「文学横浜の会」
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2008年7月6日
「地球温暖化と少子化問題」
温暖化対策論議は今や流行のようになっている。確かに地球温暖化による弊害はもはや無視できない状況だ。
と同時に日本では少子化も大きな問題だそうで、出生率の向上への取り組みも盛んに議論されている。
この二つの問題は相反する問題だとぼくは考えている。
確かに地球の温暖化には歯止めをかけてほしいと思うし、子供が少ない社会なんて活気がない。
戦後のベビーブームのようなことがこれから起こるとは思えないが、せめて各家庭に二人の子供を、
と考えるのが政府としての政策だろう。各家庭に子供が二人いたとしても、それでも人口は減る。
結婚しない人もいるし、生まれた人がそのまま成人する確率も100%でないからだ。
地球温暖化対策の論議についてぼくは、究極的に、文明人が居なくなれば解決すると思っている。
つまるところ文明人である日本の人口が減ることは、地球温暖化対策に貢献していることであり、
二酸化炭素取引に文明人の人口の要素も加味すべきだ、と強く思う。
すなわち文明人の人口が減れば、それだけで二酸化炭素排出削減に貢献したのだ。
と言うことは文明化を目指す国は地球温暖化に貢献していない、と言うことになる。
でも非先進国が、先進国を目指す動きは自然であり、その動きを止めることはいかなる国もできない。
具体的には、中国やインドといった巨大な人口を抱える人口大国が先進国並のエネルギーを消費するようになれば、
地球温暖化への加速度が増すのは間違いない。
この問題のやっかいなことは地球規模なことだ。
一国だけがエネルギー消費を抑制しても、地球上には国境を区切るものはない。
気流を通してどんな国にも地球温暖化への影響は押し寄せる。
こんな事を考えると、国土の境界を巡って、時には殺し合いをする人間の浅ましさを思わずにはいられない。
土地は地球の一部であり、人間はそこに住まわせて貰っているだけなのだ。
少子化問題について、ぼくはそんなに問題にすべきではないと思う。
問題になるのは国の運用面だけで、それも少子化にあった体制になっていないことが問題なのだ。
税制にしろ労働法規にしろ、戦後子供が多かった時代の体制そのままで国家を運営していることが問題なのだ。
地球温暖化への取り組みは、色々考えられているが、所詮、小手先の取り組みに思えてならない。
二酸化炭素の排出量取引にしても、地球規模での排出量を減らすという前提に立ってのことだろうが、
排出することには変わりなく、本質的な解決策ではない。
究極的な解決策は先進国の人口を減らし、自分の住んで居る土地で食べられるだけの生活をすることだ。
50年ぐらい前には、ぼくの住んでいる周りでも、人間の排泄物を肥料として土地を耕し作物を作っていた。
一寸した土地があれば耕されていた。こんなことを言うと今の若者達は「きったねぇー」と言うだろう。
排泄物を肥料に使うのは衛生的でないと言うのなら、それこそ現代の科学で衛生的にすればいいではないか。
今のようにお金を掛けて処理して廃棄するのは、それこそ無駄のように思うのだが…?
しかしもう50年前の日本には戻れないし、ご飯とタクアンと少々の小魚を食する生活には耐えられないだろう。
でも生死の境を彷徨うような飢餓を体験すればそういう生活に戻れるかも知れない。
人間は勝手なものだが、一度苦い体験をすれば今の生活は忘れることができる。
それには、戦中戦後、日本の国民が体験した以上の苦しい体験を強いられれば、との条件つきだが…。
いずれにしても昔の生活に戻るにしても、それには大きな犠牲を伴うし、自ら進んでということではあるまい。
まあ人間は今の生活にしがみつくだろう。
そしてより一層、快適な生活を求め、エネルギー消費に走るだろう。
そのエネルギーが人類の文明化に貢献し、また地球の環境破滅にも繋がったのだが。
<K.K>
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