「カリスマ(下)−中内とダイエーの『戦後』−」/佐野眞一/2001年5月、新潮文庫

 本書には、中内功とダイエーを原告として2億円の損害賠償を請求する訴訟が著者に対して東京地裁に起こされたことからも分かるように、一切の容赦なく中内ダイエーの事実とその解釈が著者の独自の視点から記されている。

 下巻では、ダイエー急成長の原動力となった中内のカリスマ性についての分析が興味深い。底知れぬ「人間不信」をベースとして常に実行で示してきた狂気と恩情。「人は誰でも裏表があるが、中内は裏のなかにも表裏がある」。「狂気も温情も本物だからこそ、人は中内のために死を厭わぬほど働くのだろう」。

 なかでもそのカリスマ性の原動力となっていたのは、反権力の姿勢だったようである。「革新官僚の岸信介が持ち込んだ日銀法をはじめとする1940年代の戦時統制経済が、戦後も尾をひきずり諸悪の根源となっている、だから『戦後』はまだ終わっていない」との中内の主張は多くの共感を得たはずだ。中内は一貫して覇道(力のみで人心を支配する統治方法)を歩み続け、「流通革命」を唱え続けた。口ではなく実行した。「松下は独禁法違反の疑いがある」として、自ら公取委に提訴までしているのだ。

 著者のペンを動かしたのも、この反権力の姿勢だった。佐野はこう書いている。「『国には絶望した。なんでこんな国に高い税金を払いつづけていたんやろうかと思うと、あらためてむかっ腹がたった』中内のその談話を聞いたとき、溜飲がさがる思いだった。私が長年あたためてきた『中内ダイエー論』をいよいよ書こうと思ったのは、実はこの時だったかもしれない」。

 そのルーツは戦中にまで遡る。「私は、敵陣に斬り込みに行ってから、仲間にもう死ぬのはやめようといったんです。斬り込みに行って米軍の宿舎を上から見たら、ガソリンで発動機を動かして、アイスクリームを食っていた。向こうはアイスクリームをガソリン発動機でつくっているのに、こっちは、ガソリンの一滴は血の一滴だと叩き込まれている。これはアンフェアな戦争だと、そのときわかった」。

 その中内も、残念ながら、いまや通産省から産業政策局大規模小売店舗調整官をつとめた人物を招くというところまで追い詰められ、社長の座も退く。

 佐野は言う。「99年1月、社長の椅子を味の素元社長の鳥羽薫に譲って会長に退いたとき、これまでの人生を振り返って思い出は、と聞かれた中内が、こう答えたことを印象深く覚えている。『これまでの人生で楽しいことは何もありませんでした』」。なんともドラマチックな人生である。(2002年5月)

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 ダイエーは、松下製品を店頭に並べるたび、松下から依頼された業者に、次々と買い占められるというイタチごっこの戦いを繰り返していたが、その一方で、前年12月、独禁法違反に目を光らせていた公取委が、松下をはじめとする家電7社にカラーテレビの価格カルテル破棄勧告をしたのをきっかけに、公取委に対してひそかに家電製品のヤミ再販(価格維持)に関する証拠を流していた。
 公取委はこの情報をもとに、67年7月、松下電器に対し、独禁法違反の勧告を行った。これに力を得た中内ダイエーは、松下は独禁法違反の疑いがある、として、自ら公取委に提訴した。のちに「怨念の30年戦争」と呼ばれることになる両者の対立は、67年10月3日に、最大のヤマ場を迎えた。この日、参議院物価等特別委員会に所属する議員四名が近畿地方の物価問題を視察することになっていた。この情報をキャッチした中内ダイエーは、彼らを三宮店2階の会議室にきてもらうよう手はずを整えた。「松下をはじめとする家電メーカーは、製品に秘密番号をつけて流通ルートをチェックし、安売りを防止している」

 1971年3月、松下が消費者団体の不買運動に屈する形で独禁法違反をしぶしぶ認めたときも、ダイエーとの取引の再開はならなかった。

 --中内さんも最近変わって、中小の小売店と共存共栄を唱えています。
 (幸之助)「さよか。変わってきたですね。やっぱり、カネがでけて王様になったら、王道がわかってくるんですよ。それが普通の人間の姿ですわ。スーパーもあそこまで行ったら、もう大丈夫や。便利で安ければ、客はいやおうなしにくるわけです。」
 しかし、中内は王道を歩むことはなかった。中内はあくまで覇道を歩み、松下との戦争も、94年3月、同社との正式取引が30年ぶりに再開するまで、やむことはなかった。この関係修復は、直接的には忠実屋のダイエーグループ入りをきっかけとしたものだった。忠実屋には松下との正常な取引関係があった。

 三島由紀夫が東京・市谷の自衛隊東部方面総監部に乱入し、凄絶な自刃を遂げた1970年11月25日、ダイエー赤羽店の店頭は、「目玉商品」を求める買い物客で早朝からごったがえしていた。三島事件の「白昼の衝撃」で日本じゅうがひっくりかえったこの日、ダイエーが売り出したのは、5万円台のカラーテレビだった。
 <われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た>
 三島が檄文にそう記して割腹自殺した日、中内ダイエーは皮肉にも、三島の苛立ちの源泉となった鼓腹撃壌の日本を、極限の形で現出させていた。中内は三島より3つ年上の大正世代である。
 …三島が市ヶ谷台のバルコニーの上から、「このままいったら『日本』はなくなってしまう。かわりに、からっぽで抜け目のないだけの経済大国が極東の一角に残るだけだ」と絶叫しているとき、三島が唾棄してやまなかった「商人国家」の大衆は、観念の自家中毒に陥って切腹した作家をあざ笑うように、格安のカラーテレビを何とかあてるべく、回転式抽選器をガラガラと回していたのである。カラーテレビの価格問題は、この頃の新聞紙面を頻繁ににぎわしていた。この年の11月12日、渋谷公会堂で開かれた全国消費者大会で、カラーテレビの買い控え、松下電器全製品のボイコットなど31項目の抗議内容が決議された。公害やメーカーエゴが社会問題となって浮上してきたこの当時の状況を反映して、大会では「コカコーラ、ファンタを飲まないようにしよう」という、いまではとても考えられない意見まで決議された。

 「…中内社長のあまりにも強いワンマン体制が、そんなイエスマンばかり生み、経営者らしい経営者を1人も育ててこなかったんです。PCBの原因も同じです。経営者という自覚のないサラリーマン的人間をいくら子会社に送り込んでも、業績が好転するわけはありません」
 
 ある日、中内に呼ばれて会議に臨んだ幹部は、中内からこういわれた。「生命保険に入っているか?入っているなら、いますぐこのビルから飛び降りろ!」それを聞いた幹部は、血の気がひいた。目の前の中内に飛び掛り、首をつかんで絞め殺したいという思いをこらえるのが精一杯だった。「それから間もなく、中内さんから一杯飲みに誘われました。中内さんは私の猪口に酌をしながら、『この前はいいすぎた。堪忍してくれや』といって頭を下げました。不思議なものです。それまでムラムラしていた気持ちが、そんな中内さんの姿をみると、スーッと消えていった。それどころか、この人のためになんとかもうひと頑張りしなければあかん、と思うようになっているんです」これを中内の卓越した人心収攬術とみるのはたやすい。しかしそれはあまりにも単純な人間解釈というものである。人は他人の自己演出によって踊らされるほど幼稚でも甘いものでもない。中内の狂気も温情も本物だからこそ、人は中内のために死を厭わぬほど働くのだろう。殺しても殺しても憎みたりない人物に、気がつくと命を捧げているという不思議さこそ、中内のカリスマ性の源泉だった。

 地方出典の際、中内は近くの魚市場、青果市場を巡回するのが十年来の日課となっている。市場に並べられた商品からその地域のマーケット性、嗜好、文化を探り、それを売り場づくりに反映させるためである。

 ダイエーは地元からどんなに強い反対運動があっても最後は結局、出店してしまう、なぜなんでしょう。そうたずねると、経営コンサルタントは、なんでそんな簡単なことがわからないのか、という顔をした。「簡単です。地元の反対運動は大勢ですが、ダイエーは中内さん1人だからです」「多勢に無勢では、ダイエーの方が不利なんじゃないですか」「そこが違うんです。複数は弱い。特に時間がたてばたつほど、あいつはひょっとして賛成派に回っているんじゃないかとか、お互い疑心暗鬼になり、最後は仲間割れになる。その点、1人は強い。絶対に割れっこないからです」私はあっ、と思った。なるほど、中内が「衆議独裁」「衆議独裁」という理由がわかるような気がした。伸び盛りの企業にとっては、ワンマン体制ほど強いものはない。

 当時のダイエーに一番強く感じたのは、徹底したマニュアル精神だった。たとえば北海道から沖縄まである全国のダイエー店舗は十二の区分に分かれている。この区分は、行政区単位でなく、桜前線で仕切られている。沖縄で売れた水着はちょうどリレーのバトンタッチのように桜前線に従って北上させる。逆に、札幌で人気のブーツは、この線に従って南下させる。BGMもダテには流していなかった。午後2時現在の売上高に応じて、いくつかの曲目が暗号のように用意されている。「草競馬」なら100%達成で問題ないが、売上高目標に対して95〜99%の「錨をあげて」や、94%以下の「聖者の行進」が鳴り出すと、売り場主任たちは血眼になって売り場に立ち、呼び込みに声をからさなければならな。

 シェークスピアの戯曲のなかに、「王冠の上に不安あり」という有名な台詞があるが、伊藤雅俊の経営の根底には、徹底的な猜疑と不信がある。不安こそ、この会社を成長させた原動力だった。伊藤は、マスコミを信ぜず、社員を腹の底で疑い、ひたすら売り場と客のみをき拝する。一般の会社の組織図は、上から株主−社長−事業本部−課となっているものだが、イトーヨーカ堂は逆で、一番上に「お客様」とあり、次が「地域社会」、一番下に社長と書いてある。

 この増資により、KBS京都の役員陣から京都新聞出身者は一掃され、かわって、山段、許につながる怪しげな面々が新たな役員陣としてズラリと顔をそろえた。…「メンバーのなかで一番貫禄があったのは許永中でした。ダルマさんのような巨体で、相手の目をそらさずに1時間でも2時間でもしゃべる。私はみなさんと同じ船に乗っているんです、というのが許永中の持論でした。…」

 ダイエーでは、遊休不動産の外部売却の対象となる最大の物件として、横浜ドリームランドの売却を計画した。これが売却できれば、360億円強の資金が有利子負債の削減計画にあてられる予定だった。ところが、新聞で横浜ドリームランドの売却計画を知った横浜市が、これに待ったをかけてきた。98年3月のことである。ダイエーが傘下の横浜ドリームランドを売却すると、ダイエーグループのドリーム開発が、JR大船駅と横浜ドリームランドを結ぶ交通機関として計画していた全長5.3キロメートルのモノレールの予定が白紙に戻ってしまう。この新路線の駅前開発を担当していた横浜市では、駅舎が設置される予定の地権者との交渉もすでに終えており、モノレールの計画自体がなくなる横浜ドリームランドの売却は到底認められなかった。横浜ドリームランドの売却話は立ち消えとなったばかりではなかった。横浜市との交渉の過程で、ダイエーグループのドリーム開発は、モノレール事業への投資を新たに確約させられる格好となった。モノレール事業を本格的に軌道に乗せるには、新たに300億円の投資が必要といわれる。中内ダイエーは、有利子負債の圧縮計画を進めるどころか、新たな投資を迫られ、二進も三進もいかないところに追い詰められている。

 中内は阪神大震災に遡る50年前、一兵卒として、フィリピン戦線の飢餓線上をさまよった経験をもっている。いわば「棄民」として戦場にほうりだされたその男が、50年後、国の救援体制をはるかに上回る補給作戦を展開した。この事実は考えてみれば、ひどく皮肉な話である。この事実には、国というものが戦後、国民に対して何をしてきたか、戦後という時空間が何をもたらしてきたかについてのにがい皮肉がこめられている。中内は地震からまもなく、次のようなことを述べている。「国には絶望した。なんでこんな国に高い税金を払いつづけていたんやろうかと思うと、あらためてむかっ腹がたった」中内のその談話を聞いたとき、溜飲がさがる思いだった。私が長年あたためてきた「中内ダイエー論」をいよいよ書こうと思ったのは、実はこの時だったかもしれない。

 「…われわれは大東亜戦争で、日本軍の兵站がいかに弱かったかをつくづく思い知らされた世代ですからね。何せ日本軍は、敵の弾薬と飛行場を取って前へ行けとしか命令しなかった。むちゃくちゃな話です。兵站を確保せずに現地調達でいくんですね。フィリピンでもマレーでも、現地人のイモ畑を奪って、イモを植えて食えという。大和魂だけあったら戦争は勝てると本気で信じていた。負けるのは大和魂が不足しておっただなんて、その程度でやってきたんですからね。私は、敵陣に斬り込みに行ってから、仲間にもう死ぬのはやめようといったんです。斬り込みに行って米軍の宿舎を上から見たら、ガソリンで発動機を動かして、アイスクリームを食っていた。向こうはアイスクリームをガソリン発動機でつくっているのに、こっちは、ガソリンの一滴は血の一滴だと叩き込まれている。これはアンフェアな戦争だと、そのときわかった。…」  

 「戦後、神戸から出て大きくなったのは山口組とダイエーだけや」という中内自身の名台詞があるように、敗戦直後の神戸は、犯罪スレスレの商売が許される街だった。

 「…ローソンの沖縄出店にしたって、セブン−イレブンに先がけて全国制覇をやりたかったというだけです。あまりにも子供じみている。鈴木(敏文)さんはほくそ笑んでいるはずです。セブン−イレブンはローソンの半分の24都道府県にしか出店していませんが、実は、いつでも全国制覇できる状態にある。それをしないのは、費用対効果の面で得策でないのが骨の髄からわかっているからです。全国制覇は一見派手な話題ですが、ロジスティクスの面で莫大なムダが出る。…」

 空間全体が胃袋と化したようなマカイ・マーケットプレイスの風景は、チャップリンの「モダンタイムス」そっくりのそんな光景を思い出させた。 
 
 それでもなお、幼い頃、母親に連れて行かれた阪急デパートの一杯25銭のカレーのにおいが自分の商売の原点であり、革新官僚の岸信介が持ち込んだ日銀法をはじめとする1940年代の戦時統制経済が、戦後も尾をひきずり諸悪の根源となっている、だから「戦後」はまだ終わっていないという中内の言い分に、私は少なからず共感するところがあった。

 それにしても、中内ダイエーファミリーカンパニーの複雑な法人登記には、正直、呆れる。私がとった登記簿は、段ボール箱にして全部で3個に及んだ。創業者オーナーが節税対策のため、また子供への遺産相続対策のため、ファミリーカンパニーをつくることは特別珍しいことではない。しかし、中内ダイエーファミリーカンパニーの場合、その数の多さからだけいっても、明らかに程度を超えている。

 眠ればいつ味方に殺され屍肉をあさりつくされるかもしれない。フィリピンの戦場から持ち帰ったこの根源的な人間不信が、同じ血をわけた兄弟を放逐する独裁体制と、人を人とも思わずなぎ倒す強烈な覇権主義をつくった。それは成長期において、中内ダイエーを膨張させる最大の原動力ともなった。しかし、その人間不信はやがて優秀な部下たちを中内の許から次々と去らせる原因ともなった。そして中内の人間不信は、ついに自分の辞任を早めさせる引き金となる皮肉な結果を生んだ。

 中内ダイエーを20年間ウォッチしてきた私にはよく理解できる話だった。中内は1つの目盛りでは是泰にはかれない男である。メートル法ではかろうとすると、鯨尺がでてくる。キロではかろうとすると貫目をもち出す。中内は善悪をこえたあらゆる意味で常識というものが通じない男である。人は誰でも裏表があるが、中内は裏のなかにも表裏がある。徳俵に足がかかったとき、土俵の輪を平気で大きくしてしまうのが、中内という男である。そしてそれこそが中内がよくも悪くも、カリスマと呼ばれてきたゆえんだと、私は思っている。

 中内は通産行政に代表される「国家経済政策」とは無縁の道を歩いてきた。その男が通産省から人を招くというところまで追い詰められてしまった。この人事それ自体が、中内が創業以来掲げてきた「流通革命」の終焉と、中内の国家への屈服を示している。雨貝は85年十月から87年6月まで、通産省産業政策局大規模小売店舗調整官をつとめた。 

 99年1月、社長の椅子を味の素元社長の鳥羽薫に譲って会長に退いたとき、これまでの人生を振り返って思い出は、と聞かれた中内が、こう答えたことを印象深く覚えている。「これまでの人生で楽しいことは何もありませんでした」中内は半世紀以上経っても、まだあの戦争に深くとらわれている。彼はある意味であの戦争の最大の犠牲者ではなかったか。いまでも中内は地獄のフィリピン戦線を彷徨っているのではないか。そんな妄想めいた思いが、ふと頭をよぎった。

 食糧を調達するため、敵陣に斬り込みをかけたとき、敵の手榴弾を被弾し、薄れゆく意識のなかで、子供の頃食べたスキ焼きの匂いを思い出したという話は、いまや中内を語るとき絶対に欠かせない伝説となっている。死を前にして、「天皇陛下万歳!」とも「お母さん」とも叫ばず、薄暗い裸電球の下でグツグツ煮えるスキ焼きを囲む光景が甦ってきたというところに、中内という男の独特の位相があった。腹いっぱい食う、腹いっぱい食わせることが、戦後の中内の飽くことのない夢だった。

 何度も述べてきた通り、ダイエー急成長の原動力は、中内の底知れない「人間不信」にあった。そしてダイエー墜落の原因もまた、同じ中内の「人間不信」にあった。これが私の中内ダイエーに対する根本的な考え方である。眠ればいつ味方に殺されるかわからない。フィリピン戦線で体験したこの根源的な恐怖心が、中内のなかに自分以外は誰も信じられないという極限の疑心暗鬼を生んだ。その疑心暗鬼は時にはプラスにも働いた。中内と実弟の力が経営方針をめぐって争い、中内が勝利をおさめたときのことを振り返って、入社まもない大卒定期採用組の一人がいった言葉は実に印象的である。「親父(功)は日本に『流通革命』を起こすためなら、同じ血をわけた兄弟まで斬るのか。そう思って体がふるえるほど感動した。この親父のためなら死ぬまでついていこうと思った。しかし、それが親父の『人間不信』から出た所業だったということは、自分もまだ若かったので全然わからなかった」  
 
 「日経ビジネス」に連載中の97年暮れ、中内功とダイエーを原告として2億円の損害賠償を請求する訴訟が私に対して東京地裁に起こされた。理由は雑誌連載記事は著しく原告の名誉を毀損し、社会的評価を低下させる狙いのみで書かれているというものだった。私はその通知書を読んで、あまりに的外れの指摘に失笑するほかなかった。何度も述べてきたように、私が中内ダイエー論で企図したことは、そんな低次元の問題ではなく、戦後史の流れのなかに中内ダイエーを正確に位置付け、あわあせて今日の中内ダイエーの崩壊の原因を探ることだった。あえてそのことから目をそらし、揚げ足とりとしか思えない瑣末な部分をほじくり返す原告側の主張を読んでいるうち、私は情けなさで一杯になった。…2001年3月、裁判は和解をもって終了したので、この件についての私の見解はこれだけにとどめる。