「文学横浜の会」
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2014年 4月 5日
「沖ノ鳥島における事故で想うこと」
沖ノ鳥における工事で5人の死亡事故が起こったとのニュースを目にして、日本も同じような事をしているのだなと思った。
同じような事とは、韓国の竹島における人の常駐化工事の事だ。
最も韓国による我が国の領土「竹島」での工事と、日本による「沖ノ鳥島」での工事とは本質的に異なるが、
人の住めない岩礁にすぎない本土から遠く離れた無人島での工事と言う事、わが方の領土だと主張・アピールする事、
そしてどちらも大きな資金を掛ける事では同じようなものだ。
趣旨は同じようなものだとしても、その意図は大きく違う。韓国政府による竹島常駐化工事(多分、観光用)は、
日本に支配された歴史の鬱憤を晴らすため、なんとしても日本から奪うのだ、との執念のようなものを感じる。
一方、日本の沖ノ鳥での桟橋工事は海洋資源開発を見据えての事だろう。
同じ資金を掛けるのだとしたら、将来を見据えた日本の方が正しいと思うのだが、国家の意地、国民のナショナリズムが前面に出ると、
そうした損得勘定だけでは済まないのが現実だ。
それは何処の国家も同じで、ナショナリズムが国政に大きな影響力を及ぼすようになると、
国はあらぬ方向に行ってしまう危険性もある。
ぼくなどはあんなちっぽけな岩場(竹島)なんてあげれば満足して仲良くなれるなら、あげればいいじゃないかと思うのだが、
そうはいかないのが現実だ。中国政府がよく「たとえ1ミリたりとも我が国の領土は守る」と言うような事を言うが、
あんな広大な領土を持つ国でさえそんな風なのだ。我が国にも同じような事を言う者がいるのも当然だし、何処の国も同じだ。
ぼくのようなことを、
例えば魚釣島で言えば「少しでも譲歩したら、たちまち沖縄本島も奪われる」との声が上がるだろう。
同じ発想は相手側にもあり、ますます厄介な問題なのだ。
だがなぁ、国家とはいったいどういうものだろう、と思う。
所謂、現在のような国の形態ができたのは、そんな昔の事ではない。
まぁ、国家の定義にもよるが、今のような統一国家ができたのはほぼ百年から二百年、そんなレベルだ。
それに国家とは、そもそも同一民族で同一文化を持った人々によって構成されたと考えられるが、現在は決してそうではない。
移民や民族の流動化によって、多くの国は多民族国家だ。
日本はまだまだ諸外国と比べて多民族化してはいないとは言っても、
土着のアイヌ民族や、昔々の大昔、大陸や南方から現在の日本列島に侵入(移住)した民族を含めれば、日本も多民族国家だ。
つまり、時代を遡ってみればどの国家も多民族国家といえる。それが長い間に同一化されたに過ぎない。
日本は国境が海、と言う事もあって数百年間は他国からの移住は少なく、まるで単一民族のように見えるが、
血統から言えば、決して単一民族ではない。
一方、ヨーロッパやアメリカは近年になっても他国からの移住が続いており、まるで民族のるつぼのように思える。
元々、移民によって作られた国のアメリカでも、その変化は目を見張るものがある。
例えば、ぼくが小さい頃のアメリカ人と言えば、西洋人か黒人のイメージだったが、
今目にするアメリカ人はアジア系や中南米系、それに中東系と、まるで人種、いや民族のるつぼだ。
つまりそれだけ多民族の比率が増加していると言う事だ。
そうした国も百年後、二百年後にはそうした民族が解け合って、アメリカ民族なるものが出来上がるのだろが、
それまでには色々な問題が生じて、苦しみ、一つづつ解決し、そしてやがては一つのアメリカ民族が生まれるのだろう。
多分、それが同じ地球の家に住む、我々人類の営みだった、と思うのだ。
そうした事を想っていると、国家の国境とは何だろうと思う。
戦争して、殺しあってまで確定しなければいけないものななのだろうか。
現在の国境が出来たのは、長い長い人類の歴史の中では、ちょっと前のことだ。
国家とはどういうものなのかと考えれば、国境などは元々ファジーなのだ
多分、こんな事を言うとナショナリズムに固執する諸氏からは非難されるんだろうな。
<K.K>
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