幾千の星に
男が携帯を閉じて、深々と溜息を落とした。そしてコートのポケットに無造作に携帯を放り込んだ。
見上げれば一等星さえ見えない薄曇の空が、ビルの合間から覗いて見える。星が見えないのは薄曇だけの所為ではない。華々しい夜の街明かりが空の瞬きを覆い隠してしまうのだ。だがこんな夜空しか知らないマイクロトフにとっては、見上げた空はあいも変わらずの様相で何の感慨も呼ばない。
ただ自分で落とした溜息が煩わしくて見上げただけに過ぎなかった。
「……会ったら即ホテル…か」
今日の件名は至ってシンプルだな、とマイクロトフは声も無く呟く。
確か昨日は『欲求不満の人妻のお相手大募集!』だった。こんな誘い文句でふらふらと指定されたアドレスにアクセスする男が本当にいるのかと思うと、その滑稽さに笑うどころか溜息ばかりが出る。だがその溜息をつく傍ら、ふと思うのだ。
これが何処の誰とも知れない人妻ではなく、たった一人の名前だったなら。
有り得ないと思うのに、携帯に送信されてくるメールの向こう側に、何度か見た彼の顔を思い浮かべてしまう。取締りの時に、踏み込んだ狭いアパートの一室。何台ものパソコンがひしめき合っていて、若い女性たちが黙々とメールを打つ傍ら、鳴り響く携帯を耳に当てて甲高い声を上げていた。
そこに一人異質な光をまとって立っていた男。
シンプルなグレーベースのスーツに身を包み、まるで闇の中に今にも溶け込みそうな様子だった。けれどその琥珀の瞳だけは鮮烈で、踏み込んだマイクロトフと目が合った瞬間、軽く見開かれたのがどうしてか印象に残った。だが次にはその姿は部屋の奥に消え、彼は窓から飛び出して外に張り込んでいた捜査員の目を潜り抜けて街の何処かへ消えてしまった。
後から、その男こそが岩斧組の、若手ながらも出会い系のシノギを一手に束ね纏めている人間だと知った。彼を捕らえれば、少なくとも岩斧組が管理する悪質な出会い系犯罪は減るだろうとも。とてもそんな人間には見えなかった。だがそれに詳しい組織犯罪対策部の人間に聞くと、カミューという名のその男は、T大出身のいわゆるインテリヤクザなのだという。武闘派で知られる岩斧組には珍しいタイプなのだそうだが、組長のゴルドーに酷く気に入られており、若輩のくせに重要ポストにいるらしい。
人は見かけによらないものだからおまえも気をつけろと、カミューについて詳しく教えてくれた者はそういった。
捜査一課の刑事であるマイクロトフが、そもそも出会い系サイトのちゃちな犯罪に係わるきっかけなどなかった。だが都内で連続して起きた若い女性を狙った殺人事件がそれに関連してきたのだ。被害者は今のところ三人だったがどれも夜の公園で絞め殺されている。そしてその携帯電話の履歴から、同じ出会い系サイトに出入りしている事が分かったのだ。
幸い踏み込んだアパートで、いわゆる出会い系の『さくら』をしていた女性から、重要な証言を得られたために、容疑者の特定にまで至ったマイクロトフにとって、カミューという男は、それきり一生係わることのない相手で終わるはずだったのだ。
偶然、擦れ違うあの夜まで。
低い罵りあうような声が聞こえたのは、酔っ払いたちの喧騒がざわめくガード下の飲み屋街だった。呼び出された現場が自宅アパートに近く、マイクロトフは徒歩で帰る所だった。複数の男達の喚き声は寝不足の耳に不快に聞こえ、どうしようもない苛立ちと共に足先をそちらへ向けさせた。
そして狭い路地に踏み込んだマイクロトフが見たのは、数日前に見た、あの琥珀の瞳だった。
四人ほどの男達に囲まれた男―――カミューは、殴られたのか口の端に血を滲ませて、マイクロトフの顔を驚いたように見つめた。その視線に、周囲を取り囲んでいた男達が振り返る。
「なんだてめえは。見せモンじゃねえんだ、消えろ馬鹿」
ドスの聞いた声にマイクロトフは顔を顰めた。普通の男ならそれだけで怯えて逃げるだろう。だがマイクロトフはやれやれと首を振ると男達を真っ直ぐに見返した。
「俺の目につくところで勝手な真似をするな。貴様ら、岩斧の者だな……こんなところでリンチか」
すると男達は驚いたように背を伸ばしマイクロトフの顔を凝視した。それに、ふんと鼻を鳴らす。
「傷害の現行犯で逮捕されたくなければ、そっちこそさっさと消えるんだな」
途端に男達が慌てたように腰を低くした。暴力団相手の組犯部ではなかったが、張ったりは充分に効いた様である。
「あ! こいつは……なんだ旦那、人が悪いじゃねえですか。いや、何ちょっと礼儀を知らねえ若いのに説教してただけですよ。ったく、次はねえぞ!」
最後だけは忌々しげに吐き捨てて、男達はマイクロトフの横をぺこぺこと頭を下げて通り過ぎていった。そして静けさが戻った路地裏に、取り残されたのはマイクロトフとカミュー。
先に口を開いたのは、向こうだった。
「刑事さん。強行犯係のあなたが、どうしてそんなに詳しいんですか?」
血の滲んだ唇を手の甲で拭いながら、彼は確かにそう言って、笑った。
カミューがどうしてマイクロトフの所属を知っていたのかは謎だ。もしかしたら彼もまた、一瞬目が合っただけのマイクロトフのことを興味心で調べたのかもしれなかったが、今となっては確認する機会も無い。
だがその出会いが、確実に、それまで何万光年も離れていた星々のように遠く離れていたマイクロトフとカミューを、星座として並ぶ一等星の如く近づけたのだった。
その夜、リンチに合ってボロボロだったカミューを、マイクロトフは無理やり自宅アパートに連れ帰って、傷の手当てをしたのだ。嫌だ放っておけと抗う彼を、どうしてそこまで腕を引いて連れ帰ったのか、その自分の気持ちも量り難かった。
けれど、その夜、間近で見た彼の瞳が何故だか、マイクロトフをじっと見つめて物言いたげに揺らいでいたのが、忘れられない。結局彼はぶつぶつと文句は言っても、何も大した事は言わなかった。しかもいつの間にか寝てしまっていたマイクロトフが、明け方近くに目を覚ますと、カミューはとうに部屋からいなくなっていた。
また、この街の何処かへと消えてしまったと、項垂れたのは一瞬で、その日からマイクロトフの携帯には、差出人不明の出会い系サイトの勧誘メールが頻繁に送信されるようになったのである。だがそれを迷惑といって着信拒否に分類するには、マイクロトフはカミューに惹かれすぎていた。
こんなものでも、彼との僅かな繋がりと思ってしまうと―――。
ふざけた内容のメールを、一字一句見逃さずに読んでしまうほどには、どうやら自分は彼に参ってしまったようだと、マイクロトフは再び夜空を見上げて息を吐いた。
2005/03/09
ストレッチ
「やっぱり止めようマイクロトフ…こんなの、わたしには無理だよ」
「何を言うんだ。俺と付き合ってくれると言ったではないか」
「でも……おまえにみっともない姿を見せるのかと思うと恥ずかしくて、な…」
「カミュー! ……なんて可愛いことを」
「ばか…」
(笑うとこですよ)
「ハッ! いやいやしかし今日こそ付き合ってもらうぞ。約束しただろうカミュー!」
「…ちっ……誤魔化されなかったか…」
「何か言ったか」
「いいや、それで? この姿勢を私に取れと?」
「ああ。ここに仰向けに寝転がってくれ。両腕は横に真っ直ぐ広げて―――」
「こうかい? ……っておまえが肩を押さえたら起き上がれないじゃないか」
「脇腹のストレッチだからな。自力では浮いてしまうだろう。さあ膝を立ててみろ」
「こう? あー伸びる伸びる」
「ゆっくり動かすのだぞ? って、何を笑ってるんだおまえは」
「ははは、だってマイクロトフの鼻のあなー」
「こ、こら見るな!」
「あははは、顔真っ赤だぞ」
「カミューふざけるな」
「はっはっはっは、て、イタタタ。この体勢で笑うと苦しいな」
「真面目にやらんか」
「えぇ? それは無理そうだなぁ」
「カミュー!」
「だってね。おまえの顔をこんな間近に見て私が落ち着いていられるとでも?」
「うっ……」
「ほら、折角の二人きりの時間だよマイクロトフ」
「カミュー……」
「キスしてごらん。そうしたらもっとおまえの言う事を聞いてあげよう」
「そんなにストレッチが嫌か」
「キスするのは嫌かい?」
「いや、だからな、俺は今」
「マイクロトフ…」
「カミュー、その目は卑怯だぞっ」
「嫌なんだね、私とキスするのがそんなに…」
「くっ……、目を瞑れ!」
「ん、了解」
「……」
「……」
「さて、ストレッチの続きをしようかマイクロトフ?」
「それは後だ。くそ、覚悟しろカミュー!」
「望むところだよ。ベッドへ行こうか?」
「……ああもう好きだぞカミュー!」
「ははは、そんなヤケクソみたいに言わなくても」
「…結局、こうなるのだな……」
「ははははは」
2005/06/06
運命の人
「まったくけしからん輩だ。カミューもああいう手合いはさっさと振り払わんか」
憤りに任せた荒い口調でマイクロトフが吐き捨てる。それにカミューは肩を竦めた。
「…振り払う前におまえがぶん殴ってしまったんじゃないか」
「そうだったか」
「そうさ。手を握られただけだったのに。お前は知らないかもしれないが彼は名門の跡取りだぞ。問題になったらどうする」
するとマイクロトフのきつい目がキッとカミューを睨んだ。
「赤騎士団長に無礼を働いたんだ。そっちの方が問題だろう」
「だから手を握られただけなのに」
「おまえを運命の人だとか抜かして口説いたのが『だけ』なのか!」
拳を握り固めて憤る男に、ふとカミューは首を傾げてにんまりと笑った。
「ん? もしかしてマイクロトフおまえ、妬いてくれているのかい」
「………」
「馬鹿だなあ、手袋越しに手を握って口説くどころか、それ以上の事をわたしが許すのは、この世にお前ただ一人だよ? それでは不満かい」
「カミューに触れて良いのは俺だけだ!」
「やれやれ独占欲の強い恋人だな」
くすくすと苦笑混じりに笑うと、少し勢いを失くしたマイクロトフが叱られた犬のようにカミューの顔をうかがう。
「…嫌か」
それにカミューは目を瞠ってとんでもないと首を振る。
「嬉しいよ」
告げて、ふわりと極上の笑みを浮かべると、カミューはマイクロトフの逞しい首筋に腕を回したのだった。
2005/06/12
青赤すれ違いエンドレス(チャットログ再現)
同性愛が100年前は死罪だったくらいタブー視されている前提→現在でもほもとバレると投獄されるくらいちょっとヤバイ→それでも恋人同士だった青と赤→騎士団内で一組のほもカプが見つかって大騒ぎになる→二人の関係も露見するのを恐れた赤さんが青に別れを切り出す→去ろうとした赤を背中から抱き締めて嫌だと告げる青→それでも人の気配に青が怯んだ隙に逃げる赤→徹底的に青を避けまくる赤→ところが赤の尊敬する先輩騎士が戦場で散る→最期に先輩騎士が赤に言い残す「俺は後悔ばかりだった、おまえはそんな事のないように生きろ。愛していた……ステイシア(誰)…ガクッ」→身近な人の死に怯えて青への気持ちを見直す赤→先輩騎士の遺言を伝える為にステイシアという女性を訪ねる赤→どうやら身分違いの為に二人は両思いなのにお互い想いも伝え合っていなかったと知る→後悔に暮れて泣き崩れるステイシアを前に更に青に対する想いを痛感する赤→その頃青は赤が女性と密会しているという噂を聞いて逆上→赤は青との関係を修復する為に会いに行く→女性との仲を誤解した青は赤を責める→「俺に抱かれて喜ぶくせに、女を相手に満足できるのか」と酷い言葉をぶつけて赤に平手を食う青→「わたしをそんな風に見ていたのか!」と傷付く赤の頬を青は問答無用で引っ叩いてムリヤリ○○→散々陵辱しつくして赤が失神した後で己の所業に気付く青→気が動転してボロボロの赤をそのまま放置して苦悩のままに去る青→翌朝独りで目覚めた赤は傷心を深める→青はこんな自分は赤には相応しくないと思って別れを決心→そんな青に見合い話が転がり込む→青の結婚話を聞いて赤は本格的に青との別離を覚悟→着々と縁談が進む中で赤は退団の決意を青に告げる→別れても騎士団で共に生きるつもりだった青は赤の話に再び逆上→監禁→結婚をした上に自分を囲う青に半ば諦めモードの赤→結婚したけど妻は名ばかり赤しか見えていない青→憧れの青と結婚できたのに愛されない妻が赤の存在に気付く→監禁されている赤の元へ妻が押しかける→「泥棒猫!」と詰って憎しみをぶつける妻→これが青の妻かと諦めモードのまま無言の赤→赤の態度に更に逆上してナイフを振り上げる妻→青登場→ナイフを払って妻に「泥棒猫はおまえの方だ。俺とカミューの仲は結婚する前からだ、妻だからといって図に乗るな」と冷酷な言葉を投げつける青→力を失って崩れ落ちる妻→ところが青が背を向けたときに再びナイフを取って振り上げる妻→それに気付いた赤が咄嗟に青を庇って代わりに刺される→「何故だカミュー!」→「…どんな時もおまえを愛していたよ……だがこんなわたしの事など忘れて、今度こそ、彼女と……幸せな人生を……」→赤の言葉に正気に戻った妻がフラフラと外に→その時、赤の失踪に疑問を抱いていた一人の部下の赤騎士がそこに→妻の様子に慌てて奥へ行くとそこには瀕死の赤が→事情が事情だから秘密裏に赤の手当てをする部下→赤の気持ちを知って今度こそやり直そうと決意する青→妻も同意のもとで離婚を進める→しかし青の気持ちを知らない赤は今度こそ青に幸せな人生を歩んで欲しいと再び監禁前と同じく姿を消す決意をする→助けてくれた部下の手を借りて逃げ出す赤→当然後を追う青→しかし青が見つけた時、赤は不運な事故で記憶の全てを失っていた→付き添っていた部下が「全てを忘れて苦しみから解放されたカミュー様を今はそっとしておいてほしい」→自分の存在が赤を苦しめるばかりだと気付いた青は大人しく身を引く→そして月日が経ち→ロックアックスに戻った青の元に意外な訪問者が→幸せな結婚の決まったステイシア(再登場)がその報告に赤を訪ねたが不在の為に青に→このとき漸く全ての事情を知った青→「カミュー様があの時励まして下さったから今の私があります。カミュー様はあの時仰ったように後悔せずに幸せにしておられますでしょうか」→ステイシアの言葉を伝えるのを口実に再び赤に会いに行く青→実は記憶を取り戻していた赤は、しかし記憶喪失のふりで青と会う→「おまえは覚えておらんだろうがステイシアという女性がな……幸せに、と……俺も…おまえの幸せを、願っている」→この時、はじめて赤との完全な別離を理解した青が涙を見せる→「すまんな…涙など、おかしいな」→立ち去ろうとする青の背中に赤は衝動的に抱き付いて引き止める→それまで赤への甘えから本当に別れる事など考えていなかった青が初めて赤の事を考えて別れを覚悟した青の涙→結局青には甘い赤→やっとお互いの想いが通じた二人→赤の部下は一人酒場で乾杯→これでメデタシかと思いきやロックアックスに戻った二人に新たな試練→二人の関係を知った悪者が暴露されたくなれければと強請ってくる→一人で悪者のところに向かう赤→ボロボロになる赤→「何故だカミュー! 何故一人で!」→試練は続くよ何処までも
2005/06/12
これは慣れなのか変化なのか
「最近、痛いだけではなくなってきたような気がします」
唐突のカミューの呟きに、傍らで珈琲を啜っていた青雷が不幸にもそれを喉に詰まらせた。
「ゲホッゲホッゲホッ」
「果たしてこれは私がマイクロトフのに慣れたのか、それともマイクロトフが上達してきたのか。多分両方でしょうね」
「ゲッホグッフゴッホ」
「どちらにせよ、痛くないのは良い事です」
「ガフッ………俺は…もう死んだ」
2005/07/20
幾千の星に 続編
その夜は酷い豪雨だった。
台風が近付いているだとかで交通機関は軒並み運行を中止したり、何時間も遅れたりと大騒ぎだ。街は当然人通りも少なく、週末の九時だというのに閑散とした大通りはまるでゴーストタウンのようだった。
マイクロトフは早々に傘をを畳み、吹き付けてくる雨風に腕を翳してアパートまでの帰路を足早に進んでいた。駅から五分という便利な立地だったが、こんな夜ばかりはその僅かな時間の徒歩も一苦労となる。
三日ぶりに戻ったアパートである。山と突っ込まれたダイレクトメールをひったくって、プールに飛び込んできたようにぐっしょりと濡れたスーツに顔を顰めつつ階段を登る。
暴風が階段の踊り場にある吹き抜けのフロアをも外と変わらない雨を降らせている。ともすれば足を滑らせそうな階段を二段飛ばしで登りながらマイクロトフは鍵を取り出した。
だが、漸く壁に囲まれた廊下に身を滑らせてホッとしたところでマイクロトフはギクリとして立ち止まった。
コンクリートに囲まれて、薄暗い蛍光灯に青白く照らされた狭い通路。マイクロトフの部屋の扉は一番奥だったが、その扉の前に誰かが座り込んでいた。
誰だろう―――。
刑事として多忙なマイクロトフの部屋に訪ねてくる友人は皆無だ。いつだって事前に連絡を受けて呼び出されて会うような間柄の友人ばかりだ。そもそも、帰って寝るだけの部屋に誰かを招いた覚えなどなかった。
だが不安と警戒を胸に抱えながら歩き出したマイクロトフは、数歩進んだところで響いた靴音に反応してかふと緩慢に頭を擡げたその人物の顔に、その認識を即座に改めた。
一人だけ、招いた奴がいたのだ。
「カミュー、どうした」
声を掛けるとぼうっと見上げていた琥珀の瞳がはじめてマイクロトフを捉える。その無表情に、雨に濡れて冷えた身体がそれだけではない理由でぞくりとした。
よく見ればカミューも服を濡らして、座り込んだ場所には水溜りが出来ていた。
マイクロトフは眉根を寄せると足早に進み扉の鍵穴に鍵を差し込むと、逸る気持ちで玄関扉を開き灯りをつけた。そして座り込んだままのカミューの腕を掴み引き上げるように立たせると扉の中に引き入れた。
濡れた革靴は脱ぎ難くて、珍しく舌打ちを響かせてマイクロトフはバスルームに向かう。濡れた服から水が床板に滴り落ちているがそんなことに構ってはいられなかった。
とにかく乾いたタオルを数枚棚から取り出すと玄関にとって返す。
案の定カミューは玄関でぴくりとも動かずに立ち尽くしていた。
「拭け」
広げたタオルを頭にかけると、鷲掴むようにして濡れた髪を拭ってやった。そこで初めて彼の髪が脱色や染色をしたものではない、生まれつきの髪色なのだと気付いた。
金茶の髪は濡れて以前に見たよりも栗色に近い色になっている。けれど水分が飛ぶと途端にさらさらとし始める髪は最初の印象通りに綺麗だった。
会うのは、これで三度目だ。
一度目は一瞬。
二度目は、殴られていた彼を無理矢理この部屋に連れ帰って手当てをして一晩泊めたが、朝になる前に姿を消してしまった。
今夜は何故―――。
「カミュー。いつから、あそこにいたんだ」
服の乾き具合からみて、そう時間は経っていないだろうが、日が暮れれば冷え込むこの時期にあんな場所に濡れたままでいるなど、身体を壊しかねない。
マイクロトフは自分のほうこそびしょ濡れなのにカミューの身体を拭くことに専念した。
躊躇いがちに上着の襟に手をかけたがカミューが嫌がる素振りも見せないので、遠慮なく服を脱がせた。だがどうしてもぼんやりと立ち尽くす様子がもどかしくて、マイクロトフは思い切ってその身体を抱え上げると玄関から部屋の奥へと連れ込んだ。
「どうしたんだ、おまえ」
されるがまま、暴れるでもなく黙って運ばれたカミューは、床の上に下ろされてもそのままじっと俯くばかりだった。きっとこのままでは何を言っても無反応だろうと、マイクロトフはさっさと靴を脱がしてその服を問答無用で脱がしてやった。それから自分は濡れたスーツを着たままで半裸状態のカミューをバスルームに連れて行った。
給湯器のおかげで直ぐにでもシャワーノズルから暖かな湯が降って来る。狭いバスルームの中では暫く水音だけが響いた。
「寒くはないか」
「…………」
「ほら、くるまってじっとしていろよ」
手っ取り早くその身体をお湯で暖めたことを確認すると、バスタオルで包んでやってベッドに座らせる。そこでマイクロトフは漸く己の惨状を省みてスーツを脱いだ。
そして急いでシャワーを浴びてバスルームを出ると、カミューは相変わらずの状態でバスタオルを被ったままの格好でベッドに腰掛けたままだった。
あの朝のようにいなくなっていない事にホッとして、マイクロトフは腰にタオルを巻きつけただけの姿で歩み寄ると、その肩を叩いて寝るように促した。
「カミュー、寝ろ」
毛布を引き上げて横たわった身体にかけてやったが、茫洋と開かれた眼差しはそのままだ。
「寝てしまえ」
慰めるように毛布の上から肩を摩ってやるのだが、カミューは伏せた目をそれ以上閉じようとしない。マイクロトフは少しだけ考えて、その湿気を含んだ髪に再び手を伸ばした。そして野良猫を撫でるような慎重さでそっとそっと撫で梳いてやりながら口を開いた。
「………ここにいてやるから、安心して眠って良い」
ぴくりと、カミューの長い睫毛が揺れたような気がした。
「俺が傍にいてやるから」
囁くように告げると、漸くその睫毛がすうっと力が抜けたようにゆっくりと伏せられて掌の下の身体から強張りが解けた。
2005/08/28
幾千の星に 続編
ベッドには眠り続けるカミューの姿がある。
目覚めて直ぐに日課のジョギングがてらコンビニに出掛けて戻ってきても、彼はまだ眠り続けていた。僅かに赤らんで見える顔にそっと掌を這わせると微妙に高い体温を感じた。
いつ頃から扉の前に蹲っていたのか。
だが、彼がどうして昨晩ここに訪れたのか、コンビニで目にした新聞を読んで、その理由がおぼろげながら分かった。
―――昨夜六時頃、シティホテルで発砲事件があったのだ。どうやら暴力団の抗争絡みのようで、男性が一人撃たれて死亡したという。身元は岩斧組の幹部で、犯人は複数で鮮やかな逃亡ぶりでいまだ捕まっていないと記事は伝えていた。
きっと関係があるのだろう。
カミューは岩斧組の人間だ。もしかしたら狙撃された幹部の下についていたのかもしれない。彼も同じように狙われていて、それでマイクロトフのアパートを絶好の隠れ場所として逃げてきた可能性は高い。
それでも、あまりにも無反応だったカミューの様子が気になる。
初めて会った時の鮮烈な印象とは裏腹の、今にも光りが消えてなくなりそうな希薄な眼差しは、同じ人間だと分かっていても別人格ではないかと疑いたくなるほどだった。
余程の事があったのだろう。
そこでふと過ぎる不安がある。
もしかしたらカミューが襲撃者側の人間だった場合だ。それならばマイクロトフには彼を保護するのではなく警察に連行しなければならない義務がある。
全てはカミューが目覚めて口を開いてくれなければ分かりようがない。
都合の良いことに今日は一日非番だった。事件に追われて三日も徹夜で捜査していたマイクロトフに、事件の解決と同時に与えられた休息の一日だ。
ゆっくりと休んで部屋の掃除や溜まった洗濯物を片付けようと思っていたが、どうやらそれに加えて病人の看護もしなければならないようである。
ともあれ。
マイクロトフは部屋の遮光カーテンをそのままにして、昨夜大量に使ったタオルや洗濯物を抱えてアパートの下のコインランドリーに向かった。
乾燥を済ませた洗濯物を抱えて玄関扉を開くと、中からガタンと大きな物音がして、マイクロトフはサンダルを脱ぎ飛ばしながら慌てて部屋に入った。
するとベッドのすぐ下で座り込んだ姿勢で彫像のように固まっているカミューと目が合った。ずる、と肩から滑り落ちた毛布の下は真っ白な素肌だ。
そういえば裸のまま寝かせていたなと思い至り、混乱もあからさまなカミューの顔に、思わず笑みが零れた。
「起きたか」
マイクロトフの声にビクンとその身体が震える。そしてぎこちない動きで毛布を掻き寄せて膝を抱えるようにして小さくなった。
「具合はどうだ。腹は空いていないか」
「……ま……」
「ま?」
小さな応えに鸚鵡返しに目を見開くと、途端にカミューの顔が真っ赤に染まった。
「マイクロトフ……」
「ああ、俺だ」
「わたし、は」
「カミュー」
「どう、して……」
「それは俺が聞きたい」
「ふ、服を」
「ああ。洗濯してきてやったぞ」
微妙に会話が食い違っているのだが、それはマイクロトフにとって重要ではない。
乾燥したてのそれを袋から取り出して、とりあえずカミューの下着とマイクロトフのスウェットを足元に放ってやった。すると赤い顔が俯いて毛布の下から伸びた手がそれらを掴んだ。
マイクロトフはそれを横目にカーテンをさっと横に引いた。途端に爽やかな陽の眩しさが室内を明るく照らす。昨夜の台風は夜中のうちに通り抜けて、空は綺麗に晴れている。
「さて」
洗濯した袋を床に置き、マイクロトフは窓を背に振り返った。
目の前には手早く服を着たカミューが漸く毛布から抜け出て所在無さげに視線を床の上に彷徨わせている。
「……聞かせてもらおうか」
マイクロトフの言葉に、カミューの身体が見るからに強張った。
2005/08/29
「俺は朝はパンなんだが、おまえはパンと米とどっちだ?」というオチ(真面目に)。
幾千の星に 番外編 未来
「おかえり、マイクロトフ」
「……ただいま」
珍しく玄関で出迎えたカミューの姿を眩しげに見て、マイクロトフはボソリと答えて靴を脱いだ。随分と靴底が減ってきてそろそろ買い替え時のボロボロの革靴だ。
「ボロボロだなぁ」
カミューが呟く。
靴の事ではなかった。
「とりあえず、風呂に入れ。沸かしてあるから」
「…すまん」
「なんなら、髪を洗ってやろうか? それからその不精髭を剃ってやって、マッサージもつけてやろうか」
「いや……、有難い申し出だが、遠慮しておこう」
「なんだ、つまらないな」
そしてぽつりと「……十日ぶりなのに」とカミューが呟いた。
確かにこの十日間は事件の捜査でずっと署に泊り込んでいたのだ。だがそれもつい数時間前に無事容疑者の確保で一応の解決を見た。
カミューにはその時点で今から帰ると電話を入れている。だからこその玄関までの出迎えだろう。意外な彼の反応にマイクロトフは口の端を笑みに緩ませつつ、眠気の漂い始めた眼差しで彼を見上げた。
「風呂に時間を取られるよりは、さっさと寝床に潜り込みたい気分でな」
「……そりゃさぞかしお疲れだろうからね」
「誤解するな。おまえ込みの寝床を希望しているんだ」
にやりと笑う。我ながら直裁だなとマイクロトフは自嘲したつもりだったが、カミューはそれを揶揄の笑みと受け取ったのかもしれない。
「さっさと風呂に入って来い。確り洗わないとベッドから蹴り出すからな」
すっと背を向けて玄関からリビングへの扉を乱暴に開け放って去って行ったカミューの、その顔が赤らんでいたのは見間違いだったろうか。
マイクロトフは苦笑を浮かべながらリビングの手前にある風呂場へ続く扉へと向かった。
2005/10/05
未来のお話。同棲していますよ。あはははは。でもきっと通いだと思いますけどね。
庇う
手袋越し、手のひらに土の感触を感じた時には己の肩を抱きこむ暖かな重みを感じた。
息を呑むような気配が間近から聞こえてハッと顔を上げると、見慣れた鮮烈な青い軽鎧の肩当が目の前にあった。
「マ、イクロトフ……」
くらりと眩暈を覚えながらも名を呼ぶと、肩を抱きこむ男の腕に力が篭るのを感じた。
「大丈夫か、カミュー」
間近から声が降る。そして支えるように抱き寄せられ、カミューの手のひらが地面から離れた。
「まだ、戦えるな?」
「…ああ」
当然だと頷くと、最後に励ますようにもう一度グッと力強く肩を抱き寄せられて、それからふわりと身体が離れた。そして身を翻した男の背には打撃を受けたのだろう、丈夫な生地のはずの騎士服の背が破れ綻びていた。
思わず目を逸らしそうになるのを堪え、カミューは地面に膝をついたまま剣の柄を左手に持ち替えなおすと、右手を顔の横に掲げて握り締めた。血流がどくりと音を立て、魔力と熱が紋章に集中していく。
攻撃は最大の防御―――今は男の傷を心配するよりも目の前の敵を殲滅するのが先だった。
今にも意識が遠のきそうな自分の不甲斐なさも、そんな自分をどんな状態であっても庇おうとする男の無茶も。全ては戦闘が終わってから。ただ今は抱き締められた肩の温もりを支えに、カミューは炎を顕現するために右手を大きく振り上げた。
2006/01/22
青に庇われた時の赤の視点でした。
幾千の星に 続編
深夜、街の寝静まった頃に警察病院の地下駐車場の、鉄製の扉がゆっくりと開かれた。職員用階段を足音もなく上る人影はナースステーションの前を気配もなくすり抜けると、廊下の奥を進んで目当てのネームプレートを見つけた。
病院特有のレールを走る扉は指先ひとつの力で苦もなく静かに開く。扉横に並んでいたネームプレートは四枚。灯りの落ちた四人部屋は薄暗かったが、大きな窓ガラスと薄いカーテンを透かして十分に中が見通せる。だがそれぞれのベッドを仕切るカーテンが、それぞれの些細なプライバシーを守っていて、誰が誰だか分からない。
人影はゆっくりと歩を進めると手前からそっとカーテンの向こう、ベッドに横たわる寝顔を確認して行った。そして―――四度目にして、漸く目当ての寝顔を見つけた人影は、するりとカーテンの中にその身を忍び込ませた。ゆらりと青白いカーテンが揺れる。
しかし。
「………起きて…?」
寝ているとばかり思っていた怪我人は、宵闇の中で確りと漆黒の目を開けてカミューを見上げていた。
「俺の職業を、忘れたか」
「いいや…。だけど、手術をしたんだろう…?」
毛布に隠れて見えないが彼の脇腹には包帯が巻かれているはずだ。今日の昼、その身に受けた弾丸の摘出手術の治療痕だ―――。警察官が暴力団の抗争に巻き込まれて負傷したというニュースは、夕方にちらりと流れただけだったが、カミューにとっては聞き逃せない重大なニュースだった。
「大した事ではない」
「……マイクロトフ」
「掠り傷だ」
「すまな―――」
「謝るな」
ぴしゃりと、点滴に繋がれて起き上がることも出来ない怪我人とも思えない強い口調で遮られてカミューは目を瞠る。
「カミューは何も悪くない」
「だけど、一課のおまえが抗争に巻き込まれるなんて有り得ない」
「偶然だ」
「マイクロトフ、分かっている筈だ」
カミューは拳を握り締めて奥歯を噛み締めた。それからほうっと息を吐くと、拳を解いた指先をマイクロトフのこめかみへと伸ばした。
「…おまえを襲った者の目星はついている。必ず、落とし前はつけさせてやる」
「カミュー、おまえはもう…っ」
だがマイクロトフがそれ以上を言い募る前に、ふわりと落とされた唇に言葉を封じられる。
「絶対に許しはしない」
静かに決意の言葉を残して、カミューは訪れた時同様に気配もなく消えていった。
2006/01/24
いきなり話が飛んじゃっています。
悪夢
「!!」
深夜、寝台の上でマイクロトフはカッと目を開く。
胸の鼓動は痛いほどに激しく早く、顔はまるで水をぶっかけられたかのように、冷や汗でびっしょりと濡れていた。
酷い痛手を受けた時のように、身体を震わせながら起き上がる。
「……カミュー…」
呟くと、途端に夜の冷気が忍び込んできて、ぶるりと寒気がした。
マイクロトフは震えを感じながら、音もなく寝台から抜け出ると傍らに立てかけてあったダンスニーを掴み取り、裸足のまま部屋を出た。そしてそのまま、隣の部屋の扉をそっと開く。
「……ん…?」
音も気配も殺したはずなのに、それでも起こしてしまったらしい。薄闇の中でもぞりと動く影。
「マイクロトフ?」
寝ぼけた掠れ気味の声は、しかし緊張感の欠片もなくてマイクロトフの罪悪感を少しだけ軽減してくれる。
「すまん」
「ん?」
ダンスニーはユーライアの隣に。
「嫌な夢を見てな、カミューの顔が見たくなった」
「あー、好きなだけ見てくれ」
「触って良いか」
「構わないよ」
すっと頬に指先で触れた。
恐ろしく整った造作の、恋人の顔。
目鼻立ちだけではなくて、顎の輪郭や続く首筋、うなじ、鎖骨、胸、肩、背。
均整の取れた、綺麗な身体をしている。
「……マイクロトフ?」
「いや……このまま、ここで寝て良いか」
「すっかり潜り込んでおいて、今更聞くことかい」
「む…」
「ほら、じゃあ、さっさと目を閉じろ。わたしも、寝るから」
「うむ…すまなかったな。起こして」
「気にするな。おやすみマイクロトフ」
「おやすみ、カミュー……」
そっと引き寄せるように抱き寄せた彼の身体は、確りとした重みと温もりがあった。
マイクロトフは腕の中に感じるその確かさに、ほっと安堵の吐息を零しながら、やがて訪れた眠りに意識を委ねたのだった。
2006/06/06
豪雨
「脱げない………」
「俺もだ………」
「ブーツの中まで侵食する大雨なんて、もはや嵐だろう」
「ああ……」
「というか、脱げない……」
「いや、片足がなんと、か……あ!」(こけた)
「………ぶっ」
「………………」
「大丈夫か」(声が微妙に震えてる)
「……大丈夫だ」
「しかし、脱げないな」
「…………」
「よし、おまえそこに座れ」
「うん?」
「で、私が正面に座って……ほら、ブーツを出せ」
「なるほど」
「「せーの」」
「うわっ!!」(ズポッ! 揃ってゴツン!)
「………」
「……………」
「くっくっくっくっく」
「あっはっはっはっは」
2006/06/15
触れる
「カミュー、睫毛が」
「ん?」
硬い感触の指の腹がさらりとカミューの目の下を撫で擦り、薄い色の睫毛を拭い取る。
「ありがとう」
「ああ」
しかしマイクロトフの手は、一瞬離れて睫毛を落としたものの、直ぐに吸い付くようにしてカミューの顔に戻った。その指はまるで慰撫するかのように、顎からこめかみに向かってゆるゆると動いた。
カミューは別段それを払い除けるでもなく、軽く俯きがちに微笑んでいる。マイクロトフの手が我が物顔にペタペタと己の顔を触りまくっても、全く嫌がらない。どころか触るに任せている。
そして次第にマイクロトフの手指は精巧な彫像を確かめるようにして、遠慮なく両手でカミューの顔に触れ始めた。
「おい……」
深々と溜息混じりに発したのはビクトールか。顔を上げたのはカミューだ。
「はい?」
「おまえら、酔ってるだろう」
「え?」
「いや、もう良い」
マイクロトフの指はこめかみから流れるカミューの毛先をつまんで、遊ぶように揺らめかせていた。
2006/07/09
マイクロトフは「綺麗だなぁ」と思いながらカミューを触っているし。
カミューは「気持ち良いなぁ」と思いながら触られている。
ゲーム
「ジャンケン、ホイ」
「アッチ向いてホイ」
「………」
「………」
「笑いたければ笑え、カミュー。我慢は身体によくない」
「それでは遠慮なく。……あははははははは!!」
「何故なのだろう」
「素直なのは、いいことだよマイクロトフ。あはははは」
「くそう」
「では、もう一度やるかい?」
「よし」
「ジャンケン、ホイ」
「アイコで、ホイ」
「アッチ向いて、ホイ!」
「………」
「あははははははは!!」
「……なぁ、フリックよ」
「なんだビクトール」
「あんだけカミューの顔を凝視してりゃあ、そらつられるわな?」
「まぁな」
「自覚ねえとこが、痛くないか」
「オレが知るかよ」
2006/09/06
青は無意識に、赤の顔がすげー好きだと言う事だ。
片想い
月明かりの射す小部屋。
青白い輝きが窓辺に立つ人の頬を照らしている。
「マイクロトフ…?」
小声で囁きかけた途端、月明かりが遮られてカミューの目前が陰った。そして、気が付いた時には親友に抱きしめられていた。
小刻みに震える肩が目の前にあって、カミューは慰めの気持ちで親友の背にそっと手のひらを添えた。すると胴と肩を抱く彼の腕がいっそう強い力で抱きしめてきた。そして押し殺したような吐息が耳に触れる。
「カミュー」
その声に含まれたあまりの切なさに、ハッと胸が締め付けられるようだった。
カミューは、親友がこの満月の夜に、何に悩み何に心を囚われているのか、知らずにいる自分が酷く情けなく感じた。
だが一瞬後に、カミューは親友の突然の行為にそんな寂寞感など吹き飛んでしまった。
頬に親友の指先が触れたかと思ったら、するりと顎を支えられた。
そして唇に触れた、柔らかな親友の唇。
「……カミュー、好きだ」
濡れた唇に吐息と共に寄せられた、思いのたけだった。
「マイクロトフ」
「すまない、カミュー。俺はもう隠し続ける事に疲れてしまった」
そして再び力の限りに抱きしめられる。
親友はそうして全身でカミューに訴えながらも、こちらがどんな反応を返すのかに怯えているようでもあった。
「カミュー……」
必死で縋りつくような声に、ぞくりと背筋が震えた。
―――どうすればいい。
親友の肩越しに見える月明かりの射す窓がまぶしくて、カミューはそっと目を閉じた。
「マイクロトフ……」
抱きしめるマイクロトフの腕が、いつまでも自分を絡めて縛り付けてくれるのなら、このまま月夜の幻に惑わされてもいいと、カミューはそう思った。
2006/11/18
片想い⇔片想い
なににする?
赤「おかえりなさいアナタ。お風呂にする? お食事にする? それとも、ワ・タ・シ〜?」
青「………」
赤「待て、帰って来たところなのにどこへ出かけるつもりだ」
青「………」
赤「分かったよ、悪かったよ。ふざけただけじゃないか、なんだよその怯えた顔は」
青「………」
赤「湯は入ってる。食事も肉を焼けば直ぐ食べられる。どっちが先でも良いぞ」
青「ありがたい。では、先に汗を洗い流させてくれ」
赤「つまらん奴だな。少しは冗談に付き合っても罰はあたらないだろうに。ほらタオル」
青「ありがとう。ああ、そうだ、カミュー」
赤「うん?」
青「ただいま」
………。
赤「……………」
青「というわけで『おまえ』だ」
赤「不意打ちとは卑怯だ!」
青「なんだ。おまえの言うとおり冗談に付き合ってやったんではないか」
赤「ああそうかい。おまえが冗談で人にキスをするような男とは知らなかったな」
青「なんだ。冗談だったのが気に食わないのか。それなら本気でやってやろう」
赤「うわ、待て。さっさと風呂に入って来い!」
青「ははは」
赤「くそう……」
2007/03/08
一枚上手の青に萌え
恋した人
一目惚れだった。
恋に落ちた。
そして。
その直後に、失恋した。
恋した相手が騎士団長だったなんて、無理だ。
て言うか、れっきとした男じゃないか。
俺も、男だ。
しかも騎士だ。
騎士で、それで団長相手に恋が叶うなんて、あるわけない。
ああ、遥かなる美しき頂きに立つ麗人。
赤騎士団長カミュー様。
しかも団の色が違うのだから絶望的に遠い。
せめてこの想いだけは切なく秘めて、控えめにお慕い申し上げるにとどめよう。
そうして涙を呑んで、明日には強い男に戻るのだ。
だが、俺は知らなかった。
直ぐ傍に立っていた男が、この時、自分があんなにもあっさり諦めた恋を、なんの疑いもせずに温め続けて、そして―――。
結局、俺は器じゃなかった。
それだけのことだと理解したのはその後の、新たなる団長の就任式でのことだった。
2007/12/15
第三者視点でっす!
甘露
カミューの瞳はとろりと溶けた飴のような色味ときらめきで、舐めたら甘そうだと、常々マイクロトフは思っていた。
でも本当に舐めたら、この男は驚愕のあまりマイクロトフにどんな暴言をぶつけてくるかしれないし、そもそも他人の目は、舐めるものじゃない。
でも、そう理性的に考える傍らで、「あぁ、舐めてみたいなぁ」と本音が呟くのだ。
さてはて、どうやってこの欲求を逸らせば良いのだろう。
と、マイクロトフがそんな風に困っていたのは、数年前のことだ。
「で、舐めてみた感想は?」
「しょっぱい」
「あぁ、泣いたからなぁ……って、目元がおまえのせいでべたべたする」
閨の、蝋燭の僅かな灯りの元で、至近距離で見詰め合う二人である。カミューは無防備にマイクロトフに身をもたせかけ、漸くおさまってきた呼吸に唇を震わせている。
マイクロトフはといえば腕の中に囲い込んだ愛しい存在をこれでもかというほどに堪能した後で、身も心も満足している。そんな時に「そういえば」と昔、まだこの恋情さえも確かな形を成していなかった頃の思い出話をしてみたのだ。
そうしたら「舐めてみるか」と、意外な答えが返ってきたので、お言葉に甘えた。
不思議な感じだった。
結果、マイクロトフは今、カミューの瞳を舐めたことに、自分でも驚くほどに興奮を覚えていた。もちろん、舌先に感じた眼球は当然の如く飴のように甘くはなかったし、水っぽくてつるつるしていた。そして涙に濡れていた所為か、少ししょっぱかった。
味や舌触りがどうこうというのではない。
カミューという、この男が、そこまで自分に無防備である現実を、このような形で実感してしまったことに、興奮しているのだった。
目は、いわば急所だ。
元来、他人がそこに触れようとした時には反射的に逃げてしまう部位だ。
それをここまで手放しで預けてくれる、この絶対の信頼に、マイクロトフの胸は熱く震えた。
「どうした。目なんぞ、美味くもなかろうに」
嬉しげなマイクロトフの様子にカミューは呆れている。だがそれに、ゆるりと首を振って答えた。
「今まで舐めた、どれよりも、美味い」
2007/12/15
製作時間10分