50題 色は匂えど
44. 歪みと撓み
「あんた死になさいよ」
身に覚えのない殺意に視線を上げると目の前には、見たこともない女性がいた。彼女の持つ包丁はその切っ先が激しく震えていて、それを握り締める力が強すぎることを教えている。
ちょっと近所のスーパーにでも行こうと思って、マンションの玄関扉を開けて、一歩外に踏み出した矢先のことだった。
姿勢を正して改めて女性を見下ろす。
「なんでですか?」
首を傾げると、彼女は一瞬で苛立ったらしく形相を変えた。
「邪魔なのよ! あんたが居る限りあの人は自由になれないじゃない!」
叫ぶヒステリックな声。
見当はついた。
彼は時折、こういうタイプを惹き付ける。
それは彼の所為ではないし、思い込みの激しさから刃物を握るような方がおかしいのだから、悪いのはこういう人間。目の前で、全く見知らぬ者相手に刃物で脅しをかけるような卑怯者。
「意味わかれへんわ」
小さく溜息混じりに吐き捨てた。それから今にも包丁ごと自分に体当たりをかましてきそうな相手を見据える。
「それで? あなたは私を殺すつもりですか」
「違うわよ!」
じゃあその包丁はなんだ。
「これは非常手段よ、武器よ! もしもあんたが私の言う事を理解しなくて、抵抗した時のためよ。それに、こう言うものがあれば私の言葉も真剣に聞くじゃないの」
「さっき、死ねと言ったんやないんですか」
「ただの気持ちよ! 本気のわけないわ!」
じゃあその包丁は冗談か。突っ込みどころは満載で、関西人らしくツッコミたかったがこの手は言葉のあげ足を取ると、逆上するから扱いに困る。
「という事は? 死にたくなかったら、私にどうしろと」
「何処かへ行って。引越しして。二度とあの人のそばに近づかないで。顔を見せたらダメよ、声もダメ」
「手紙は?」
「ダメよ!」
「あいつの方から、連絡をしてきたらどうするんですか」
「断って」
「偶然会ったり、待ち伏せされたら?」
「走ってそこから逃げて」
「知人を介されたら?」
「察知して」
それ、なんのコントやねん。
内心で激しくツッコミながら眉をひそめる。
「それ、全部断ると言ったら、あなたそれで私を刺すんですか」
「断らなかったら刺さないって言ってるじゃない!」
「ほな仮に、私が彼の前から姿を消したとして、それで彼が自由になったんだとして、あなたはそれで満足するんですか」
「そうよ!」
はっきりと言い切った。その態度に、無性に苛立ちを覚えた。
「自由んなったからと言って、彼があなたに感心を向けることなどないでしょうが」
途端に目前の顔が、みるみる赤くなりその表情が更に険しくなるのが分かった。
失言だったと直ぐに後悔したが、口に出してしまったものは引っ込めようが無いものだ。なので、開き直ることにした。
「あいつは誰のもんでもない。あいつだけやない、世の中は全部、簡単には誰かの思い通りになるもんやない。そんな卑怯くさいもんで誰か脅して言うなりにさせよやなんて、阿呆かっちゅうねん」
「な、なんですってっ…」
ヒステリックな声を上げて再びまくしたてようとしている、真っ赤な唇を、だが声を被せて遮った。
「誰かを手に入れよ思たら、もっと上手くやらんと」
そしてバン! と扉を手のひらで叩くと、彼女がびくっと震える。
「しかも相手が一筋縄でいかんようやったら、尚更慎重に、時間かけんと……そらもう、大学の頃からどんだけ頭使こたんやろか分からん」
「…何を言ってるのよ」
「やから、俺とあいつの間に、あんたの入り込む隙はない。おかげで俺はもう、ずーっとあいつの傍におる。そらどんだけの執着やろな。今、あんたが俺を脅して引き離したかて意味が無いと思う。どうせ直ぐ元通りやわ。……やから帰れや」
「なっ……」
不意の低いドスのきいた声に、彼女は絶句して包丁を持つ手を震わせた。
本当にここで刺されるのかもしれない。それならそれで、自分と彼の間にある激しくも強固な執着を断ち切れるのかもしれない。果たしてそれが幸福なのか不幸なのかは分からないけれど。
しかし彼女は絶句したまま、何故だか怯えるようにして後退り、とうとう廊下をかけて派手にヒールの音を響かせて階段を降りて行ってしまった。
「なんや、根性のない」
溜息を零して、開いていた扉を閉める。そして、途端にがくがくと震える足でそのまま玄関に膝をついて、四つん這いの姿勢でへたり込んだ。
「あぁもう、寿命縮んだ……なんでこんな目に合わなあかんねん」
深く、深く吐息をこぼす。
そもそもが、違うのだ。
どれだけ脅されても意味がない。引っ越しても、身を隠しても、たとえ何処へ逃げようとも、必ず見つけ出されてしまう。本当に引き離したければ、向こうを説得しないことには難しいだろう。
なにしろあんな執着は無い。
気付いた時にはすっかり絡め取られていた。
もうアリスには逃げ出す術はない。
あの天才的な男が全力で執着してきているのだ。どんな手を使ってでも、もう無理だ。しかも囚われているのは身柄ばかりではなくて、精神的にもアリスはすっかり雁字搦めだ。
身も心も、あの魅力的な男に完全に降伏している。
それこそ他人の入り込む余地など、まるでなく。
向けられる歪んだ愛情を、いまや喜んで受け入れている有様だ。
こんな横槍で多少撓んだとしても、直ぐに修復されるだろう関係だ。
「文句のひとつも言ってやらんと割りに合わんけど、まぁひとまずは通報やな。えーと電話電話ーっと。マンションのカメラに姿映ってるやろなぁ」
ともあれ自分たちの関係とは別に、犯罪者を野放しにはできない。銃刀法違反に脅迫である。そして通報は市民の義務だ。
「あ、もしもし?」
どうせ警察から話が直ぐに伝わって、今夜にでも来るはずだろうと、知り合いの刑事に話しかけながら、思うのだった。
2010/08/16 火アリ