「文学横浜の会」
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2015年 5月 5日
「資本主義社会の宿命?」
地球は二酸化炭素の放出によって温暖化傾向にある、と言う意見に対して、
それはクリーン・エネルギーを推進しようとする側の陰謀だとする意見もある。
そうした方たちの論拠は「地球の気象は大きな年代スケールで見ると冷間期と温暖期の繰り返しで、
二十年や三十年程度の気温でそんな結論は出せない」と言うものだ。
1・2度の温度変化は人間にとっては大きいかも知れないが、自然界にとってはほんの些細な事で、
宇宙規模でみれば誤差程度のものだとも言う。
どちらが正しいのか私には判らないが、私の鈍い感覚でも、暑いと感じる日は年々早くなっているような気がする。
その原因が二酸化炭素の放出によるものなのか、それとも単なる自然の流れなのかは兎も角、
ここら辺りで生活の仕方を見直してみるのもいいと感じている。
アジアの中では日本がいち早く工業化して生活環境を欧米化(近代化)したのだが、
その流れは今やアジア諸国をはじめ世界に広がっている。
工業化し生活環境を近代化すると言う事は電気の消費を促すという事で、つまりは電気を大量につくる必要がある。
安い電気を大量に作るには二酸化炭素を大量に放出してつくるか、原子力発電によらなければならない。
それらの諸国で安く早期に電力を得るには石炭による発電だ。
それで益々二酸化炭素の放出が多くなる訳だが、一度電気の利便性に気づいた国や人達から、
そうした流れを止める事はできない。豊かな国を目指して工業化への道を推し進める傾向は止まないだろう。
日本でも経験した事が世界の国々で行われている訳だ。二酸化炭素の放出になるからやめなさいとは言えない。
一方、先進諸国と言われる国々では、世の中が益々便利で“楽しい”事が増えているらしいが、
これ以上便利になって楽しい事が増えても、ある人を除いてそんなの使い切れないし必要ない。
そう言うと人間は絶えず変化し進化するもので、新しい物を生み出さないと産業競争に負けてしまうと言われる。
そうして私たちの周りに絶えず新しい物が出て、覚えないうちにまたその新しい物が出て来る。
その繰り返しの中で私達は生きている。しかし新しい物に飛びつく癖はなく、
スマホやタブレットを持たない私はもう世間から取り残された気持になっている。
ウェアラブルだとか聞いても、なんの事だと途方にくれる。
グローバルな資本主義社会の行き着くところ、と言う観点から貧富の格差が増大すると言う事が言われているが、
絶えず工業化を進めて新しい工業生産物を生み出し続けなければいけないのも資本主義社会の宿命だ。
グローバルな資本主義社会では生産物が普及すると安価になり、より安く生産可能な国での生産へ移動する。
先発先進国と言われる国では生産を止める事は出来ないから、より良い物・新しい物の生産を目指す。
そこには必ずしも必要としない物でも、ちょっと楽になるとか、目先の変わった物だと言う事だけで、
新しい工業生産物と置き換えるような動きにもなる。
工業化する事が幸せで豊かな世界だとの妄想がある限り、世界の国々は工業化への傾向を益々強めるだろう。
だけど世界中が工業化され、
世界中の国々がアメリカや少なくとも先進諸国と言われる国々と同様のエネルギーを消費するような世界になったら、
そうなったら世界はどうなるのだろう。さぞ便利で何処にでも電気のある国になるんだろうが、
それは本当に幸せで楽しい世界なのだろうか。
資本主義社会がこのまま続くと個人の貧富の格差は益々大きくなり、地下資源を持つ国と持たざる国、
或いは地下資源の活用を含めた技術力をもった国と持たない国の格差も益々大きくなるだろう。
それが続けば社会不安は増大する。何事も平等な社会が最も安定しているのだ。
利便性の追求はいいが、本当の幸せとは、と一度考える時間があってもいいのではないか。
世界は資本主義社会に代わる新しい社会制度をまだ見い出していないが、
資本主義社会の宿命と飽くなき人類の好奇心とで、
このまま行くと人間は地球を飛び出して、他の天体への移住、或は宇宙に漂う人工物での生活、そうした事になるだろう。
100年前の生活環境と現在の生活環境の変化を思うと、それは遠い未来ではないかも知れない。
<K.K>
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