミューは思わず笑みを零して、汗に濡れて冷えた両手を差し出した。
「マイクロトフ」
発した声は喉に引っ掛かり、無様なほどに掠れている。だが、名を呼んだのは伝わったらしい。黒い瞳が優しく笑みに細められた。
「どうした」
声と共に大きな掌がカミューの額を撫でる。湿った前髪がさらりと流れて気持ち良い。
「苦しいのか」
問われてカミューは首を振り、差し伸べた手でマイクロトフの腕を捕らえた。青い騎士服に指が絡まり皺が寄る。
「……今は…」
「昼を過ぎた頃だ」
「おまえは……」
「俺はおまえの様子を見に来た。どうだ…?」
「なんとか……」
「だが苦しそうだ」
「……それは、わたしもまだ…鍛錬が足りないな」
喉を震わせて笑おうとしたが、途端に鈍痛が激痛に変わってつい顔を顰めてしまった。それを見てマイクロトフがサッと顔色を変える。
「カミュー」
「…大丈夫、だ」
息を止めて、漸うそれだけを吐き出す。
「これでも、丈夫なんだ」
知っているだろう? と目で問えば、苦い表情を浮かべてマイクロトフは黙り込んでしまった。
戦いの場では僅かな油断が命取りになる。
それは同盟軍の軍主に連れられて出向いた先での事だった。
分かっていたはずなのに、森の中で遭遇したモンスターは見た事もないほど強大で、これは到底敵わない相手だと悟った時にはもう遅く、退路を絶たれてしまっていた。
逃げる事も出来ずに、ただ全員が死力を尽くして立ち向かうしか出来ずに、漸くそのモンスターを倒した時には、その同盟軍主の少年一人だけしか立っていなかった。
当然、全ての魔力を使い果たした状態で、薬草も札も無く、応急の処置が出来なかったのだ。それでも『またたきの手鏡』があったからまだ良かった。
少年が傷ついた身体で、意識の無い仲間を一つ所に集めて手鏡を掲げた頃には、一面が血溜まりに真っ赤に濡れていたとしても、だ。
直ぐさま医務室のホウアン医師の元に運び込まれた一同だったが、中でもカミューが一番の重傷だった。血を流しすぎていたのだ。
たとえ水の紋章で傷を塞いだとしても流れ出た血は元には戻らない。限界まで下がった体温はまるで死人のようで、ゆっくりと鼓動を刻んでいた心臓はいつ止まってもおかしくなかった。
そして、カミューが一晩を過ぎて意識を取り戻した時、数日前に彼を送り出したはずのマイクロトフが、寝台の傍らで「良く戻ったな」と呟いたのだった。
意識が戻っても暫くは起き上がれなかった。
起き上がろうにも身体は鉛を飲んだように重たかったし、何度も発熱を繰り返したためはっきりと目覚めている方が稀だったのだ。それでも丸一日も過ごせば少しは身体も楽になる。身体の節々は熱にやられて痛んだが、取り敢えずの峠は越していた。
「明日には…起き上がれるさ」
ホウアンが聞いたなら角を出して怒るかもしれない楽観事をさらりと言うカミューに、マイクロトフも苦笑を浮かべて頷いた。
「ああ。早く、部屋に戻って来い」
言いながらカミューの額に当てていた掌を滑らせて、頬を撫でる。その心地良さに目を閉じれば、マイクロトフの温もりと一緒に何か力が伝わってくるような気がした。
相変わらず青騎士団長服の袖を掴んだままだった両手を解いて、カミューはそのマイクロトフの手に、自分の手を重ねた。
「もう少し……傍に―――こうしていて、くれないか…」
「ああ」
低い声が確かに応じる。
その声を耳にカミューは安心して目を閉じたまま、ほうっと息をついた。そしてそのまま、いつしか眠りに落ちていったのだ。
マイクロトフは、また眠ってしまったカミューを見下ろしながら、頬には当てていないもう片方の手で寝台の脇に掛けられていた手拭を掴んだ。
カミューの額にも首筋にも汗が浮かんでいる。それを慎重な動作で拭いながら自分の手を捉えている手を掴んでやった。その手も汗を握っていて指先は冷え切っている。
明日に起き上がるなど、無理に違いなかった。
内臓にまで達していた傷は、幸い紋章の力で綺麗に消えた。しかし、流しすぎた血のためにすっかりと消耗してしまったカミューの身体は、ボロボロである。
それでも、カミューはマイクロトフを見て微笑を浮かべてくれるのだ。
青い顔をしながら大丈夫だと嘯いて。
こうして直ぐにでも意識を失ってしまうほどなのに。
「…カミュー」
冷たい手を握り締めているのは右手だった。その手袋を脱いだ手が不意に青白く光る。
手の甲にいつしか『騎士の紋章』の陰影が浮かび上がっていた。そして、それに呼応するように『烈火の紋章』を宿したカミューの右手も仄かに赤く光を浮かべはじめた。
その場にいなかった悔しさは、もう既に一晩の間に克服した。今はただカミューが少しでも早く回復してくれるのを願い、手助けするだけだ。
マイクロトフにカミューほどの魔力は無い。だがまったく無いわけではないのだ。
『魔力吸いの紋章』というものがあるように、魔力は移し替えられないものではない。初めにそれが出来ると気付いたのはいつだったのだろう。
確かあの時もカミューが倒れ、寝込んだ時だった。
元気になってくれとぐったりした彼の手を握り締めて天に祈っていたそれは真夜中のこと。不意に、今のように二つの紋章が光り出して、マイクロトフは自分の中の微々たる魔力が紋章を介してカミューの中へと流れ込むのを感じた。
すっかりと紋章が光りを失った後は、奇妙な倦怠感が全身を覆ったが、翌朝カミューの具合が嘘のように良くなった。おそらく、魔力のおかげだったのだろう。そのからくりを知るのはしかしマイクロトフ一人だけだった。
カミューはマイクロトフが魔力を与えた事も知らなければ、騎士と烈火の紋章でそんな事ができる事を、今となっても知らないのだ。勿論、言うつもりなど無い。
己の魔力を削って相手を救おうなど、この戦乱の世で戦う者としては、甘さ以外のなんでもないからだ。しかしそうと分かっていながらマイクロトフにはこれをせずにはいられない想いがある。
「……カミュー」
その名を呼ぶとき、無意識に込められる自分の想い。
呼んだ時に振り返るカミューの笑顔を何よりも大切に思う。
以来、カミューが眠っていたり意識のない時に限って、マイクロトフがそうと願って手を握り合わせると、魔力を分け与えることが出来るようになったのだ。
そしてひっそりと静まり返った寝台脇で、暫しの時を経て―――。
いつの間にか二つの紋章は光りを徐々に薄れさせ、そしてふっつりと陰影を失うのを認めると、マイクロトフは握り締めていた手を離してもう一度カミューの額を撫でた。そして前髪をかき上げて露わになったその場所に口づけを落とす。
眠るカミューの息は相変わらず浅く、唇の触れた場所もまだまだ高い熱を持っている。
しかし、彼は明日になってもまたマイクロトフに笑顔を浮かべて「大丈夫だ」と言うのだろう。
そう思いながらカミューの青白く濡れた頬に触れる。
「大丈夫だ……」
分け与えるものは、魔力のみならず。
同時に流れ込むのだろうその想いだけは、減るどころか一層のふくらみを持ってマイクロトフの中に積もるのだから。
それはもしかしたら、分け与えながらも、逆にカミューからマイクロトフへと流れ込むものがあるのからかもしれなかった。
だからこそ、そんなカミューの微笑を見つめた後、マイクロトフは意識のない彼の手を再び取り、そして同じことを繰り返すのだろう。
明日もまた、カミューの笑顔がそこにある限り。
END
実は、2005年2月の青赤オンリーのアンソロジー『騎士と烈火』の没原稿です。
サーバーの中に見つけたので少々手直ししてアップです。
2006/08/02