想夏


 風が吹いている。

 晩秋の柔らかでいて何処か冷たい、少し寂しさを誘う風が運んでくるのは、過ぎ去った夏の思い出を呼び覚ます何か。

 遠く、なだらかな丘陵地の薄緑色を視界に収め、マイクロトフはロックアックス城の吹きさらしの歩廊に一人ぽつんと立っていた。
 衣服の裾を大きく煽る強い風がその身に叩きつけられる。だが石の手摺に片手をかけているだけでありながら、その強風が騎士の直立不動の姿勢に影響を及ぼしている様子はない。
 短髪は風に攫われる事もなく、その青い騎士服が風を孕んでいなければ、そこが風の通り道だと分からぬほど、ただ細められた黒い双眸だけが風の強さを僅かに表現していた。
 何があったわけでもない。
 ただ風は彼の友を連想させて。
 友だけではなく、心を一つにして戦った水滸の戦友たちの面影を否応無しに想起させて、一瞬マイクロトフの胸を締め付ける。
 あれほど熾烈で必死だった戦いは、過ぎ去ってみれば熱に浮かされていた間に見た夢のように思えてならなくなる。
 戦を終えて再びこうして馴染んだ故郷に舞い戻り、変わらぬ景色を変わらぬ場所からこうして見ている。ただ、何処か欠損したような気配だけが始終付きまとう。
 それは、酷くあっさりと遠い草原の地へと旅立った友であり。そして確かな絆を感じて共に戦った多くの仲間であり。
 水滸の地で得たものは、マイクロトフにとって余りある程に大きかった。この器用には出来ていない性格では持て余してしまうほど、絶大な質量の意思や情は、いざ終わってしまえばマイクロトフの中に憂愁と言う、以前ならまるで知らなかった感情さえ植えつけていた。
 景色を眺めてかつての思い出に耽るなど、彼の友がそこにいたならば、あまりの不相応さに笑われるかもしれない。

 ―――似合わない事はやめた方が良いぞ。

 何処か人を食ったような笑みを浮かべて、悪戯そうな瞳でそんな事を言ってくるに違いない。

 ―――辛気臭ぇったら、ぱあーっと行こうぜ。

 ああ、これはあの陽気な傭兵の声だ。傍らでもう一人、落ちついた青い瞳が笑みに頷くのが見える。

 ―――無駄に費やす時間があるなら働いてもらおう。

 少し苦手だった軍師の言葉さえ、今は苦笑で迎えられる。
 実際、口許が笑みに綻ぶのをマイクロトフは自覚していた。否応無しに得たものの大きさを痛感する。同時に今感じる物足りなさも。

 熱病のような期間だった。

 誰もが、たった一つの望みのために全力を出して戦に臨んだ。

 あの、真の紋章をかざす少年の元で。

 ルルノイエで全ては終わった。

 熱病は去り、代わりに訪れたのは気の抜けるような平穏。

 ―――行くのか?

 何度となく言葉にした。
 「ああ」と頷いて去って行った多くの仲間たち。その誰よりも早く、皆の前から去って行ったのはあの少年だった。
 「行かれるのですか」と問うたとき、彼は無言で歩みを再開した。その全身が止めないでくれと語っていた。
 これ以上何も望まないで。これ以上何も奪わないで。
 全身が醸す拒絶に、あの軍師でさえ引き止める策を失った。

 別離はだが、意外な結末をもたらした。

 ―――大丈夫だって言ったじゃない。ね。

 蘇る少女の声は、今も胸に染む。
 その場を見たわけではないが、喜びと切なさが綯い交ぜになっただろう、少年たちの泣き笑いの顔がありありと浮かんだ。

 その報せを受けた時、共にそれを聞いていた彼の友は、たまにだけしか見せない素の顔で笑った。

 ―――見事にしてやられたね。だが、裏切られてこんなに嬉しい事は初めてだ。

 言葉に出来た分だけ、彼の友がマイクロトフよりも人として出来ている証明だろう。マイクロトフは声すら出せなかったのだから。
 何も言い表す事が出来なくて、ただ無言でその吉報を何度も頭の中で繰り返しただけだった。
 だがそんな驚きも冷め遣らぬうちに、再びマイクロトフは別れを余儀なくされた。

 ―――じゃあ、行ってくる。

 あまりにあっさりとした別れの言葉に、つい笑みすら零れた。

 ―――あぁ。

 いつものように頷いて返すと、彼の友は一人風の中に姿を消した。

 止めようとか追おうとか、そんな事は考えなかった。
 自分には彼の友とのそれとは別の、成したい行動があったのだし、制止も追随もそれは彼の望むところではないと知っていたから。
 ただ見送ってやった。
 それでも、吹く風の向こうにその姿が砂粒よりも小さくなって、見えなくなってもずっと見送る事を止められはしなかったが。

 あの日と同じ風を、時折こうして見ている。
 見ているのは薄緑の丘陵ではないのだ。吹く風を、見えないそれをじっと見つめて、そして想うのだ。

 一年の中で最も生命が照り輝く季節のようだった期間の事を。

 まるで夏の日のようだった、あの時の事を。

 熱くて、いつも乾いていた。

 清涼を渇望して、水の滸りにいたのに、誰もが渇きを癒す何かを求めていた。

 茹だるような熱気に、身体も心も冒されていた。



 目を瞑ると、今もあの喧騒がありありと喚起される。

 身を叩く強風が尚更それを促す。

「マイクロトフ様」

 不意の呼び掛けに、一時の幻想がふっと消えうせた。振り返ると部下が風に煽られながらもこちらに近づいてきているのを見る。
「ここにおられましたか。そろそろ会議が始まりますよ」
「ああ、今日は、確か自治についてだったか」
「ええ。シュウ様からの御使者ももうお待ちですよ」
「分かった。直ぐ行こう」
 頷いてマイクロトフは石の手摺から手を離した。

 夏は終わった。
 そして、また新たな季節が巡ってくる。
 新たな風が、この土地に吹く。

 想夏の風はだが、いつもマイクロトフの内に吹き、そしていつでも懐かしき人々の面影を運んでくるのだった。


END



戦後青氏は確実に落ち着いた良い感じな人になっただろうと
赤さんが旅立って一人で騎士団の立て直しをして
でも時々ふっと思い出したりするんだろうと思って
落ち着いた青、お好きですか

2000/11/03