50題 色は匂えど
43. エンドレス

 俺は恋人の誠実を疑って憚らない。



 きっと本気ではないのだろう、と日常的に考えている。
 遊びで適当に付き合っているのだろうと、何度も考えているのだ。
 何しろこの一週間音信不通で、そろそろ飽きられてきた頃かと思い始めたところで、実はその相手が交通事故に遭って意識不明の危篤状態なのだと、全くの第三者から教えてもらって初めて知ったのだ。
 これで本当に俺はあいつの恋人なのかと。
 入院先の病院すら知らない。電話をしても電源が落ちているのか繋がらない。メールも当然、音信が途切れた一週間前から、全く反応がない。
 所詮、自分はその程度の存在だったのだと思い知らされた。

 俺との交際を、あいつは周囲には隠していたようだ。
 当然だ。
 同性の恋人の存在をカミングアウトするなど、この日本ではまだまだ受け容れられ難い。あいつが人気商売のいわゆる俳優稼業というのも、俺のことを隠すに充分な理由のひとつでもあった。
 そうなのだ。あいつは有名人で、俺はただの一般人で平凡な男で。
 本当ならすれ違う事もない筈の相手だ。
 芸能関係に疎い俺は、最初はあいつのことを全く知らなかった。そんな俺の態度が面白かったのか、妙に構ってきたのが付き合いの初めだ。それから偶然に同僚から見せてもらった映画雑誌で、あいつの正体を知った。
 そのことを問えば、別に隠すつもりも嘘をつくつもりもなかったとあいつは言った。
 俺はそれを信じて、多忙な男に振り回されつつも関係を続けていた。
 だが知ってから、それまで興味もなかった芸能ニュースが目に耳に入るようになるに従って、あいつがどれだけ才能があって人気があり、世間の注目の的なのかを知った。
 そして、俺はあいつの誠実を疑うようになった。
 好きだ愛してると囁かれても、聞き流す。
 一緒に暮らそうよと誘われても笑って往なす。
 だっていつかあいつは俺を捨てる。

 どれだけ俺があいつを好きで、もう身も心もあいつに捧げ切っていたとしても。



 案の定、俺は今あいつの見舞いにも行けない。
 というかそもそも俺にあいつの見舞いに行く権利はあったのだろうか。
 あいつの周囲は俺の存在など知らないし、たとえ入院先を知っていても門前払いされるのだろう。むしろ思い込みの激しい危ない男扱いされるのかもしれない。
 いや、実際そうなのかもしれない。

 あいつにとって俺は気紛れな遊びのひとつで、俺だけが恋人だなんて思い込んでいて、飽きられたり捨てられたりなんてそれこそ思いあがりかもしれなかった。

 意識不明の重体なんて、気が狂いそうになるくらい心配だ。
 でもこの気持ちも俺の一方的な感情で、あいつには迷惑なだけなのだろうか。

 待て。
 そもそもが、どれもこれも思い込みなのかもしれない。

 あいつの甘い囁きも、笑った顔も、俺の妄想だったらどうしようか。

 人気俳優を架空の恋人に仕立てた妄想。
 本当は俺はそこまで狂っていて、それに気付かないだけなのかもしれない。
 電話もメールも嘘で、俺が勝手にあいつのものだと設定しておいてあるだけで。
 ここにあいつが通ってきていたのもただの想像。
 出会いもその後に続く日常も全て、虚しいばかりの俺の頭の中だけの世界だったら。

 有り得そうで嫌になる。
 大体から、あいつの事故のニュースを聞いてからこっち、ろくに仕事に手がつかない上、食欲もない。寝不足で頭も痛いし、毎日がなんだかふわふわと夢の中の出来事のようだ。
 帰宅して一人のアパートに戻れば、ぼうっとして気がつけば泣いている。
 手には俺のサイズじゃないコートを握っている。
 俺の記憶では、これはあいつのコートだ。殆んど俺の部屋に自分のものを置かなかったあいつが、唯一忘れていったもの。今はもう夏だけど、黒いコートは数ヶ月前からずっとこの部屋にある。衣装持ちのあいつのことだからこれを忘れていっているのも気付いていないのかもしれない。
 たったひとつの残されたよすがに俺は毎日縋って泣いている。
 でもこれも本当は俺が自分で買ってきたアイテムなのかもしれない。
 けれど顔を伏せたら僅かに香る、この香水の匂いも俺の妄想なのだろうか。俺が自分で用意したものなのか?
 俺はそこまで病んでいるのか。
 そうなのだとしたら、病院にでも行かないと俺は正気に戻れないのじゃないだろうか。
 なにが正常でなにが異常なのかも分からない。



 一ヶ月が過ぎた。
 俺が随分と痩せて顔色が悪いと心配してくれる同僚に、曖昧に笑って過ごした日々。
 俺は漸く泣かずに眠れるようになっていた。
 妄想なのだと、そう思えば少しずつ気が楽になっていたのだ。
 芸能ニュースは最初の頃こそ、あいつの容態などを細かく報道していたが、最近ではそれもなくなり意識が戻ったのかも分からない。人気俳優とはいえこうやって少しずつ世間から忘れられて行くのかと思うと悲しい。
 けれどそうして世間から騒がれなくなっていくにつれて、俺もあいつのことを忘れていくようになった。全ては夢の中の出来事のように、現実味は失せて行き、あの身も千切れそうな悲しみも薄れていった。
 俺があいつの恋人だなんてただの妄想だ。だからこの悲しみも苦しみも、単なる思い込みに過ぎない。思い込みで食欲をなくしたり眠れないなんて、馬鹿みたいだ。
 試しにかけてみた電話は相変わらず不通で、メールもやはり全くない。
 そうやって俺は漸く、安らぎを取り戻していった。



 その日は、同僚に最近体調が良さそうだと声をかけられた。
 俺も自分でもそう思うと頷いて、よい週末をと言って会社を出た。
 週末、無趣味の俺は寝て過ごすだけだ。
 せめて美味いものでも食おうと、近所のスーパーに寄って食材を買う。
 季節は真夏を過ぎて秋の味覚が目に付いた。

 二ヶ月は長い。
 こんな風に時が過ぎて行き、また冬になるのだろう。
 あの誰の者か分からないコートは、それでも何故か部屋の壁にかかっている。
 今となっては俺の精神安定剤替わりになっていて、毎晩それに触れてかすかに残っている香りを匂わないと眠れなくなっている。
 香りがこんなにも精神に直結するものだとは知らなかった。
 このコートもそのうち香りが消えていくのだろうが、その頃には俺のこのわけの分からない精神状態も少しはまともになっているだろう。そう願いたい。

 スーパーの買い物袋を持って帰宅して、俺はそのコートを見つめて少し溜息を零した。
 本当に、誰のものだろう。
 俺が着てみても大きすぎて滑稽だったそのコート。でも手触りは最高で、上質のものだと知れる。俺の給料でこんな上等のものを果たして買えるだろうか?
 徐々にクリアになってきた思考回路で最近はそんなことを考えるようになってきていた。
 おまえはいったいどこから来たんだろうな。
 コートにそんな風に語りかけて俺は夕飯の支度をする。
 二人分ある食器も今は目を瞑る。
 全ては夢で妄想だ。
 これらはそのための道具。ままごと遊びのための玩具のようなものだ。

 俺はそう、きっとそのくらいにはおかしかったんだ。
 ちょっとばかり異常だった。
 夢を食って生きていた。
 でもそれで幸せだったのだから、良かったのかもしれない。
 その夢のもとであるあいつが事故で死にそうだと知ったことで、その幸せの由来が足元から崩れて、俺の夢は幸せではなくなった。
 辛くて悲しくてたまらなかった。
 けれど、所詮は夢だ。
 夢なのだから、覚めればそれまで。
 うたかたのように消えて、後は無が残るだけ。



 と、不意に部屋のチャイムが鳴った。
 俺はガスコンロの火を止めて、手を洗ってインターフォンに出た。
「はい」
「俺、開けて」
「え?」
「俺だよ。ねぇ、ずっと連絡できなくてごめん。携帯壊れて、今日やっと抜け出してきたんだ」
「……誰?」
「その足でここに来たんだ。怒ってる? 本当にごめん」
「あの。どちら様ですか?」
「だから、ごめんなさい。謝らせて。開けて顔を見せて」

 これは誰だ。

「怒ってるよね。そうだよな。俺が馬鹿みたいに独占欲出さないで、マネージャーにでもあんたの連絡先教えてたら良かったんだ」

 扉の向こう、誰かの気配がする。

「意識が戻ったのは十日前だったんだけど、動けなくて」

 耳に馴染む声。

「ねぇ開けて。ずっと会いたかったんだ」

 また俺は馬鹿な妄想をはじめたのだろうか。
 それを確認したくて、震える指先で鍵を開けて、扉を開いた。
 すると扉の向こう、廊下の暗がりから伸びた両手が俺の身体を攫うように抱き締めてきた。

「ひっ」

 驚いたのはつかの間、一瞬で俺を包んだ香りにざわりと全身が慄いた。
 それはコートと同じ香りだった。
 夢でも妄想でもない、ただひとつ確かだったもの。

「あぁ……ずっとこうしたかったんだ」

 耳元で吐息のように囁く声に、不意に目頭が熱くなる。

「愛してるよ。だからやっぱり一緒に住もうよ。あんたのもの、もう一杯俺の部屋にあるんだ。合鍵今度こそ、受け取ってよ」
 嫌だとはもう言わせないと、俺をぎゅうぎゅうに抱き締めてそんなことを言う。
「俺は今度の事で思い知ったね。あんたがどれだけ俺を疑っても一線引いてても、もう構わない。俺は本気だし、あんたを失いたくない。ねぇ、その涙を俺はあんたの本当の気持ちだと思ってもいいんだろ?」
 気がつくと俺はぼろぼろと涙を零して、目の前の肩をびっしょりと濡らしていた。

 俺はまた幸せな夢を食う。
 これが妄想で、俺がとうとう本気で狂ってしまったのだとしても、この夢をもう失いたくなかった。

「ああこんなに痩せて。本当にごめんね。二ヶ月もあんたを独りにさせて」

 自分の方がよっぽど痩せて今にも倒れそうな風情なのに、切ない声で全力で俺を抱きしめる腕。
 たった二ヶ月の猶予も俺には無意味で。
 この幸せな夢は、俺の全身を蝕んでもう完全に手遅れなのだ。

「ほら、もうそんな泣かないで。俺はここに居る。もうあんたを独りにしないから」



 俺は恋人の誠実を信じて疑わない。
 この夢を死ぬまで見続ける。

2009/07/13 オリジナル