セピア色の絵コンテ


作  上村浬慧

 【その2】


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雷さま

 駆けて戻ったのに、やはり家の中はしんとしている。憧子は、朝母さまがおっしゃったことを思い出した。もうすぐ父さまが退院される。だから母さまはサナトリウムにお出かけ。憧子はひとりでお留守番をしなければならなかったのだった。学校へ行くようになって、父さまの所へはめったに連れて行って頂けなくなっていた。

 戦争がすみ、父さまが日本に帰ってこられた朝の停車場、もくもく上がる蒸気機関車の、灰色と黒の混じり合った煙にむせながら、抱き上げられ頬づりされた時のお髭の痛さと、お土産のロシア人形を渡して下さった、それまで見たこともなかったがっしりとした手でしか父さまのことは思い出せなくなっていた。

 父さまがお帰りになったら、わたしはどんな風にしたらいいのかしら。憧子は玄関に蹲り、膝を固く閉じ合わせ、手を組んだ。父さまのお顔を思い出せない自分がとてもいけない子になってしまった気がしていた。背中のランドセルの重さが肩に食い込み、憧子の不安を一層大きくしていった。

*

 もわあっと生温かい風が吹いて、辺りが急に暗くなって来た。地鳴りのように雷鳴が響き、憧子は大急ぎで部屋の中に駆け込んだ。光ったら数を数えて。まだ大丈夫。と、母さまがいつもおっしゃることを呪文のように唱えながら、ランドセルを背負ったまま押入れから蚊帳を引きずり出した。蚊帳があれば平気。雷さまは蚊帳が嫌いって母さまがおっしゃってたわ。蚊帳の中にもぐり込んだ途端、銀色に眩む光が空を切り裂くように走った。雷鳴がひときわ大きく轟いた。家中が揺らぎ、天井や太い柱のきしむ音がした。母さま! お母さん、怖い! 憧子はあらん限りの力を込めて目を瞑り、両手で耳を塞いだ。雷鳴はますます大きくなり、近づいてくる。稲光と雷鳴の間隔が狭まり、憧子は震えた。

*

 雷鳴と違う音。乾いた地面を叩く音。雨かしら。一人ぼっちの不安に必死で耐えながら、憧子は俄かに降り出した大粒の雨の向こうに、おそるおそる目を走らせた。雷さまはどこ? お顔を見せて! わたし平気よ。父さまがもうすぐ帰ってらっしゃるのだから。キッと睨む憧子の目に、雨とは区切られた遥かな雲の上、角を生やした雷さまが見えた。小躍りしながら太鼓を鳴らしている。絵本に出てくる雷さまと同じだった。三人いる。笑っている。ちっとも怖くない。憧子は蚊帳の中からそろそろと這い出して縁側に立った。雷さまは憧子に向かって手を振っている。憧子に撥で合図を送ってくる。撥に合わせて雷鳴が轟く。空にも。土の中にも。雷鳴と雷鳴とが重なる。三人は憧子と同じ位の子ども雷さまみたい。憧子は瞬きもせずに雷さまを見つめた。雷さまが一緒に踊ろうと言っている気がして、憧子は縁側で足を踏み鳴らしてみた。憧子の動きに合わせて雷鳴は鳴り続けた。

 夢中になって踊っているうちに、雨はやみ、辺りは明るくなっていた。雷雲は遠のいている。憧子は雲を探した。雷さまの乗った雲は遥か遠くになっていた。

「この次はもっとでっかい音を出せるようになってくるよ。また一緒に遊ぼうな!」

 憧子の耳元で、確かにそんな声がした。憧子は小さくなった雲を見つめて頷いた。

*

「お留守番ごくろうさま。怖かったでしょう。通りの向こうに雷さまが落ちたんですってよ。ごめんなさいね。こんな時に憧子さんを一人ぼっちにして。ありがとう。父さまはとてもお元気だったわ。来週にはお戻りになれるのよ。よかったわ。」

 母さまの声がして、駆け出して迎えた憧子の前に、びしょ濡れになった母さまがにっこり立っていた。その後ろに、学校で同じクラスの女の子がもじもじと隠れるようにしている。

「まりちゃんのお母さまがね、憧子ちゃんがひとりだから行ってあげなさいって…」

 母さまとまりちゃんの後ろに、雷雲の端の方から輪を描いて、大きな虹が掛かっていた。

(続く)

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[「文学横浜」30号に掲載中]

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