「文学横浜の会」
エッセー
INDEX 過去のエッセー
2022年 1月18日
「コロナ後を見据えて」
コロナの感染者数が日々増加しているそうな。
実感はないが、どこの報道機関からもそんな情報が流されているから本当なのだろう。予想はされていたが第6波が始まっているとの観測だ。
オミクロン株は重症者が比較的に少ないと言われているが、日々の増加数を耳にすると憂鬱だ。
でもいずれ落ち着く日は必ずくる。それが太古から続く人類、いや生命体の歴史であり、生きている証なのだと考えたい。
それにしてもこんな世の中になるとおかしな事件が起こる。人と人との繋がりが希薄になると、人の心とはかくも脆いものなのか。
こんな時にこそ鈍感になれ、よけいな事は考えるな、と言われても頭の中は動く、考えてしまう。それが人間だといえばそうで、
それが進歩を生み出しもするが、自ら壊れもする。なんとも厄介な存在だ。
*
コロナ後を見据えて、どんな社会になるのか大いに興味は尽きないが、ぼくは水素社会を願っている。
それは二酸化炭素を減らしたいばかりではない。
第一の理由は地下資源、つまり石油やガスや石炭、取り分け石油やガスといった地下資源のある国とない国との格差が余りに大きいからだ。
現在は二酸化炭素の削減、つまり地球温暖化の問題がクローズアップされて地下資源を使用しない方向に大きく傾いているが、
安い電力の供給観点からはまだまだ地下資源を使用せざるを得ないようだ。
安価な電力の観点から原子力発電の誘惑からも逃れられないのも問題である。
原子力発電については、原子力発電そのものの危険性は東日本大震災の記憶が生々しく残っているが、
一度事故が起こればまだまだ現在の科学技術ではどうする事も出来ない大きな犠牲を覚悟しなければならない。
つまり原子力に関する科学技術がまだまだ未熟で、人間が完全に制御できる状況ではなく、とても危険なエネルギーだと言わざるを得ない。
東北での事故が起こってから10年以上経っているのに、未だに廃炉スケジュールさえ守られていない有様で、
30年以上前に起こったチェルノブイリ原発事故でさえ、未だに覆いをかぶせて放射線が漏れないようにしているに過ぎない。
国の有事の観点からも、安心安全を考える上で、原子力発電所の存在そのものが原子力爆弾を抱えているようなものだ。
爆撃されたらどんなに安全基準を整えていたとしても、ひとたまりもない。
ぼくの理想は太陽光や風力を利用して水素を作るシステムを安価に作り、それを世界にばらまく事だ。
地下資源のない貧しい国にも太陽の光はそそぎ、風も吹くだろう。そうした国に水素を作るシステムを安く提供し、
そうして作られた水素を輸入するのだ。無論、電力として使用されればいいが、余った電力で水素作成する。
そうすれば地下資源のない貧しい国にも資金が流れ、先進国が率先してそうした水素を輸入すれば世界から二酸化炭素の排出は少なくなる。
地下資源の豊富な、ただそれだけで繁栄を謳歌している国々との格差をなくし、地下資源の醜い争奪戦争もなくす。
そんな社会にしたい。
それにはまだまだ大きな問題がある。
これは原子力を安全に制御する技術より易しい、とぼくは思っているのだが…。
<K.K>
|
[「文学横浜の会」]
禁、無断転載。著作権はすべて作者のものです。
(C) Copyright 2000-2004 文学横浜