深夜。城内がすっかり寝静まり、湖面を吹き抜けてくる風が城壁を叩く音すら大きく響く静寂の中、彼は一人己の部屋で洋灯の小さな明かりを頼りに、書面の文字に目を走らせ時折ペンで何事かを書き込んで行く。
 出来れば一人で、企ての何もかもの一切を取り仕切りたがる己を、だが彼は疎ましく思った事はない。幼い頃から他より頭の出来は良かった。他の劣った能力を見るにつけ思うまま事が運ばないのに何度舌打ちしたか知れない。
 欲しいのは優秀な使用人だけ。他は要らない。それが、彼の身上だった。
 だがそれが金儲けの範囲ならばまだ事足り、余裕すらあった。しかしそれが戦事ともなればそうもいかないのが歯痒い。
 武力だけがとりえの傭兵、剣士、無頼の集まりをどうやって上手く策に乗せるか、それは全く至難の技だった。しかし不思議と信頼関係だけはあるこの烏合の衆は、いつもぎりぎりの線で何とか勝ちを奪っていた。
 最初は不安ばかりあった戦。
 大風呂敷を広げ、記憶の奥底にしまいこんでいたかつての師の教えは、様々な場面で彼を助けた。
 密かに、亡き師を想い、亡き師の志しを継いだ妹弟子を見て己の在り様を確認する日々。
 そうこうする内に手許には優秀な人材が次々に転がり込んできた。運命という実体の無いものを身近に感じたほど、それは気味悪いぐらいに幸運続きだった。
 そして、来たる最終局番。
 グリンヒル市を奪回し、その勢いに任せてマチルダをも奪回する。
 策はあった。
 だが、どこか捨て身の感は否めない。しかしこれ以上の上策は無かった。
 大儀の前には多少の犠牲は省みない。それは絶対に正しい事だと信じている。無血で手に入る権力は無い。こんな時代であればなおさら。
 だが、肌の上にそんな思想を貼り付かせていても、皮一枚を剥いだその下には不安と嫌悪が渦巻いている。
 己にもっと力があれば、こんな策を取る事も無かった。
 犠牲は――――無いに越した事は無いのだ。
 犠牲を出す事は、軍師としてのシュウの未熟さのあらわれに他ならない事を示しているのだ。



 洋灯の明かりは室内を薄明るく照らし出す。
 シュウはふと仕事の手を休め、肘をついた手に顎を添えると小さく吐息をついた。
 キバ将軍の出陣は明日。
 策を打ち出した時、かの青年は表情を全く変えなかった。彼も軍師の端くれ、少しは予想していたのだろう。だが、それ以降も顔色を変える事無く過ごす様が気に入らない。
 自分ばかりがこうも気に病み、夜中にこうして仕事の手が止まるほど集中を乱されるのはどうにも理に合わない気がした。それこそ理不尽な考えではあったが。
 そして首を一振りして中々進まない仕事に再び取り掛かろうとした時、不意に戸を叩く音が室内に木霊した。
「誰だ」
「わたしです」
 シュウはハッとして顔を上げた。
「入れ」
 一言返し、ペンを机に置き手許の書類を片し始めると扉が静かに開いた。
「夜分遅く申し訳ありません」
 穏やかな表情に柔和な声音で言い置いて入室してきたのはシュウの思考を占領していた件の青年だった。
「構わん。何か用があって来たのならな」
「ええ、用があります」
 伏せ目がちの瞼をそっと上げて、クラウスは真っ直ぐにシュウを見つめてそう言った。

「――――生憎、茶なんぞ出せんが」
 机の正面に座ったクラウスにシュウがそう告げると、青年は苦笑を漏らして緩く首を振った。
「あなたに給仕の真似事など、最初から期待しません」
「ふん…で、用とは?」
 促すと、クラウスは俯いて微かに口許に笑みを浮かべた。
「あなたの心を聞きたくて」
「俺の?」
「ええ。あなたに…最後までの覚悟があるのかどうか」
「覚悟だと――――そんなもの言うまでもなく、最初にこの厄介ごとに首を突っ込んだ時からある」
「…本当に?」
「どう言う意味だ?」
「質問に質問で返すのは良くありませんよ。あなたは、本当に覚悟がありますか。それこそ命さえ辞さないほどの」
 優しい顔をしておいて、その実中々不敵な事を言う。
「なければどうだと言うんだ。自殺でもして詫びろとでも?」
 口調に苛立ちを乗せてシュウは吐き捨てた。するとクラウスの顔から微かだった笑みが消え失せ、代わりに人形のような無表情があらわれた。
「――――済みません。今、この城のこの部屋に居るあなたに、その覚悟が無いわけは無いのに」
 そしてクラウスは立ち上がると再び「済みません」と詫びて踵を返した。
「邪魔をしました」
 そう言って扉に手をかける。その青年の背をシュウは無言で見ていたが、体の中を突き上げてきた衝動に気づけば声を出していた。
「待て」
 鋭い制止の声にクラウスがゆっくりと振り返った。
「なんですか」
 力の篭っていないその声。良く見れば僅かに充血した瞳や乾いた肌は、青年がひどく弱っているのだとありありと主張していた。
 自分ばかりがなどと自分本意の勝手な思い込みに過ぎなかった。父を失うかもしれないという事態に、この青年がシュウ以上に気に病まない事など有り得ないのだ。
「俺の全力をもって必ずロックアックスを陥落する事を約束する」
 確定できない未来の事象に約束をするなど、シュウの信条に反している。だが。
「いや、俺だけではない。この城の、この同盟軍全ての力を最大限に利用して必ず勝利を導く。敗北は認めない。必ず勝利する」
 宣言にも等しいその言葉に、クラウスは暫し沈黙を返していた。しかし、ぎしと青年の足もとの床が鳴った。そしてシュウの目の前で青年のその身体が反転し、扉に背を向ける。
「…つまり、あなたの中には勝利以外無いんですね?」
「ああ」
「呆れた人だな」
 呟いてクラウスは首を傾けて苦笑を漏らした。
「でも、不思議ですね。それが愚かな事とはどうしても思えない。何故、この城の人たちは勝利を信じて疑わないんでしょう」
 父もまた。とクラウスはぽつりと吐き出す。
「軍人なら、まだしも信念を持って戦いに身を投じる事が出来るでしょう。あの人種はそんな風に出来てる。でも戦闘に携わらない人間まで皆、この同盟軍の人たちは皆そんな事を言う。後ろで策を企てるだけの軍師であるあなたでさえも」
 そしてクラウスはゆっくりと自身の両手で顔を包みこんだ。
「信じていないわけではありません……ただ、あまりに無謀で、あまりに儚い……っ」
 細い指の間から、クラウスの小さな叫び声が漏れる。
「父も! あなたも! 誰も彼も!!」
 常に無い青年の激昂に対し、シュウは無言でただ見守る。
 クラウスは少しの間を置くと、ホッと息を吐いて顔を覆っていた両手を下ろした。だが伏せた瞳からは何の感情もうかがえない。ただその唇が僅かに動いた。
「戦争など、なければ良い」
 その呟きにシュウは顔を顰め、鼻で笑った。
「軍師の言葉とも言えんな」
「そうですか?」
 そう言って見上げてきたクラウスは、やはり微笑すると眉を寄せた。
「この時代の、こんな所になど生まれて来ていなければ軍師などなろうとも思いません。あなたも、同じでしょうに」
「なんだと?」
「だって、アップルさんが誘わなければずっと交易商をしていたでしょう?」
「………」
 シュウは苦々しく舌打ちをすると視線をそらし吐き捨てるように言った。
「全くだ。確かに望んでこんな面倒に巻き込まれたわけじゃない」
 するとクラウスは、何故かホッとしたような顔をして頷いた。
「そうですよね。望んでなったわけではありませんね」
 そして再び目を伏せると、ぎゅっと拳を握った。
「だから、無謀な真似などするつもりはありませんね?」
「……なに?」
 虚を付かれてシュウは一瞬ほうけたような顔をした。だが対するクラウスは何処か必死な面持ちだった。
「本来なら、こんな戦の渦中にいたくは無かったのでしょう? なら、こんな戦で命を落とすような真似は絶対になさらないでしょう?」
 シュウは、返す言葉を見失った。
 その通りだと答えれば済むのだろうに、喉が強張って言葉が出てこない。
 そして返事の無い事に、クラウスはハッとして顔を上げた。そして刹那、視線が合うと青年は泣きそうに顔を歪め、そして笑った。
「いやだな――――いつも通り、ふてぶてしく一蹴してもらいたかったのに」
 言って、再び目を伏せる。
「馬鹿な事をと、鼻で笑って欲しかったのに」
 そしてクラウスはそのまま、ゆっくりと扉に足を向けた。だがその手が扉の取っ手にかかる寸前、青年の髪がゆれて白い顔がシュウを振り返った。それは、まったくいつも通りの穏やかな表情で。
「アップルさんを、泣かせないで下さいね」
 いつも通りの柔らかな声音で。
 小さく笑ってクラウスは扉の向こうに姿を消した。

 パタンと、扉の完全に閉じた音が耳に届いて漸く、シュウの強張りは解けた。だが、言葉はやはり何も出てこなかった。
 ただ、身体の奥底から湧き上がってくる抑制の利き難い感情を持て余し、そして。
「………っ!」
 たった一度、強く机上の書類を殴り付け、シュウは己の感情に決着をつけたのだった。



END


2000/12/04