「文学横浜の会」
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2014年 2月 5日
「選挙について」
都知事選が現在行われている。
9日投開票だから、もうまもなく結果が判る。おおきな争点は原発へのスタンスで、積極的推進派、消極的推進派、否定派に分かれる。
地方選挙で国策に関係する事項が争点になるとは奇妙だが、国政に対する国民の意志を示す機会がないから仕方がないとは思う。
が、やはり奇異なことだ。
と思っていたら、大阪でも市長が辞任して大阪市長選が行われる様子だ。
こちらは橋下市長の持論、大阪都構想が現状では市議会の反対で実現しそうもないので、市長が市民の後押しを狙っての市長選らしい。
ニュースを見ての感想だが、どうも先の総選挙では公明党の協力が約束されていて、
そのために公明党の候補者が出る選挙区には大阪維新の会からは候補者擁立を見送った。
それなのに総選挙が終わって、公明党が離反したことがあるようだ。
真実はどうなのか門外漢には判らないが、橋下市長の怒りは会見からも伝わってくる。
無論、市政でも国政でも、それぞれが行うことは一つではない。その他諸々が圧倒的に多い訳だけれども、
往々にして選挙はムード的になってしまう事が多いように思う。それも民意だと言われればそれまでだが、疑問に思う事が多々ある。
特に国政では、小選挙区制がとられているが、その弊害も言われるようになった。大きな弊害として以下の事が言われている。
我が国の政治制度は、所謂、議員代表制、我々が議員を選んで、それらの議員が政治を行っている訳だ。
その議員を選ぶのが選挙だが、それがどうしてもムード選挙になってしまう。
と言うのも現状の諸問題は数多く、とても短期間で説明できるものではなく、
国民の多くもそれらの問題点の全てに関心がある訳ではない。
当然、選挙では国民に関心のある問題のみに焦点が集まる。
だけどそれだけで選んでしまうと、後日とんでもない法案が作成される懸念がある。
恐らくそうして懸念は民主主義の国では共通の問題点だと思うが、問題点として何もしなくていいのだろうか。
思えば、こうした選挙制度は古くはローマ、ギリシャ時代に既に実施されていたと言う。
今と同じではないと思うが、選挙制度はその頃からあった。
その頃から比べると人の数も各段に多く、扱う問題も各段に多い現代にあって、同じような選挙制度でいいのだろうか、と疑問に思う。
選ぶ国民が全ての問題に関心がある訳ではないのと同様に、
選ばれた議員にしても、全ての議員が全ての問題に知悉している訳ではない、と思う。
そうした議員が提出された法案に対して賛否を投じて政治を行っている。
例えば経済を専門とする議員、教育、或は科学に詳しい議員が、全てに詳しいとは思えない。
でも立場上、賛否を投じなければいけない。それでいいのかな、と思うのだ。
ではどうしたらいいのかと考えると、全ての国民が参加し、質の濃い審議すするための具体案は中々難しい。
で考えたのは、
憲法改正問題でも、具体的にどうした方法で改正しようとしているのかよく判らない。
まあ、兎に角、何でもかんでも、ムードで決めるのだけはなんとかしてほしいものだ。
<K.K>
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