見果てぬ夢を追って

 【エッセイ】


作  飯島建夫   


 私は四十八歳で妻に先立たれた。それから間もなく挑戦したシナリオが座頭市シリーズで放映されたが、この一作だけで終わった。

 私は子供の頃に縁のあった横浜に移って、小説で再挑戦することにした。そして有隣堂でたまたま買った文学横浜を読んで、早速、同人に加えてもらった。

 港町ヨコハマと新しい友人との文学論争は、私にとって非常に刺激になった。この港町を舞台に作品を書くことにし、ヨコハマの空襲を調べている中に、昭和初期の日本の少年とアメリカの少女の恋物語を書くことにした。「赤い靴」のメロディーを口ずさみ、涙を流しながら書き上げた短編は、文学界の同人評にその題名を取り上げられただけで終わったが、同人と昔の友人から好意ある批評を受けた。読んでいて涙が止まらなかったと言ってくれる者もいて、作者冥利に尽きた。

 私はその後、維新前後のヨコハマを小説にしようと思い、山手のゲーテ座やブルワリー・カンパニーや下岡蓮杖や小林清親を調べたが、どれも計画だけで終わった。

 横浜に住んだ収穫の一つは宮崎宏さんからカラオケの手ほどきを受けて、音痴で歌うこともなかった私はすっかり夢中になり、エレクトーンまで買う羽目になったことだった。

 しかしだんだん都会生活が疎ましくなって、奥多摩の風景に引かれ青梅に移った。

 そして更に島原、長崎に移り、預金も使い果たして、長崎港から船で三十五分の高島のかっての炭鉱アパートに移った。

 六帖二間の五階の部屋から海が一望出来て、家賃は五千九百円。幸い養老年金だけで暮らすことが出来、首吊りをしないで済んだわけである。

 七十を越えたので、いずれは死なねばならぬので適当な死場所を探している中に、南米に気づいた。その理由を話すと長くなるので省くが、是非ともアルゼンチンに移住してから死にたいと思い、独学でスペイン語と英語の復習を始めている。

 年をとって新しい語学は不可能と言われているらしいが、そうでないことがわかった。ボケ止めどころか、頭脳の働きそのものが鋭くなって行くことは絶対に間違いない。頭の体操に一番良いのは語学だと思っている。

 ともかく三、四年の間に、アルゼンチンに移るために、出版するところが決まっているわけでないが、毎日ワープロに向きあい長編小説とエッセイ集に取り組んでいる。

 人間にとって最も大切なことは、未来を信じて死ぬまで夢を抱きつづけることだと思う。

 ブエノスアイレスに着いた途端、心筋梗塞で死んでも、それはそれで良いと思っている。

 何故なら今学んでいるスペイン語は未来も必ず役立つと信じているから。


[「文学横浜」30号に掲載]

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