ふれるとあたたかいのに


 熱を出した。
 原因はおそらく昨日の帰り道にあった妖怪。不意をつかれてぐるりと身体にまとわりつかれた。冷やりとした感触に一瞬で体温を奪われたような気がして、すぐにニャンコ先生が追い払ってくれたので大した事はなかったけれど、悪寒はなかなか去ってはくれなかった。
 結局寒気は消えずに朝になって起き上がれずにいると、心配した塔子さんが体温計を持ってきてくれて、今日は休むことになってしまった。布団をもう一枚重ねられて、首にはタオルと脇には保冷剤。
 塔子さんも最初はおれを病院に連れて行こうとしてくれたが、寝ていれば治るからと言い張って、だったら絶対安静で大人しく寝ていなさいと言いつけられてしまった。どちらにせよ熱が高すぎて動けなかった。
 そして、枕元で先生が間抜けだのなんだのとブツブツぼやく声を聞きながら、おれはゆっくりと眠りに落ちていった。



 熱があると良く悪夢を見る。
 幼い頃に、正体のわからないただ怖いと感じるものに追われて、あてのない場所へ向かって必死で走っていた時の事を、夢の中で追体験する。
 夢の中では恐怖心も走る息苦しさも足の痛みも、全てが増幅されていて、おれは今にも足をとられて恐ろしい何者かに完全に取り込まれてしまうのではないかという思いに囚われていた。
 けれどもつれそうな足が突然宙に浮いた。
 足場が無くなって落ちる、と恐慌に陥りかけたおれはけれど、すぐに身を包んだぬくもりに、はっと息を吸って目を瞠った。
「あ……」
 目覚めるとそこはいつもの部屋の中。布団は少し乱れておれの身体は斜めに飛び出していた。全身をびっしょりと濡らす冷や汗は不快で、激しく耳奥まで響く鼓動も酷い。けれども。
「せんせ…い?」
 寝床から這い出したような格好のおれを、布団の代わりに包み込んでいたのは斑の大きな身体だった。美しい毛並みはふわりと暖かくて乾いた匂いがしている。
 おれは先生の毛並みにしがみつくようにして冷えて重い身体を預けて、ほっと力を抜いた。
 先生は何も言わない。ただ寄せた肌からじんわりとしたぬくもりが伝わってくるだけだ。
 普段から、おれのもとには様々な妖怪が訪れる。名を返してもらいたいものから、友人帳を奪いにきたもの。そしてただの興味だけでおれを見にくるものまで。
 大抵は自分で応対できるものだし、危なすぎる奴はなんだかんだと言いながら先生があしらってくれる。けれど、こうしておれが寝込んだりして弱っている時は、本当に危険な奴が来ることもあるらしい。
 大抵はおれの知らない間に先生が追い払ってしまって、本当のことは知らない。でもこうして斑の姿に戻って、このこじんまりとした部屋の中で身を丸くして収まっている。それだけで何も言わなくても分かる気がした。
 あたたかい先生の姿。
 他の人には見えないし触れもしない、あやかしとしての先生の本当の姿。
 こうしてふれるとあたたかいのに、見えない人にとってはそこに存在しないも同然のぬくもりに、おれは縋って眠る。
 斑の姿でいる時は、強烈なその気配とおれには感じられないにおいとで、藤原家の敷地全体に張り巡らせてある結界以上に、効き目があるらしい。小物は当然近寄ってこないし、大物でも警戒して闇雲に襲ってはこれなくなるらしい。
 でもそれは同時に先生を、穏やかな日常から遠ざける行為でもある。
「……先生、ごめん………ありがとう」
 かすれた声で囁くと、先生の身体がもぞりと動いておれを布団の上にぐいぐいと押しやる。流石に獣の肢では掛け布団をかけてはくれなかったけれど、それ以上にあたたかい先生の毛皮に包まれて、おれはまた夢の世界へと戻っていった。

 夢の中でおれは、今度は草原に寝転がっていた。柔らかな陽射しを受けてさやさやと風が髪をそよがせる。そばにはニャンコ先生がいた。丸い姿をもっと丸くして鼻からぷーぷーと音を立てて眠っている。
 おれはふふ、と笑って腕を伸ばすとそんな先生を抱き寄せて、胸にしまいこむようにしてまた目を閉じた。すると胸元からじんわりとぬくもりが広がっていくのが分かる。ああ、本当にあたたかい。



 次に目覚めた時、おれの身体は随分と軽くなっていた。熱も下がったのか、息苦しさも楽になった。
「あら貴志くん、起きたの」
「……あ」
 塔子さんが枕元にいて、次いでピッと電子音が響いたかと思うと、おれの開いた胸元からいつの間にか脇に差し込まれていた体温計が引き抜かれた。
「うん、だいぶ下がったわね。これならお昼ご飯も食べられるかしら」
 おじや作るわね、と言いながら彼女の手のひらがさらりとおれの額を撫でていく。柔らかくあたたかなその感触に、何故だか瞬間的に泣きそうになった。そんなおれに気付いたのかどうなのか、塔子さんは微笑んで部屋を出て行く。

「先生」
 呼ぶと、ぐるると獣が喉を鳴らす。
 おれは手を伸ばすと部屋の隅へと寄っていた先生の、そのふさりとした尻尾を掴んだ。
「ずっとそばに居てくれたんだな」
 くすくすと笑いながら言うと、その大きな姿がぽわんと煙に巻かれて小さな身体へと変化する。掴んでいた尻尾は消えて、かわりにつるふかの毛並みでするりとおれの手のひらに擦り寄ってきてくれた。
「ふん。おまえがうんうん魘されておったからな」
「そうか」
 おれはそのままニャンコ先生の身体を掬い上げると、夢の中と同じように胸の中に抱き込んだ。
「あったかいな先生」
「こら、くすぐったいぞ。ふひゃひゃひゃ!」
 頭をぐりぐりと擦り付けると、腕の中で丸い姿がじたばたともだえた。そうしてしばらく遊んでいたら、襖がとんとんと叩かれて塔子さんが入ってきた。
「おじやできたわよー。あらあら、仲の良いこと。でもまだちゃんと治りきっていないんだから、大人しくしてね」
 お盆に載った小さな土鍋。まだ湯気をふわふわと立てたそれからは、炊いた米の甘い匂いがする。ありがとうございます、とお礼を述べて布団の上に起き上がる。

 夢から覚めてみれば今、幸せなぬくもりのにおいは日常に溢れていた。



END



初、斑+夏目です

2011/01/15