「超・整理法」/野口悠紀雄 /93年、中公新書
◇野口氏は、面倒くさがりやでマニアックな合理主義、完璧主義者だと思う。この本の意義は、誰もが何となく思っていた合理的な整理の方法について、根拠のある裏付けにより具体的な形にして答えを提示したことにある。その意味で本物の「スクープ」だ。新たな理念を打ち出し、多くの人の日々の生活を向上させた歴史的著作と言えよう。人間を、もともと怠惰なものと捉え「うまくいかないのは生徒が悪いからでなく、先生の教えがまちがっているからではないか?」と考えるところが私に似ている。アイデア創出法も秀逸だ。仕事は短期間に集中して効率的にすませ、遊ぶための時間を作り出す。遊び時間には新たな発想も生れやすい。超整理法やアイデア創出支援システムの目的を、ここに置いているところにはまさに共感する。 時間という現代人の共通の悩みに説得力のある理念と政策を提示した野口氏に尊敬の念を抱かずにおれない。<こうもり問題><家出ファイル>などのキーワードを創作、文章も分りやすく、ポピュラリティ・エンタテイメント性との両立も果たし伝達能力にも極めて優れている。野口氏こそ、本質的な意味のジャーナリストと言って良いのかも知れない。
・時間に関する記憶と場所に関する記憶で全く異なるのが人間の脳で、時間に関しては覚えている。
・イタリアの経済学者パレートの「2ー8法則」
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「<君の名は>シンドローム 正しい分類項目に入れても、どこに入れたかを忘れてしまうことがある。どんな項目をたてたかさえ忘れる。」
「一般に、『解が存在する』ということが分りさえすれば、その具体的な内容を見出すのは、さほど難しくない。たとえば、原子爆弾の開発でもっとも重要な情報は、『原爆が製造可能』ということであった。…入学試験問題には、必ず解があることが分っている。しかも、さほど複雑でない解が。しかし、世の中には、解けない問題もあるのだ。受験勉強の弊害がさまざまに指摘されるが、一番大きな弊害は、すべての問題に正解があると思いこんでしまうことだと思う。」
「そもそも、ある問題に解があるのかいなかを知るのは、実に重要なことである。錬金術、永久機関の発明になんと多くの無駄な努力が費やされたことか。そうした労苦のはてに、人類は、これらが不可能であることを知った。情報の分類も同じだ。『情報を分類できる』との考えは、錬金術を求めるようなもので、不可能の追及なのである。」
「『整理のための整理法』ではなく、『整理より重要な仕事を持っている人の整理法』が必要なのである」
「要は、muddling throughする(なんとか切抜ける)ことである。必要な情報が、失われず、何とか出てくれば、それでよい。完璧で美しいシステムを作る必要はない。」
「すべての情報を時間軸に並べ、時間軸をキーとして検索を行うのである。これによって、分類の悪夢から逃れることができる。私は、これを、ギリシア神話の英雄テセウスに迷宮ラビリントスから脱出する方法を示した『アリアドネの糸』になぞらえたい。」
「革命とは、世の中にまったく存在していないことを実現させるのではなく、人々が漠然と意識していたことを顕在化させることである。とくに、従来はネガティブな評価が与えられていたものに、積極的な意義を見出すことである。」
「置場所を1カ所に限定するというのは、きわめて重要なことだ。これを『ポケット1つ原則』と呼ぼう。」
「時間的な前後関係が明確なのは、1つには、因果関係による。たとえば、試験問題のファイルは、その採点記録ファイルより古い時点にある。また、人間の記憶が、脳の中で時間順に並んでいることとも関連しているようである。前に『場所に関する人間の記憶はあやふや』と述べたが、それと対照的に、時間順に関する記憶はきわめて正確である。時間に関する記憶と場所に関する記憶で、このように大きな違いがることは、特筆すべきであろう。私は、序章で、時間軸検索を『アリアドネの糸』になぞらえた。これには、『(情報の)迷宮から脱出する手段』という意味とともに、『記憶の糸をたどるようにして目的物にたどり着く』という意味も含ませている。」
「1月に数回は、過去数年間に一度も使わなかったファイルを検索する必要が生じる。数年間の濾過過程をくぐりぬけて残された、という意味で、私はこのカテゴリーの書類を『神様』と呼んでいる。」
「押出しファイリングでは、家なき子は事実上皆無である。このことが、仕事全体で考えた平均アクセスタイムを大幅に減少させる。」
「講義やゼミナールでの学生の質問ぶりをみていると、すべての学生が同じように発言しているわけではないことに気が付く。よく質問する学生は決っていて、全体の2割くらいである。そして彼らの質問が全体の8割を占める。『世の中の現象は一様に分布しているのではなく、偏った分布をしている』。これは、所得分布に関して、イタリアの経済学者パレートが100年ほど前に発見した法則である。つまり、2割の人々の所得で、社会全体の所得の8割程度を占めるのである。その後、類似のことが多くの対象に成立つことが分り、パレートの法則は、品質管理で広く応用されることになった。これは、しばしば『2ー8の法則』と呼ばれる。たとえば、車の部品のうち故障しやすいのは部品全体の2割程度であり、これで故障全体の8割を占める。商品の品質特性はきわめて多いが、そのうち消費者が問題とするのはわずかなものにすぎない。このため、消費者からのクレームの8割は、2割の特性に関するものである…等々。この場合、部品や特性のすべてに平等に対処するのではなく、重要な2割のものを重点的に扱うべきである。簡単な計算からわかるように、これによって、能率が実に4倍になるのである。これほど簡単な法則の応用で、これほど顕著に能率を上げられるのは、驚くべきことといえよう。パレートの法則を書類に応用すれば、『すべての書類を満遍なく使うのでなく、使う書類の8割は全保存書類の2割に集中している』はずである。押出しファイリングは、この法則を応用して検索の能率を高めている。通常の方法では、すべての書類を平等に扱うどころか、重要である2割の書類が『家なき子ファイル』や『家出ファイル』となって机の上に散乱しており、適切な扱いを受けていない。…さて、本の読み方にもパレート法則が応用できる。1冊の本の中で重要な部分は、全体の2割ぐらいである。そして、ここに全体の8割の情報が入っている。」
「設計者の恣意的な判断で余計なものをつけると、使用者はそれに束縛される。余計なものが一切ない、最低の機能に特化したものがもっとも使いやすい。」
「住所録、マニュアル、説明書類などについても、例外を一切作らず、他の書類と同じポケットに入れるほうがよい。重要なことは、角2の入物に入っていることだけである。私は、パスポートも、このシステムに入れてある。…『重要なものを隔離して、見えないところに収納する』というのは、動物でも行っている本能的行動だ。人類は、現在にいたるまで、この本能を引きずっている。しかし、文明的生活を享受できる人間にとっては、この本能は、もはや必要ない、現代人は、『重要なものほど目につく場所に置く』という原則に従うべきなのである。」
「ギリシア神話に出てくるシジフォスは、神の刑罰によって岩を山の上まで運び上げるのだが、頂上に達したとたんに岩は転げ落ち、かくして彼は無限に同じ労苦を繰返す。名刺整理のための努力も、これと同じである。」
「一般に、本は捨てられない。いわゆる『センチメンタル・バリア』が高いのである。これは、誠に不合理な感情だから、どうしようもない。」
「もっとも使いやすく、かつ供給が安定的と考えられるのは、郵便局で売っている郵便小包用の紙箱である。大、中、小とあり、『小』はちょうど文庫本が収る大きさだ。それ以外の本は『中』で収納する。」
「現代社会でパーソナルコンピュータを使わないのは、途方もなく贅沢な考えだ。それは、ジェット機で太平洋を渡れる時代に、豪華客船で、あるいは自家用ジェットで行きたいというようなものである。」
「うっかりして、Bの修正中にAを別途修正したり、B’があることを忘れてAに修正したりすると、不完全な正本が2つできてしまう。これはきわめて厄介な事故で、Aに戻ってもダメである。私はこれを、『ドッペルゲンガー・シンドローム』と呼んで、恐れている(ドッペルゲンガーとは、生きている人間の幽霊をいう)。」
「人間が一瞬のうちに把握し、識別できるのは、7個が限度といわれている、これがマジックナンバーオブセブン」として知られている法則である。たとえば、一週間は7日で、虹の色は7色である。世界の7不思議、ギリシアの7賢人、セブン・シスターズ、セブンサミッツ(各大陸の最高峰)、7大洋、ローマの7丘、7つの大罪、教養7学科、7主徳…なども同様だ。新約聖書のヨハネの黙示録は、数字7のオンパレードである。」
「ダイナミック・シークエンシャル・アクセスは、時としてランダム・アクセスよりスピードが速いことを、漢字変換が実証している。」
「手間がかからず、簡単に運営、維持できるか。仕事の一環として、本来の仕事の流れを中断せずにできるか。個人の場合、アシスタントを使わず、一人で運営できるか。ハードルが高いと、『家なき子ファイル』が出る。」
「紙の場合には、不要なものを捨てることが必要である。不要物が残存していると、検索スピードが遅くなる。また、収納庫の物理的な制約から、『家なき子ファイル』を発生させる原因にもなる。しかし、捨てる作業は後回しになりがちだ。そこで、捨てるプロセスがシステムの中に組込まれていることが望ましい。」
「整理した直後は整然としていても、使っているうちに次第に崩壊するのでは困る。通常の整理法では、誤入やファイルの家出などにより、体系の無秩序度(エントロピー)が時間の経過とともに増大していく。」
「私は、文房具については、マニアックなほど徹底的に細分類している。写真にあるような小物入れを使い、ぺん、鉛筆、消しゴム、ナイフ、はさみ、ステイプラー、クリップ、のり、テープ、ラベル、ゴム輪、電池、等々、すべて別の箱に入れてある。…私は、カタログで選んだコクヨの引出し(外がスチール)を使っている。…部屋は乱雑でも、仕事のための空間はちらからない。これは、仕事を進める上で、重要な心理的効果をもつ。」
「理想的なインキュベイター(ふ卵機)、それは知的な人々を周りに持つことだ。そして、さまざまな問題を話し合う。そこでの刺激の中から、アイディアが生まれてくる。食事をしながら、コーヒーを飲みながら、雑談をしながら、あるいは、小人数の会合で。原爆開発過程での科学者たちの逸話を読むと、きわめて興味深い。彼らがアイディアを産む場は、研究室や公式の研究発表会ではなく、旅行中の列車の中や食事のテーブルだ。重要なのは、中心人物であったテラーの周りに、フェルミやフォン・ノイマン、そしてベーテなど、超一流の科学者がいたことである。」
「しかし、残念なことに、これは誰にでも手に入るというものではない。それどころか、実は理想郷であって、普通の人にはほどんど望み得ぬ代物だ。」
「スタンダールによれば、恋愛の発展はつぎの7段階に分けられる。1感嘆、2どんなにいいだろう云い、3希望、4恋が生まれる、5第一の結晶作用、6疑惑が現われる、7第二の結晶作用。私は、アイディア生産の過程も基本的にこれと同じと思う。ただ、スタンダールの段階区分は細かすぎるので、これを勝手にまとめて、つぎの3段階にした。すなわち、1取掛かり、2ゆさぶり、3結晶過程。」
「1取掛かり これはスタンダールの第1段階から第4段階に相当する。…専門的な研究者の場合には、問題が何かを捉えるのが、全研究活動の中でもっとも重要な部分である。ある程度進んだところで、もっとも主張したい点は何かを明確にし、仮の結論、仮説を設定する。論文の要約やサマリーというものは、論文を書き終えてから書くのではなく、出発点においてすでに存在しているのである(ただし、書いている間に変化することはある)。この結論は、文字通り1言で言えるものでなければならない。…理想的インキュベイターとしての知的環境は、この段階(および、次の「ゆさぶり」段階)で威力を発揮する。何が問題であり、何が重要なテーマであるかを知るには、こうした環境がもっとも適している。」(→日本にはあまりない)
「2ゆさぶり これは、スタンダールの第5、6段階に相当する。さまざまの『発想法』が述べているのは、主として、この段階をどのように行うかである。スケッチをまとめ、メモを集めて、元の文章に追加し、全体として統一のとれた形にしていく。こうして、コンピュータの中で、メモの集まりが成長していく。つまり、『第一の結晶作用』が始まるわけだ。この過程の作業には、ワードプロセッサの柔軟な編集機能がきわめて便利である。しかし、不便な面もある。それは、論文中の離れた箇所の比較がしにくいことだ。紙をめくるようにランダム・アクセスすることができないし、2カ所を横に並べて対照するといったこともやりにくい。…ところで、スタンダールの発展段階説では、第6段階に『疑惑』という逆行過程が登場する。アイディア生産では、このプロセスを意識的にもちこむことが必要だ。…このためには、友人に話すのがよい。できれば読んでもらう。これを行う場としても、喫茶店は便利だろう。あるいは、関連する本や文献を読む。」
「3結晶過程 スタンダールの第7段階に相当する。これは、論考を結晶させていく段階であり、具体的には、机に向ってひたすら書き進む、という形をとる。この過程は、本質的に個人作業であり、孤独な作業である。だから、この段階になったら、喫茶店はやめにして、勉強部屋か図書館にこもる。論旨をいま一度確認し、他人を説得できるように理由をつけて構成する。余裕があれば、この問題を取上げた理由、他の人の意見などを述べ、最後に、このレポートでやりう残したこと、限定条件などを述べる。ある段階まで来れば、文章を繰り返し読んで修正していくことにより、論文が自動的に大きな結晶に成長していく(スタンダールのいう『第2の結晶作用』)。」
「その答えは明らかだ。つまり、彼らは、すでにその問題を考えていたのである。そして、着想の一歩手前まで来ていた。ニュートンは、リンゴが落ちるのを見てから考え始めたのではなく、すでに万有引力概念のごく近くまで来ていた。だから、きっかけは、りんごでなくともよかった。階段から転げ落ちても、同じ発想にたどり着いたはずである。つまり、問題を考えていることが重要だ、ということである。…アイディアは何もないところに突然現われたのではなく、潜在意識下で着実に思考が進んでいたのである。何かのきっかけに意識が顕在化したとき、外から見ると、たまたまアイディアが生まれたように見えるだけである。したがって、重要なのは、きっかけではなく、問題に真剣に取り組んでいたことである。」
「書く作業で最も難しいのは、『始めること』だ。イナーシャ(慣性)が大きいのである。構えてしまう。重要な仕事ほど、構える。『まだアイディアが熟していない』、『いまは身体の調子がよくない』、『雑事を片づけてから』等々のいいわけを自分で作って、着手できない。…切り貼り編集機能を用いると、どこからでも書き始められるので、文章を書き始めるイナーシャが大幅に減ったのである。あとでいくらでも直せるから、気張らずに書くことができる。だから、1行でもよいから、ファイルに書き込んでおく。それが『取り掛かり』になる。」
「シソーラスは、『類語辞典』とか『分類語いん集』などと訳されているが、日本人にはあまり馴染みのない存在である。文章を書いていて適切な言葉が思い浮ばないとき、これを用いる。たとえば、『著しく』という意味のために『very』という単語ばかり続くのを避けたい時、シソーラスを引くと、類語が1ページ近くにわたって出てくる。…英語で最もポピュラーなシソーラスである『ロジェ』のペーパーバック版は、空港の売店で売っているほど普及している。」
「シャーロック・ホームズも、しばしば事件の最中に捜査を中止して音楽会に出かけ、ワトソンを当惑させている。これらは、いずれも、自分自身との無意識の対話による『ゆさぶり』である。つまり、問題なり情報なりをインプットしたあとは、『ニュートンのりんご』が出てくるのを、じっと待とうというわけだ。私は、こうした意見に賛成である。しかし、このプロセスを意識的に行うこともできる。どうするか?私は、歩く。『頭にぎゅうぎゅうに詰込んで、揺さぶると、何かが出てくる』というイメージを持っている。『ゆさぶり』といったのは、このためでもある。歩いているときこそ、創造的活動を行っているときだ。 机に向かっているときは、それを整理しているに過ぎない。もちろん、歩く前に問題を詰め込んでおくことが重要だ。カラでは、いくらゆさぶっても何も出てこない。…歩くことは脳へ絶え間ない刺激を送ることになるので、頭が生き生き働くのだ。…こうした立場からすると、ロダンの『考える人』のポーズは間違っているように思う。私には、『考えあぐねた人』、または『疲れた人』にしか見えない。」
「ゆさぶりを意識的に行うもう1つの方法は、草稿を誰かに読んでもらうことだ。別の視点から見ると、抜けている部分や飛躍している箇所が分かり、当然と思っていた結論がそうとも限らないことが分かる。前に述べた理想的インキュベイターは、ここでも重要だ。」
「本とのディスカッションは、理想的なインキュベイターの代替物となる。『ゆさぶり』のための読書は、考えがある程度まとまってからである。場合によっては、読書によってもとの考えがまったく覆されることもあり得る。『学んで思わざるは則ちくらし。思うて学ばざれば則ちあやうし』という論語の教え(為政第2)は、いまでも、すこしも変わることなく正しい。このことは、永遠に変わらない真理であろう。「思ったあとの読書」が、ゆさぶりのための読書である。…ビジネスマンの多くが欲しいのは、発想の『ヒント』だろう。この目的で読書するのは、『取掛かり』段階のものだ。しかし、読書は、この目的のためにはあまり有効でないと思う。何を読んだら良いかが、事前には分らないからだ。ゆさぶり目的の読書は、学ぶ姿勢で読むのでなく、自分の考えをチェックするために読む。」
「人間は、思ったよりもいろいろなことを考えているものだ。ただ、それが捉えられずに消えてしまっているだけである。作業に取掛かっている時は、どんどんアイディアがでる。しかし、浮んだアイディアはすぐ消える。『こんな重要なことは、メモしなくても覚えているだろう』と考えると、大変なまちがいだ。アイディアの逃げ足は、非常に速い。」
「紙のメモで重要なのは、紛失防止である。…コンピュータ時代には、メモについても、『ポケット1つ原則』と『時間順原則』という超整理法の2原則が重要になる。」
「私流『三上』のひとつは風呂なのだが、メモがとれずに逃したアイディアが山ほどある。そこで、耐水性のあるメモ用具を探していた。しかし、適当なものが見つからない。オモチャ屋で売っている『せんせい』という幼児用のボードが使えるのではないかと思って買いにいったところ、『プレゼント用の包装が必要か』と聞かれ、『自分で使う』ともいえず、大層な包装をしてもらったこともある。」
「仕事は短期間に集中して、効率的にすませるほうがよい。そして、遊ぶための時間を作り出す。支援システムの最終的な目的は、ここにある。遊ぶ時間を十分に持つことこそ、究極的な『発想法』であろう。」
「第2次大戦前の日本では、農業就業者が全就業者の5割以上を占めていた。…しかし、現在、この状況は一変している。第3次産業就労者が全体の6割を超え、製造業でも仕事の大部分は、かつての肉体労働ではない。それに代って、企画、経営戦略立案、新製品開発、研究などの仕事の比重が高まっている。つまり、情報や知識を扱う仕事が圧倒的に増えたのである。」
「アルビントフラーは、1万年前の農業革命を『第一の波』、産業革命を『第2の波』とし、これに対して1950年代半ばからの新しい変化を『第3の波』と名づけた。しかし、80年代になってからの変化には、これとは異なる重要な要素が含まれている。それは、情報処理システムの分散化である。」
「知識資本は、金融、税制面で、通常の物的資本に比べて不利な扱いを受けている。…もちろん、これには理由がある。第一に、知識に対する投資の収益率は、不確実性がきわめて大きい。一定の金額を投資したからといって、必ず一定の収益が期待できるわけではない。無駄になってしまうものがかなりある。」
「いまやデータベースにアクセスすることで、さまざまな知識が容易に手に入る時代になった。この方向での技術は、今後、創造を絶するほどに進むだろう。誰もが労せずして博覧強記になる。だから、歴史の年代や元素の周期律表などを苦労して覚える必要は、ほとんどない。昔から知識偏重教育が批判されているが、その批判の妥当性はさらに増した。…『暗記教育が不必要』といっているわけでもない。第4章で述べたように、カラの頭からは、いかなるアウトプットも生まれないからである。むしろ、学校教育の年代にできる限りの詰込み教育をすべきだと、私は思う。ただ、詰め込むべき内容が不適切ではないかというのが、私の主張である。」
「ゆとり教育を主張しているのでもない。…遊びこそ発想の究極の源泉だと述べた。しかし、遊びのための時間は学校教育の授業時間を減らすことで生み出せるものではない。…遊びの時間はもともと与えられるものではない。窮屈なスケジュールの中から作り出してこそ、価値が実感できる。」
(あとがき)
「ただ、私は、ひねくれた劣等生だった。うまくいかないのは、生徒が悪いからでなく、先生の教えがまちがっているからではないか?」