50題 色は匂えど
20. 眠りの恐怖

 名を呼ばれて顔を上げると、困ったような表情の同僚たちと視線が合った。自分が注目されていたらしい事に思わず目を瞠ると、杉田がすっと進み出てそんな一条の肩をぽんと叩いた。
「いい加減、帰って休め。本部長から特別に許可命令も下りてる。得意の命令違反はしてくれるなよ」
 そしてずっと帰ってないだろう、と責めるように言われた。
「無理して倒れてみろ、長野の彼女が泣くぞ?」
 そして再び肩を叩かれる。一条は苦笑を零して机の上に広げていたファイルをパタンと閉じた。そして杉田を見上げてきいっと椅子を引いて立ち上がる。
「いませんよ」
 そんなものは、と。

 仮住まいのシティホテルは、ずっと空気が乾燥している。
 おかげで喉が渇いて一条の眠りはいつも浅い。濡れたタオルを置くと良いなどと随分前に聞いたなと思い出しながらも、熱いシャワーを浴びた後はそんな気も回らなくて、シングルサイズのベッドに倒れ込むのが精々だった。
 断続的な緊張を強いられ続けた精神と肉体は確かに疲れていて、睡眠を欲していた。こうして濡れた髪もそこそこにベッドに横になると、目を閉じた途端にするりと眠り込んでしまいそうになる。
 だがその眠りに落ちようとするその刹那一条は、常にぞくりとした悪寒を感じて一瞬で眠気が吹き飛び目を開いてしまうのだ。
 もしも―――。
 この時も一条は目を見開き、そして胸を圧迫する嘔吐感にくっと奥歯を噛み締める。
 想像しただけで気分が悪くなるのだ。

 もしも、眠っている間に未確認の事件が発生したら。
 そしてその報せを、眠っていてもしも、直ぐには気付けなかったら。

 そう思う反面、一条には仮に携帯の呼び出し音が鳴り響いたとしたら、気付いて飛び起きてみせる自信があった。だが、絶対は有り得ない。だから想像してしまう。

 もしもそうして、直ぐに対応できなかったばっかりに、五代雄介が危機に陥ってしまったら、援護出来なかったら……間に合わなかったら。

 再びぞくりと粟立つ肌をさすり、一条は明かりを落としたベッドの上で起き上がる。こうなるともう、目を閉じても眠気は訪れない。どくどくと脈打つ心臓の音が耳元で大きく聞こえる。それは静かな室内では尚更顕著だった。
 毎回こうでは一条に穏やかな眠りなど訪れるわけもなく、それなら警視庁にある仮眠室で数時間横になっているほうがずっと休まるというものだった。あそこならまだ、誰かが起こしにきてくれる。
 しかし共に戦い抜いてきた同僚たちは、皆心優しい。良かれと思って一条を少しでも休ませようと心を砕いてくれる。その好意を無碍にも出来ず、こうしてホテルに戻ってきているのだ。
 実はホテルで休むより仮眠室の方が良いのだと言えば、分かってくれるだろうか。少しだけ首を捻って考え込み、一条は軽く首を振った。多分だが、一条が気を使ってそんな嘘を言っているのだと思われるのが落ちのような気がする。
 一条は僅かに溜息を零して、無意識にベッドサイドに置いた携帯電話を手に取った。今はアダプターに繋げられて充電中のそれを握り込み、ボタンを押すとディスプレイに光が灯る。暗闇で眩しいくらいに光るそれを見下ろせば、まだ随分と早い時間なのだと気付いた。
 そういえば通常の退庁時刻よりも前に本部を追い出されて、そのままホテルに戻ってきたのだからそれも当然といえた。
 と、その時だった。
 電子音が静寂を切り裂くと共に、見下ろしていたディスプレイがチカチカと光り『公衆電話』という文字をそこに映した。
「……?」
 僅かの戸惑いを覚えながらも、一条は反射的に通話ボタンを押すと電話に出た。
「はい、一条ですが……」
『あ、俺です。五代です』
「五代? どうした。何があった」
 やにわに胸騒ぎがする。しかし電話の向こうの声はのんびりとしたものだった。
『や、警視庁の方に電話したら、一条さんもう帰ったって聞いたんで。思い切って携帯の方にかけてみました』
「ああ、それで何かあったのか」
『一条さん、もうご飯は食べましたか』
「……いや。五代?」
『実は俺、差し入れ作ったんです。一条さんに食べてもらおうと思って、美味しいちらし寿司』
「は?」
『一緒に食べましょう』
「………」
『一条さん? もしもーし』
「用はそれなのか」
『はい』
 間髪入れずに返ってきた元気な返事に、思わず眉間に拳をあてて一条はぐったりと前かがみに項垂れていた。
『だから一条さん、どこにいるのか教えて下さい。俺今から出前します』
「しかし五代、君も出来るだけ休めるときに休んだ方が」
『俺は働かない従業員だから大丈夫ですよ。それより一条さん、どこですか? きっと警視庁の近くですよね。だったらほんの数分で届けますよ、そんで腹いっぱい食べたらぐっすり眠れますよ!』
 不意に五代の言い回しに違和感を覚えた一条は、ハッと気付く。
「五代雄介、今どこにいる!」
 まさか。
『あ、ばれちゃいましたね。実は警視庁の近くです』
「今からそっちへ行く。待っていてくれ」
『いやいや、一条さんもう部屋に戻ってるんでしょ? 俺が行きますって、だから場所教えて下さい。なんなら杉田さんに聞いても良いんですけど』
「……分かった」
 暗に、そこまでして良いんですか? という気遣いのようでいて脅しのような響きに、折れたのは一条の方だった。そしてホテル名とだいたいの場所を告げると、五代は『分かりました』と答えてあっさりと通話を切った。

 再び静寂が戻る。
 一条はそっと指先で携帯の表面を撫で下ろした。
 そして無意識に口元に笑みが浮かんでいた事に、気付いて苦笑した。ついでに目蓋がふうっと重くなってやにわに困る。
 果たして五代が到着する数分の間に、眠らずに待てるかどうか―――。

2007/02/04 15