50題 色は匂えど
07. 特別
「じゃあな」
カミューはそう言って笑って手を振って部屋を出て行こうとしている。マイクロトフはその姿を思わず素直に見送りそうになったが、辛うじて我に返ると手を伸ばしてなんとか引き止めた。
掴んだカミューの腕は旅行者用の頑丈な上着の袖に包まれている。
その格好の意味するところは、今まさにロックアックス城からどころか、マチルダ騎士団領からすら出て行こうとしているという事なのだった。
赤騎士団長の地位を捨て、旅人或いはただの剣士として旅立つカミュー。その事実をマイクロトフが知ったのはたった今だった。
「ちょっと待て」
「なんだ?」
「待て、待ってくれ。いきなりすぎるだろう。どうして今日突然騎士団を辞めるなどと」
マイクロトフは混乱しきっていた。
今朝もいつもと変わり映えのしない一日が始まるのだと思っていた。青騎士団長として漸く落ち着き始めてきたマチルダ騎士団の再興に、今日も骨身を惜しまず働くのだと。それはもちろんカミューも一緒に働くのだと疑いもしていなかった。
「そんないきなりでも、ないんだが」
掴まれた自分の腕を見下ろしてカミューは困ったような微笑を浮かべる。
「それよりも、早く出ないといけないんだ。今日中に街道の村を抜けて関所近くまで行きたいから」
明日にはミューズの街に着いて旅の装備を整えたいんだ、と微笑のまま首を傾げる。その目線が腕を掴んだままのマイクロトフの手を見下ろしていた。だがその指先は強張ったように動かない。
「カミュー」
俯いたまま、彼は顔を上げない。
「カミュー、ちょっと待て。俺には意味が分からない。全てが唐突すぎて、まるで意味不明だ」
「うん。まぁ、おまえには内緒にしていたし」
「何故だ!」
「だって……これ以上ここにいても、意味がないし。だけどだから出て行くと言ってもおまえは納得しそうにないから」
「だから内緒で準備をしていたと言うのか。意味がないって、なんだそれは」
「やっぱり怒る。だから置手紙だけで出て行こうと思ったのに、副長もおまえの部下たちも人を薄情だなんだと散々罵るから絆され―――たというのもおかしいけど、折れて別れを言いにきたんだけど」
やっぱりよせばよかった、と後悔めいた言葉を口にするカミューを、マイクロトフは全身に汗をダラダラとかきながら見ていた。
「カミュー、カミュー。勘弁してくれ。俺は何かおまえに嫌われるようなことをしたか」
「何も、おまえは何もしていない。だからだ」
「何もしていないのに、事情も言わずに黙って出て行こうとしたのか」
だったら何かがあれば出て行かないのだろうか。だが、それはなんだ。マイクロトフは混乱する頭の中でめまぐるしく考えた。けれどちっとも分からない。
「カミュー!」
「落ち着けよマイクロトフ。心配するな、おまえが悪いことなんて少しもないから」
「だったらどうして!」
すると不意に、カミューは目を伏せると悲しげに眉根を寄せた。
「嫌なんだよ」
「何が」
「意味がないのが……」
「それは、さっきも言ったな。何に意味がないと言うんだ」
マイクロトフは自分の釈然としない気持ちと、カミューの逃げ腰な態度とに、苛々とした口調で問い詰める。
「おまえが……」
「俺が、何だ。不満があるなら聞く。だから頼むから俺に何も告げずに消えたりしないでくれ」
と、そこでカミューが急に顔を上げた。
「……してだ?」
「ん?」
「どうして、急に消えたりしてはいけないと、言うんだ」
途端にカッと頭に血が上る。
「当たり前だ! 俺にとってカミューは突然消えてそれでそのままにして良いような男じゃないからだ!」
「……つまり、特別……なのか?」
「特別だ!」
カミューの琥珀の瞳がきょとんと見開かれて、マイクロトフを凝視している。その表情が、まるでマイクロトフの言葉を予想もしていなかったように見えて、またカッと目の奥が真っ赤に染まる。
「カミューはそう思っていなかったのかもしれないが、俺にとってはカミューは特別でかけがえのない男だ。黙って消えたら怒るし傷つく」
今でさえ充分に傷ついている。
カミューにとっては、マイクロトフは黙って出て行っても構わない相手なのだと宣言されたも同然なのだ。自分の気持ちが一方的だったことが、とても悲しかった。
「もう、良い……勝手にどこへと出て行けば良いんだ。だけどカミュー……落ち着いたらで良い、元気でいるかどうかだけで構わないから手紙をくれ。せめてそれくらいはしてくれても良いだろう」
この長年の友情が偽りではなかったと、せめてそのくらいの事はしてほしかった。ところが。
「いや……手紙は、書かない」
カミューがぽつりと呟く。マイクロトフは瞬間的に絶望を感じた。
だが果てしなく落ち込むよりも前にカミューの様子の奇妙さに気付く。見開いていた瞳は微笑みに柔らかく細められて、その口元も穏やかに笑んでいる。
「カミュー?」
「やめる」
「何を」
「出て行くのをやめる」
「え?」
途端にカミューはさっと踵を返した。
「そうと決まれば副長に言わなければな。流石にもう一度赤騎士団長にはなりたくないけど、籍は部下の言い分をのんで、騎士団に置いたままにしよう」
断り続けていた外交交渉を引き受けてもいいな、と軽い足取りで廊下を、城の門ではなく奥へと向かって歩き出す。
「……カミュー?」
と、くるりとカミューが振り返った。
「マイクロトフ。おまえは知らなかっただろうけど、わたしにとってもおまえは特別な男だよ。でもそのことには意味がないと今まで思っていた。だけど考えを改めたよ。意味がないなら、作れば良い」
ピシッと人差し指を突き出してカミューは言った。
「覚悟しろ」
そして向けられた笑顔が爽やかすぎて、なんだか怖いと思った。
2007/03/10