「文学横浜の会」
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2006年 1月8日
「1月、雑感!」
僕らは知らず知らずに1年毎の単位で暮らしているが、もし暦がなかったらどうだろう。
年(ねん)もないし月もない。ただ1日が明けると次の1日が始まる。
寒暖を繰り返す日本のような処では、自然の営みに合わせて生活のリズムを整える。
暦がないから年長者の経験則に則って、もうすぐ寒くなるとか暑くなるとか、
自然の中に生きているということを今より実感できるのではないだろうか。
今のような暦がなければお正月もないし、年賀状を書く必要もない。横着者にとっては都合がいい。
自然を中心にした生活ではその土地土地、地方地方の自然に適った暦があったに違いない。
今われわれが使っている暦は西洋暦で、日本で採用されたのはそんなに昔のことではない。
江戸時代、既に学問の分野で一部使用されていたようだが、正式に採用されたのは明治になってからだ。
日本の旧暦とは一般的に太陰太陽暦である天保暦を基にした暦を指すのだそうだ。
暦注として、方角の吉凶など今の科学では迷信と思われるものも多く含まれているが、
干支や六曜、二十四節気や雑節など、現在の暦でも使われているものもある。
暦とは土地に根ざした生活の必要上生まれたもので、自然を中心にしたものだから土地が違えば暦も違う。
モンゴル暦やタイ暦、沖縄暦などあってもいいし、現にあった。
今の時代に世界共通の暦はなくてはならない存在だが、だからと言ってその土地に根ざした暦が消えていいという事ではない。
我々はもっと自然を身近に感じるべきで、自然の中で生きているのだと暦を通して知る必要がある。
自然がなければ我々は生きられないし、自然の中で共に生きている。暦は自然との仲立ちをしているとも言える。
自分を含めて、暦に振り回されている現代人をみるとふとそう思う。
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「挨拶運動」と言うような話題がニュースで取り上げられたのは何年前だろう。
村(或いは町)中で見知らぬ人と出会ったら挨拶をしようと言うのだ。ぼくの記憶ではそんなに昔ではない。
こんなことを思い出したのは、昨年末にあった子供を狙った犯罪の事である。
それ以来、見知らぬ人に出会ったら犯罪者と思えと言うような教育を子供にしている。そんな空気を感じる。
他人に声を掛けられても、返事をしてはいけないと。
確かに親としては心配の種は尽きないのだろうし、子供を狙った犯罪がより陰湿で凶悪になったのだろう。
でも、何かおかしい。
気安く子供に話し掛けると胡散臭い目で見られるようになった。
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箱根駅伝が終わった。
駅伝は、特に距離の長い箱根駅伝は人生のようなものだ。「登り坂」があれば「下り坂」もあり、「まさか」という坂もある。
誰にも予測のつかないものだし、良いときには生き生きと見えるが、
一度狂い出すとたちまち表情も一変する。でも、襷<命>は次の走者<一日>に、そして次の世代に繋げなければいけない。
しかし途中で絶たれることもある。
今年はどんな年になるのだろうか。
<K.K>
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