雨
「カミューさんみつけた」
元気な声にカミューはティーカップを持ったまま背後を振り返る。と、間近に少女の桃色の服が迫っていた。
「おやレディ」
「えへへ、お天気良いから絶対ここだと思ったんだ」
そう言って天を仰ぐ少女――― ナナミにつられてカミューも空を見上げた。
屋外に設えられたレストランのテラス。カミューのお気に入りの憩い場であるそこは、晴れた日にはついつい長居をしてしまう心地良さがある。
「前、座っても良い?」
「どうぞ。何か飲み物でも?」
「ううん、いいの」
緩く首を左右に振ってナナミは少し照れくさそうに笑った。
「特等席だよね。ここ」
くしっと目を細め、肩を竦める少女に、カミューは瞬く。
「広い空が見渡せはしますが、別段景色が良いわけではありませんよ?」
「え?」
「え…?」
きょとんとした二人の視線がぶつかる。だが先に状況を把握したのはナナミだったようだ。ボウッと唐突に顔を赤らめた少女は満面に空回りのような笑みを浮かべた。
「あ、あははははは。そ、そうっ! そうなんだけどほらうんこんな広い空ひとり占めしてるみたいですごいいい席だよっ。うん特等席ほんと」
早口に捲し立ててナナミは勢い良く顎を反らすと頂点を見上げた。そしてニコニコと、少しばかり頬を赤らめていかにも機嫌よさそうに身体を揺らす。だが、その内に微笑みを浮かべていた瞳が真っ直ぐに見開かれ、淡い眼差しが一点の曇り無く空の高みを見詰め始めたのだ。
「ほんとーにいいそらぁ」
ぽつりと漏れた呟きと、純粋な微笑みがカミューの意識を奪った。
座った椅子の脇に両手をついて、床から少しだけ浮いた踵を揺らし、真上に広がる青空を果てしなく見詰める少女の純粋さに、つい見惚れた。
「ええ…いい空ですね」
空を見ずに少女を見詰めてカミューは頷いた。
ナナミは気付かず、相変わらず空を眺めて微笑している。
暫し、そうして穏やかな空気が二人を取り巻いた。しかし、レストランのテラスを囲む高い壁から、不意にムササビのムクムクが飛び込んできてその静寂は終わった。
「あっ…じゃあカミューさんまたね」
元気に椅子から立ち上がると少女は赤いマントのムササビに駆け寄っていってしまった。
そうして、少女がムクムクと共にレストランを去ってから、漸くカミューはひとりじっくりと青空を見上げて過ごしたのだった。
城内が哀しみに暮れる中、赤騎士の青年は独り人気の失せたレストランの、そのテラスにいた。少女がかつて特等席だと言ったその席に、この時も座っていた。
彼は随分と長い間、沈黙のままにそこに座していた。
少女の弟である少年が――― 彼女が身を呈して救った愛すべき弟が――― ふらりと訪れた時も一つ二つ言葉を交わしはしたが、何を言ったかはまるで意識の外にあった。ただ呆然としていて、何も身動きが出来ず、何も行動を起こす余裕が無かった。
だがふと青年は、いつかの日のように空を見上げた。
「……て…」
掠れるような声が青年の薄く開いた唇から漏れた。
「よりにもよってこんなに晴れなくてもいいだろう…?」
確かにそう呟いてカミューはテーブルへと顔を伏せた。それでも、明るい陽気は瞑った瞼を透かしてもまだ眩しくて――― 遠くに聞こえる鳥のさえずりも、微かに髪を攫う微風も、穏やかな暖気を醸す淡い陽光も――― 何もかもが眩しすぎて。
「こんな良い天気では……泣けもしない」
何処までも澄み渡った青空に想起されるのは少女の笑みだけで。それだけで憂いも哀しみも寂しさも、ありとあらゆる負の感情が払拭されてしまう。そうして何度も何度も反芻するように記憶の中で繰り返される少女との稚気めいた戯れ合い。あまりにも残酷な記憶の欠片に、声すら無くす。
「こんな……」
呻き声にも似た囁きを落とし、伏せた瞼にそっと掌を当ててカミューは吐息を漏らした。だが涙はまるで別の次元にあるようで、瞼の奥はじんじんと熱いのに乾いている。
こんなとても晴れた日には笑えと、そういうことなのだろうか。
だが―――。
レディ……今は無理です。
天高く晴れ渡る空の下、カミューはひたすらに雨を望んだ。
END
2001/04/14