「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2003年03月15日[掲載]


〔 風の便り68 〕

 老化です。と片付けられるが、このところ歩いていて膝ががくっと落ちることがある。両方だとひっくり返ってしまうが、どういう訳か片足ずつに起こる。階段を降りる時に起こるから駅の階段は甚だ不安だ。人の流れが途絶えてから降りようと思うがそうもいかない。老いるということは、こういう風にじわっじわっと来るようだ。

 このことを話すと、太腿の筋肉の衰えだと言う。その為には屈伸の運動と、歩くことしかないそうだ。

 友人から電話がかかると、必ずといってよいほど、今度はどこへ行くかと訊かれる。この便りにどこそこへ行ったことを書くせいかも知れない。話を聞いていると、皆さんだって方々に行っているのに、お披露目しないだけだ。家の中でごろごろしているくらいなら、一歩外へ出られたら出ることを奬める。が、足が痛いと歩く気にならない。お前は本当の痛さを知らないから呑気なことを言っている。そんな声が聞こえる。

 目的がないとなかなか歩けない。公園の中を歩くのは、今の時期は寒い。首にタオルを巻いて颯爽と歩いている人がいる。偉いものだ。私はそんな真似は出来ないから、似たような距離のスーパーに出かける。2階にある本屋を覗いたり、ことさら物販のコーナーをうろうろする。食品の売り場を避けるのは、すぐ買いたくなるし、試食をすすめられると断れない浅ましさがあるからだ。パリッとあぶられたウインナーを、小さな子供と一緒に手を出して、子供を叱る声に、こっちも叱られているようで首をすくめる。ポテトフライ、コロッケ、鶏の唐揚げ、かき揚げと好物の前を素通りするのは、辛いことだ。やはり散歩は公園の方に足を向けるべきなんだろう。

 ◆  ◆

 食い物の話が出ついでに、その後の糖尿病のこともついでに書いておきましょう。去年2週間の教育入院をして数値が平常になった。めでたしめでたしなのだが、2ケ月もすると元へ戻った。通っている医者に、もう一度入院しますか、と言われて節制を始めた。まず間食をしない。寝る前には何も食べない。一日少しでも歩く。カロリー計算をしながらの食事は味気無いから、出来る限り粗食に甘んじる。これを一週間実行しただけで、血糖値は下がった。なんだやれば出来るじゃないか、ってな調子で気を良くしている。

 好物のすき焼の肉を、カミさんが後ろを向いた隙に、豆腐の下に隠すなんて姑息なことをしないでもすむ。

 主治医の先生に、血糖値の記録を届けると、
「薬を続けるんだね。はい、次ぎ」
 3分診療どころか、1分もかからないで患者交替となる。

 隠れ糖尿病患者は大変な数らしい。ある日突然失明なんてことにならないように早目に医者にかかることを奬めます。

 ◆  ◆

 アゴヒゲアザラシのタマちゃんが、多摩川から鶴見川そして帷子川と移り住んで定住したらしく、横浜市西区では「ニシタマオ」として住民登録をした、と新聞報道された。

 ジョークなのは頭から分かっていると記事を書いた記者は思ったと見える。西区のPRでタマちゃん用の特別住民票を発行したとは書いていない。

 だから、外国人に住民票がない現状を訴えたいと、西区役所に要望書を在日外国人が届けるということになる。

「アザラシに住民票を交付したのなら、同じ哺乳類の人間にも出してほしい」

 こちらはユーモアたっぷりに、アザラシのメークをほどこしての行為だが、切実の問題の訴えであった。

 日本人はとかくユーモアのセンスにかける。在日外国人がタマちゃん風のスタイルで役所に行ったら、真剣な訴えをただの遊びと片付けられはしまいか。

 横浜市西区のHPにアクセスすると、「ニシタマオ」の特別住民票は貰える。2週間で6000枚もの交付があったというから世の中平和である。

 ところで、西区に「西 玉男」さんはいないものだろうか?

 ◆  ◆

 何の会だったか、遅く行くと偉い人の席しか空いてないことがあるから、いつもより早目に家を出た。うまい具合に中程の席に座ることが出来た。お隣りは歌人の塩野崎宏さんだった。NHKでは外国生活も長く、退職後は大学教授や様々な要職につかれている。私と違って大変な紳士である。

 NHKといえば私にも思い出がある。それは内幸町に日本放送協会のビルがあった頃の話で、例によって随分古いことだ。

 菊田一夫さんの「鐘の鳴る丘」が一世を風靡していた。菊田さんのお弟子に水沢草田夫さんがいた。私たちの「悲劇喜劇戯曲研究会」のメンバーで、一番の兄貴分だった。彼に私淑していたのが小幡欣治さん。水沢さんが兄弟子なら小幡さんは弟弟子。そんな存在だった。私が出版社に夜遅くまでいると知って、その弟弟子から電話がかかってきた。

「よう、まだ仕事終らない?」
「ああ、もうちょっと。なに?」
「お前も呼べって水沢さんが言ってるんだ」
「飲んでるのか?」
「とんでもない、仕事してるんだ」
「手伝ってるの?」
「まぁな……。そばに立っているだけだけど……」
 どうも様子が飲み込めない。
「で、どこにいるの?」
「NHKの2階。上がってくれば分かるよ。電気がついてるのは、そこだけだから」

 水沢さんはラジオの連続ドラマを持っていた。明治維新の青春像を描いたもので、最終近くなって筆が詰まってしまった。それで、その度に弟弟子の助けを求めていたらしい。私は一緒に書いていた訳ではないし、手伝うとしたら出来上がった原稿の校正をするぐらいのものだ。なんで呼ばれたのか分からなかった。

 昔は原稿を書くと、専属の印刷屋が待ち構えていて、すぐ必要な部数だけの台本を作ってくれる。謄写版印刷である。俗称ガリ版印刷のことだ。

「やあ来てくれたか。助かる助かる」

 水沢さんは一瞬手を休めたが、再び机に向かった。覗いて見て、驚いた。原稿用紙にではなく、謄写版の蝋紙に鉄筆でガリガリと書いている。小幡さんに目配せして、暗い部屋の窓辺に誘った。ひそひそ声で、

「どうなってるの?」
「ご覧の通り。印刷屋さんに渡す時間がないの」
「直によく書けるな。……それで、なにすればいいの?」
「うん、なんにもすることがないんだよ。謄写版で刷るのは俺がやるし。ただそばに誰かいてほしいらしいんだ。弱っちゃうよな」
「ガリ版切るのなら、俺も出来るけど……」

 鑢板に蝋紙を載せ、鉄筆で書くから、切ると言った。蝋紙が切れて穴があき、インクをつけたローラーでこすると印刷される仕掛けになっている。コピー機の出現前の簡易印刷機だった。

 しばらく近くの椅子に腰をおろして煙草をくゆらせた。広い部屋に、ガリ版を切る音だけが響いている。やがて終電間近かの時間になった。なにもしないで気がひけたが、小幡さんに腕時計を示し、手真似で失敬するの合図をした。彼も頷いてくれた。背を丸め、ガリ版を切るのに余念のない水沢さんの後ろ姿に、無言の挨拶を送り外へ出た。

 そんなことをかいつまんで話した。

 塩野崎さんとは関係のないことなので話さなかったが、ふと、あれはどうなったのだろうかと気になった。

 水沢草田夫さんは、いくつかのラジオの名作を残してこの世を去った。酒に酔って、家の近くの石畳みの坂道で転び、後頭部を打ったのが致命傷ということになっているが、進駐軍の兵士と喧嘩をして殴られ、転倒したのが原因と言う噂もあった。事実が不明のまま死因は謎となっている。

 ◆  ◆

 そう言えば、最近の火事の報道を見ていると、死者の出る出火が多い。以前は家は焼けても、人は助かっていたような気がする。

 最近でも子供を助けるために親が煙に巻き込まれて、3人とも命を落としたという。なんとも痛ましいことだ。火の中に飛び込む時は、頭から水をかぶり、ぬらした手拭いを口に当てる。とっさのことになるとなかなか実行するのは難しいが、戦時中には事あるたびに、このことは教えられた。

 家の建材に問題があるのか、素人の私には分からないが、かけがいのない命を失うことのないようにして貰いたい。

 ◆  ◆

 遂に今月で73才になった。よくぞここまで生き延びたと思う。長生きすると、見なくても良いことまで見る不都合もあるが、身体が不自由でないのは有難い。冒頭に書いたように老化は進んでいるが……。

 12年前にシルクロードを旅行したことがいまだに忘れられないでいる。前にも書いたが、敦煌に行った7月8日近辺に一緒に旅した仲間たちと、年に一度食事をしている。

 健康状態を考えると、残念だが旅にはもう出られない。

 NHKテレビが開局を記念して「シルクロード」を再放送していたが、最初に見た時の感動は起こらなかった。が、思いはつのる。どこかで講座はないものか。

 調べたらNHK文化センター横浜で、長沢和俊さんの「シルクロード」の講座があるのを知った。4月からランドマークの教室に通ってみようと思っている。

 03/03.11

 城井友治


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