50題 色は匂えど
45. もう戻れない
目が覚めると、横にはカミューが眠っていた。狭い寝台の上で窮屈そうに肩を竦めて眠っているのは、マイクロトフがその身体に抱き着くようにして身を寄せているからだ。
よりにもよってこんな一人用の寝台で、平均よりも大柄な男二人が熟睡して過ごせたものだと感心した。尤も、寝苦しさも問題にならないほど疲れていたのだ。
故郷であるロックアックスを離れて、同盟軍の本拠地にやってきたのはつい昨日のことだ。軍主の少年自らにこの空き部屋まで案内されて、二人で使ってくれと言われた時には、少年があまりに申し訳なさそうな顔をしていたから、思わず笑った。
気にしないでくれるように、別に外で天幕を張って雑魚寝でも構わないのだと言うと、尚更恐縮されて参った。
寝台はひとつだけだったが、毛布は二人分渡されたから、マイクロトフは床の上で寝るつもりだった。寝台はカミューに譲る気でいたのだ。しかし夜になって事情が変わった。どこから持ってきたのか、マチルダ産のワインのボトルを見せたカミューは、寝台に腰掛けてマイクロトフも横に座るように言った。
グラスなどない。だからボトルに直接口をつけて交互に飲んだ。飲みながら、色々と話をした。
マイクロトフの行動は本当に突発的だったこと。
カミューの行動は実は前々から考えていたことの実行だったこと。
マチルダ騎士団の行く末。
同盟軍の内情。
ハイランドの狂皇子率いる白狼軍の軍力。
小さな部屋で、遅くまで小さな声で話をし続けた。真横に座っているから、大声は必要なかった。ともすれば部屋の外の遠いどこかを歩く歩哨の兵士の足音が聞こえてくるような環境では、それで充分だった。
それが、某かの意識に作用したのだろうか。
蝋燭の芯が焦げる些細な音さえ聞こえる静寂の中で、淡い灯火を映すカミューの琥珀の瞳が妙に美しく見えた。
あの時、カミューは何を言っていたのだろう。確か、真面目に戦況などを語っていたのではなくて、他愛もない話に脱線をしたところだった。体重をかけるだけで軋む床板を、この騎士団の軍装の、金具を仕込んだ軍靴では容易に踏み抜いてしまいそうだと笑った時だったろうか。
深夜だから口の端を綻ばせる程度で、そんな微笑を浮かべてカミューは言ったのだ。
おまえは意外に静かに歩くから、だいじょうぶだろう。
その性格で荒々しく歩くのだろうと印象をもたれやすいマイクロトフだったが、実際にその所作は静かで無駄がなかった。紳士的な教育を施されるマチルダ騎士団にあって、それは当然の事なのだが、大声で熱血の印象とは裏腹だから大勢が誤解をしている。
けれどカミューは当たり前のように言うのだ。
おまえは乱暴なようだけれど、いろんなものにやさしい。
そう言って微笑むカミューのほうがずっと、静かで、そして優しいと思った。
そしてその時、美しく孤を描く唇が急に欲しくなって、マイクロトフは無音で腕を伸ばすと、カミューの柔らかな輪郭の頬に指先で触れた。
顔を寄せてもカミューは逃げるでもなく、そっと重ねられた唇も強張りを見せずに受け入れてくれた。
それがとても不思議な反応のようでいて、しかし頭の隅ではそれが自然なのだと納得している自分もいることに、マイクロトフは驚いていた。
そしてそのまま体重をかけて寝台にもろとも倒れこんでも、カミューは拒絶をしなかった。
いいか。
小さな声でそう問うと、カミューはまた小さく笑って言った。
おまえが、わたしにもやさしいのなら良いさ。
咄嗟に、当たり前だと思って少しだけムッとしたら、それが伝わったのかカミューはまた笑った。
夜は尚も更けて、ますますしんと静まり返った気配の中で、声は潜められたまま身動ぎする音と寝台が軋む音だけがしていた。
それでも深く繋がることはせずに、そのまま身を寄せ合って抱き合うように眠りに落ちたのは朝方も近く。けれど離反で高ぶっていた精神は奇妙なほどに落ち着いていて、この数日味わったことの無いほどの熟睡を得られていた。
陽はもうすっかりと、世界もこの小さな部屋の中も明るくしていて、いつのまに燃え尽きたか蝋燭の溶けた名残だけが、長かった一晩の出来事を訴えているようだった。
外からは本拠地全体が起き出している、早朝特有のざわめいた気配がしている。
マイクロトフはそっと起き上がると、素肌を朝陽に晒して、ぐんと背伸びをした。
日課だった早朝の鍛錬をしよう。
何気なく思った事に、苦笑する。何処へ行っても変わらない自分に少しばかり安心をした。
けれど振り返れば、やっと手足を伸ばせて寝苦しさから解放されたカミューの、穏やかな寝顔が有る。
マイクロトフはふっと吐息を零して、服を着ると剣を持って部屋を出た。
自分の中でいつの間にか、もう戻れないことよりも、今後のことに重きを置いているその変化に、気付いた。
2007/04/07 青赤