俎板の上の恋


作  金田清志

 【その1】


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一  

 困った事になった。どうしてだろうと自問してみた。日出子と一月後に結婚式を挙げる事になっているのに、日出子への愛情が急に感じられなくなったのだ。そんな自分に気づいて、私は少なからず狼狽している。結婚式の段取りも決まり、一番いい時期だと言われ、希望に満ちた日々だと言われ、心踊る愛情に満ちた日々だと言われる。確かにそんな日々もあった。しかし今の私は困惑している。大いに困惑している。

 私の戸惑いは大きく、朝刊を読んでいるのも苦痛になった。何故なのか原因を探してみたが、思い当たる節はなかった。何故急にそんな事になったのか、私には皆目見当が付かなかった。しいて理由をあげれば、朝洗顔した時に使用したタオルは日出子が置いていった物で、朝食のパンも先日日出子が来た時に買ってきた物だ。別にそれらの品を目にする度に日出子を思った訳ではないが、目覚めてからアパートを出るまでにそうした物があったことは確かだった。でもそれはその日に限った事ではなく、日出子を無意識に意識することはあっても日出子への愛情そのものとは無縁の存在に違いない。

 さて、と私は心の中で思った。この事は日出子に伝えるべきだろうか。あなたへの愛情は私の中からなくなってしまいました、と言うべきだろうか。言ったとしたら日出子は何と言うだろう。結婚式を控えて、彼女は準備に忙しく、先日も新居に持ち込む家具を買うために母親と出掛けたと電話があった。私には別段これでなくてはいけないというこだわりはないから、新居で使用する家具電化製品については全て日出子に任せている。会社を辞めて結婚の準備に一日の全てを費やしている日出子には、そうした買物は楽しいようだ。任せているとは言っても、店頭では迷うこともあるようで、勤め先の私に電話で意見を求める事もあった。例えば、テーブルの椅子は二つ追加して六つにした方がいいかとか、冷蔵庫は今私が使っているのを使用して、しばらく買うのは止めましょうとか…。言うことの一つ一つに彼女なりの理由があり納得もできる。テーブルを二つ追加して買うのはお客さんが来たときの用意もあるし、将来子供が出来たらその時に買うのでは同じ物が買えないからだと言う。子供をそんなに生む積もりなのかと少し疑問に思ったが、一応可能性はある訳で、椅子を二つ追加して買うことに異存はなかった。

 日出子からの電話連絡はその日はなく、会社での仕事も終ろうとしている。一時も早く日出子への愛情が甦ってほしいと思っていたのだが、私の心にはなんの変化もなかった。私が願っているのは日出子への愛が継続して続いていることであり、三週間後に迫った結婚式を無事に乗り越えることだった。それは私にとっても日出子にとっても当面の課題であり、これからの人生を送る上でのハードルのようなものだった。それは高いハードルではなく、二人で手を取り合ってスキップを踏むようにして超えられる筈だった。しかし今の私には高いハードルのように思える。いやむしろ越えてはならないのではないかとさえ思う。愛が無くてどうして越えられよう。

 愛をなくしたまま結婚してもいいのだろうか。そんな事をしてもいいのだろうか。日出子にはなんと言おう。いや言うべきだろうか。いやいや隠し事はしないと約束したではないか。でも正直に言ったら「約束」そのものがなんの意味も無くなってしまい、なんの為の約束なのかと思う。愛があってこその約束なので、愛がなければ私と日出子の関係全てが根底から崩れてしまう。

 どうしてこんな事になったのか、もう一度自身に問い質してみよう。何か理由があり、原因があるに違いない、と思ってあれこれ考えた。原因はなんだろう。日出子への愛情がなくなった理由は…。昨日までは確かに愛していた、と思う。それが今日はどうして…。今日だけかも知れない。明日になれば昨日のように日出子への愛が戻っているかも知れない。それならば今日という日は忘れて、早く床について眠るに限る。どんな難問も時間が解決してくれるし、明日になれば名案が浮ぶものだ。

 恐れていた日出子からの連絡もなく私は早々に帰宅した。何故恐れているかと言えば、例え電話での話だとしても、日出子に心の異変に気づかれて、きっと何があったのかと問い詰められる。私はなんと応えたらいいのだ。結婚式の準備に追われている日出子に、正直にもうあなたを愛していません、と言わなければいけないのか。それは私の心に止めて…。どうかこれは今日だけの事であってほしい。今日はどうかしていたと思いたい。

 翌日、日出子への愛は私の中に戻っていなかった。何度頭を叩いても、過去の日々を思い出しても、私の中から日出子への愛は戻って来なかった。私は憂鬱だった。結婚式を三週間後に控えて、昨日までは充実して希望に満ちた日々だった。それなのに今の私はただただ憂鬱だった。仕事をしている同僚から、結婚式が近づいて仕事も身につかんだろう、と言われて返す言葉もなかった。私にはそれどころではない。今はどうしても日出子への愛が戻ってほしい。なんとしてでも結婚式を無事に終らせたい。もし日出子に今の気持を告白したら、本心を打ち明けたらなんと言うだろう。愛のない結婚式など聞いたこともないし、初めから愛のない夫婦生活がどんな結果になるかは目に見えている。愛がなくても好きかと訊かれれば、そんな事はどうでもよく、愛があってのもので、愛があるからこそ意味がある。

 心情を言えば日出子への愛が消えてから情熱は無くなっている。好きか嫌いかどちらかと訊かれれば、言葉では好きだと応えてもいいが、あの一年前の情熱は沸いてこない。これは事実であり正直な実感なのだ。

 情熱と言えば日出子にプロポーズして結婚が決まり、その頃が一番熱く燃えていた。当然と言えば当然だが、結婚式の日取りから会場選び、招待客の人選から招待状の発送と進むにつれて、私の中から情熱はなくなっていった。決して日出子が嫌いになった訳ではなく、愛情がなくなった訳ではない。結婚式を行なう上で、愛情とは無縁の細々とした煩雑な事々を処理して行くうちに、それを感じる余裕がなかったのだと思う。だがこうして愛情がなくなったと気付くと、これは由々しき事だ。私は頭を抱えて七転八倒、このまま流れに任せていいものかと悩み、もしこの流れを断ち切ったら、とその影響を思うと頭の中は真暗になる。日出子に伝えたらどんな結果になるか、そんなことを考えるだけでも不埒な事のように思う。かと言って愛情をなくしたままで流れに任せてしまうのも、つまり結婚してしまうのも不埒な事だと思う。どう考えてもこのままではまずいのだ。

 出勤すると、同僚の山田から声を掛けられた。

「顔がはれぼったいぞ。準備も大変だな」

 寝不足の顔をみて、結婚式の準備で忙しいと思われたのだ。まさか本当の事は言えないので私はうすら笑いでその場は逃れた。既に結婚している山田からは色々と結婚してから女の、いや女房の扱いについての意見を聞かされた。財布は女房には渡さないで必ず必要経費だけを渡す事、遅く帰ってもいちいち説明しなくても済むように始めから不用意に早く帰らない事、亭主の威厳を保つためにも女房に頼まれ事を言われたら、さも忙しい振りをしてほいほいと動かない事、等々。全部お前の事だろ、と言うと山田は照れ臭そうにしていた。酒を飲みながらの意見だから何処までが真実なのか大いに疑問だが、結婚したら今までとは全く別な女だと覚悟した方がいい、との意見には聞いていて成程と頷けた。話の中身は兎も角、喋る方に実感がこもっていて、そうなんだろうなぁと納得せずにはいられなかった。

 と言う事があるにしても、それは愛し合っていたから許せる事で、愛のない二人ではどんな結果になるか目に見えている。最も日出子の心が変っていなければ、二人で夫婦生活を送れるかも知れない。逆告白しても、日出子に私への愛があれば夫婦生活は送れるかも知れない。としたらこの事は日出子には内緒にして、私の心に留めておけばそれで済むし、日出子にはなんの影響もないかも知れない。そう思うと私の心は少し軽くなった。

 二時頃、日出子から電話が掛かってきた。

「もしもし、お仕事やってる。私、今どこにいるかわかる?」

 車の騒音が聞こえているから、きっと繁華街に出掛けているのだろう。何時もの日出子の声、それに話し方だった。

「かいもの」

 私はゆっくりと低い声で言った。隣に座っている成瀬友香里に聞こえないように低い声で話した。どんなに低い声で話しても友香里には聞こえているようで、ラブコールね、などと言われる。

「当たり! 何を買ったか今度会ったら教えてあげる。それから、何か忘れてない?」

「え、何…、なんだろ」

「あ! 本当に忘れている。これは罰金ものよ。食事を奢るぐらいじゃ済まないわね。昨日電話しなかったでしょ」

「あ、いけねぇ。忙しくて、それに飲んで帰ったから…」

「言い訳しても駄目」

「ご免ご免。本当にご免」

 日出子から電話がなかった日は、私の方から必ず電話をする事になっていたのだ。

「お酒、余り飲んじゃ駄目よ」

「仕事の付き合いだし、それに結婚の前祝いだと言われれば断れない」

「それもそうね。でも飲み過ぎないようにね。それから、今度いつ会えるの。式の時に着るお洋服だけど、やっぱり別の方がいいと思うわ。もう一度行って見てみましょうよ」

「どっちでもいいけど…」

「そんな不精を言ったらいけないわ。後々まで残ることなのよ」

 私は逢う約束をして電話を切った。

 結婚式当日に着る私の衣装について、日出子には前々から注文があって、当然貸衣装なのだが、私が択んだ服とは違う服にしてほしいと言うのだ。そうすれば日出子の衣装とも釣り合いが取れると。日出子と付き合うようになってから、私は服装のセンスが良くないと言う事になっている。事実そうなので、そういう場合は殆ど日出子の意見通りにする。しかし結婚式当日に着る衣装についてはどうしても派手過ぎるように思えて違う衣装を択んだ。結婚式では、当人は俎板の上の鯉と聞くが、全くその通りかも知れない。そうなら日出子の択んだ少々派手な衣装でもいいかも知れない。なんだっていいと言う気分にもなる。

「幸せ一杯ね。今どういう気持」

 と友香里が横から私に言った。

「別に」と私は軽く受け流した。

「またぁ、惚けて。いいわね、私も早く結婚しようかしら。それには相手を見つけることからはじめなくちゃ」

 友香里は私が相手にしないものだから、まるで独言のように言った。友香里は日出子と同じ年齢で、付き合っている男はいるようなのだが、そういう兆候は少しもみえない。本人にその気が有るのか無いのか、隣にいる私にさえ判らない。結婚しないと決めている訳ではなく、縁があったら結婚したいとは言うが、結婚すると色々と大変だし、気儘な生活もできないし、それに何も今結婚する必要はないし、と思っているようだ。無論、本心は判らないが。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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