「アメリカ・ジャーナリズム報告」/立花隆/84年、文春文庫

◇米国と日本のジャーナリズムのあまりの違いには愕然とするばかりだ。PRESSを「報道」でなく「出版」と誤訳した日本国憲法二十一条から始まり、 国家公務員法を最大のガンとする。その中に身を置くものとして、日本の「楽さ」を享受しているだけに、正論では実力主義の米国ジャーナリズムこそあるべき姿と思うが、考えさせられてしまう。意見とファクトを完全に分けているワシントンポスト。日本はそこが曖昧なうえに、若手はファクトだけを追うという年次主義、年齢的分担があるおかしさが明白となった。米新聞で導入が進んでいるというオンブツマン制度はすばらしい。日本ではあり得ないだろう。セミプロになる能力こそ最低限の記者としての能力、という立花氏の考えは、確かにそうだ。氏が皮相だけしか伝えない日本の新聞に魅力を感じず、半可通から通になるべく努力を積み重ねることこそが重要というのは、いやというほどよくわかる。仕事上、同感することが多い一冊であり、同業者に是非一読をお薦めする。

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「だいたい新聞はいつも尻切れとんぼでけしからんという批判もあるが、これは新聞には無理な要求である。新聞の第一義的な機能は、その日その日の最新のニュースを伝えることである。もし新聞が、既報の事件の後追いを熱心にやりはじめたら、新聞の本来の使命に支障をきたす。新聞の紙面は有限だし、記者の活動能力も有限だからである。この新聞のその日暮らし性からいって、新聞の取材はきわめて底が浅いものにならざるをえない。記者本人はいくら丹念な取材をしようと思っても、締切時間がそれを許さない。…事件記者の締切が三時間後なら、彼(雑誌記者)の締切は三日後である。」

「裁判では、直接体験者の証言のみを証拠として採用し、伝聞証拠は原則として証拠として採用しない。不確実だからである。いわんや再伝聞となったら、証拠価値ゼロである。新聞というのは、厳密に譲歩を扱う場合には証拠価値ゼロの情報が盛られたものなのである。」 

「読者の立場からすると、レポーターの真実伝達度についてのテストが必要である。しかし、新聞においては、レポーター名が明記されていないから、その新聞を包括的に信用するかどうかの選択しかできない。ブランドによる信用である。しかし、同一規格の大量生産品とちがって、新聞記事の場合は、同じブランドのものでも、個々の記事は個々の記者の手仕事の成果であるから、出来、不出来があるし、またその差はあまりにも大きい。」 

ウッドワード「ある人たちの人生の、もっとも面白い時期に、短時間だけその人たちの人生に入り込んでいって、その人たちがもう面白くなくなった時には、さっさとさよならするといった仕事ができるんじゃないかと思った」

「日本の司法制度の最大のガンは裁判の遅延である。政治・行政の根幹にかかわるような重大問題になればなるほど、司法権が十年もの時間差をもってしか機能しないために、表面的にはいかにも立派な三権分立が日本でも機能しているかのように見えるが、実際には、時間軸を考えに入れれば虚構と化している。三権の一角がいつもタイム・マシンにのって現在から消失してしまっているのである。司法制度の機能不全が、どれだけ日本の民主主義制度を偏ぱなものにしてしまっているかに国民全体がもう少し目を向けるべきだろう。」

ハルバースタム「地位の高い人から情報をとるという点についていうと、いかなる状況でも三通りの人間がいると思う。まずきわめて友好的に、何でもしゃべってくれる人。中立的な態度をとる人。そして、自己防衛のためにほとんど口を割らない人。で、まず、喜んで情報を提供してくれる人たちへの取材から始める。まずこのグループの人々から徹底的に話を聞いて、可能な限りの材料を積み重ねるわけです。それから第二のグループにとりかかる。このグループはそう簡単には話してくれませんけれども、何度も会って、第一のグループから出たいろんな材料をぶつけてゆくと、この記者は相当に関心を持って勉強しているな、と評価して口がほぐれることがあるのです。こちらが出した材料を訂正する、という形で話してくれることもある。つまり、一生懸命取材をしているということで、ある程度の尊敬の念を相手が持ってくれることが少なくないのです。これはごく普通の人間の反応の仕方だと思いますが…。」 

「ジャーナリストになれる条件を人に問われたら、私は即座に、シニカルにではあるが、それは何事についてもすぐに半可通になれる能力であると答える。実際、その能力がなければ、ジャーナリストはやっていけない。問題はそれからである。半可通から通になるべく努力を積み重ねる人と、半可通のままで満足する人との間で大きな差がでてくる。素人から半可通までの距離は近いが、半可通から通までの距離はすさまじく遠い。」 

「しかし現実には、日本のジャーナリズムでは、半可通の記者で立派に通用するし、そういう記者が大部分である。特に新聞報道では、メディアから記者に期待されているのは、現実をえぐることではなく、現実の皮相を伝えることでしかないからである。」 

「国会で演ぜられていることの大部分はサル芝居なのである。これは私がジャーナリズムに入ってさまざまの社会の裏面を知ることによって得た驚きのうちでも、最も大きな驚きのひとつだった。悲しいことにはこの事実を、いささかでも政治の裏側を知っている人で否定できる人はいないだろう。国民はそのサル芝居の直接の観客ではない。すべて報道を通じてその芝居を見ているのである。そしてそれが芝居であるとは夢にも思っていない。」 

「アメリカの新聞の場合は、通信社の仕事は通信社にまかせ、新聞はいわば第二報をカバーする立場にたつ。…日本の新聞社のように、いつ発生するかわからないニュースを落とさないようにするために、記者クラブにベッタリ貼り付けになっているような記者はいない。」 

「日本の巨大新聞のワイヤ・サービス・メンタリティには幾つかの要因がある。1つは機構的に通信社と同等以上の全国自社取材体制を完備させており、日本の巨大新聞社は外国の通信社と新聞社双方の機能をあわせ持つ組織になっているからである。以前からその傾向はあったが、1952年に朝毎読三大紙が共同通信を脱退してから、その傾向はいよいよ強くなった。通信社と新聞社の分業体制がない。」 

ブラッドリー「ケネディが現れた時には、ケネディはほんとうに新聞が好きな最初の大統領だといわれておりました。彼は新聞記者たちをたいへん好み、また新聞記者たちもケネディを気に入っているという相愛の関係にあったわけです。…ケネディ自身は新聞記者たちと一堂に会してひざを交えて話し合うことを非常に楽しんでいました。…ニクソンは新聞記者嫌いだった。」 

ブラッドリー「私は生来、意見よりファクトのほうに興味があるたちでしてね、ニュースを追うのが生きがいです。『どうあるべきか』を語るより、『どうあるか』『どうなるか』を伝えるほうが面白い。」 

ブラッドリー「『ワシントン・ポスト』の場合には、過ちを犯したことを認める訂正記事を必ず同じ場所に載せることにしております。」 

ブラッドリー「約八年ぐらい前に、当社ではオンブツマンの制度を導入しました。このオンブツマンの制度というのは、新聞の内部において読者を代表することにあるます。オンブツマンは我が社の中に事務所をもっていてワシントン・ポストを内部から批判するわけです。彼は自分のコラムを使って、内部から新聞を批判するんです。…オンブツマンを雇い入れるのは私ですが、五年間の契約で雇われていますから契約期間中は私といえども彼をクビにすることはできません。…読者が手紙を書いて記事についての苦情を申し立てると、このオンブツマンが苦情を受けて調査をする。…これが新聞社と読者の間の信頼感を形成する一歩だと私は考えています。…全国ではだいたい15ないし20の新聞社がこの制度を使っているでしょう。」

「アメリカでは一紙しかない百万部新聞が日本では肩を並べているのに対して、日本ではなきに等しい百万雑誌がアメリカには五十五誌もある。アメリカではナショナル活字メディアは雑誌であり、新聞は地方メディアなのである。」 

「ニューヨーク・タイムズは、アメリカ随一のクオリティペーパーの名声を持ち、全米各地に散在するエリート層の人々にとっては、必読紙である。」 

「アメリカの新聞は一般に財政の7、80%を広告に依存している。…広告主があまりに多数であるために、その1つ1つの経済的比重はそれだけ小さいものになる。」 

「日本人に職業をきくと、必ずその所属企業を答え、アメリカ人にきくと、その職務を答える。」 

「UPIのメリマン・スミス記者と、APのジャック・ベル記者のケネディ暗殺の場面での争いが有名である。二人はケネディ大統領の自動車パレードに、同じ報道陣用の車に乗って参加していた。銃声が聞こえたとたん、スミス記者は、その自動車に備え付けの無線電話機を取り上げて、ただちに口頭で本社に至急報を送った。そしてそれを送り終えると、競争相手に無線電話を利用させないため、電話機を胸にかかえこんで、ダッシュボードの下にうずくまってしまった。APのベル記者のほうは怒り狂って、スミス記者をひっかいたり、殴りつけたり、蹴飛ばしたりしたが、スミス記者は断固として電話機を離さない。こうしてUPIはこの世紀の大ニュースでAPを抜いたのである。同じスミス記者は、病院でケネディの死亡が確認されたときも、ただちに病院の公衆電話で第一報を送り終わるとそのコードをひきちぎって、APを妨害している。…スミス記者はこのケネディ暗殺の第一報でピューリッツアー賞を受けることとなったのだから、姑息な競争相手もバカにできない。」 

「アメリカの自由な新聞のバックボーンとなている憲法修正第一条であるが、実をいえば日本の憲法にも同じものがあるのだ。アメリカ憲法に範をとって作られた日本の憲法には『権利の章典』がほぼそっくり生かされており、言論の自由を定めた憲法二十一条は、修正第一条より明確な表現で、『言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する』と述べている。…最大のガンとなっているのは、ウッドワードとの対談を読まれた方はお気づきと思うが、公務員の守秘義務を定めた、国家公務員法であろうと思う。実は、アメリカでもこれとそっくりの法律を、新聞に手を焼いたニクソンが、ウォーターゲート事件で追及を受けている最中に、刑法改正案として国会に提出したことがある。幸い、間もなくニクソンは失脚して、この法律は流産したが、…」 

「日本語訳は、『出版の自由』としたが、これはPRESSの原義を正しく解すれば、『報道の自由』と訳さなければならない。『出版の自由』と『報道の自由』では、まるで意味が違ってくる。」

筑紫「当時『朝日ジャーナル』の副編集長だった私は、田中公判の傍聴記連載を依頼することを思い立った。…立花氏が試みているような『タスクフォース』を率いて、個人と組織を組み合わせた作業方式は過渡的実験として十分な意味があると私は思っている。」