「文学横浜の会」
随筆(城井友治)
2003年12月14日[掲載]
〔 風の便り 〕ー残年記ー
<77>
毎年のことながら、もう年末になったのかと、時の流れの早さにただ呆れている。
振り返って、今年一年なにをしたのかと思ってみても、ぶらぶらと生きて来た記憶しかない。
毎月のように旅に出られたのも、仲間が誘ってくれたからで、有難いと感謝している。
病気の方は、この歳になればどこかに綻びが出て当り前だと割り切っているから心配していない。
毎日のように医者のミスが報じられているが、私は良医に恵まれているせいか、今日まで無事に生きている。
これも有難いことだ。なんて悟ったようなことを言っていられるのも、無事である証拠だ。
医療ミスに遭って命を失っている人には気の毒だが、ここへ来て急に始ったことではないのだろう。
ただ知らされていなかったような気がする。毎年医学生が何百か何千と卒業している。
患者は実習の対象だから、悪くいえばモルモットである。先輩について数多くの患者を診ているうちに技術を習得してゆく。
長い時間をかけてやれば良いが、今はそれが出来ない。月謝を払って教えてもらっていた時と同じ感覚でいるからだ。
自分で技術を盗もうという人は育って良医になるが、それ以外の多くは流れのままに時を過ごしている。
今でもインターン制度があるかどうか知らないが、私の知っている時代にはインターン生は、ただ同然に働かされていた。
それが良いとは言わないが、ハングリー精神があったから少しでも良い医者になろうと努力したような気がする。
お医者さんは大変な技術者だ。その習練を積まずにマニュアル本片手にお腹をひっくり返されたのではたまらない。
国家試験は向き不向きをチェックしているのだろうか。事件を起こすお医者さんが多いのは困ったものだ。
これは医者の世界だけに限らない。専門家といえる人が少なくなった。
避雷針のアースの止め金をブリキでやったために、そこへ雷が落ちたなんてことは、笑いごとでは済まされない。
◆ ◆
情けないくらい忘れぽくなっている。ついせんだっても、小銭入れが見当たらない。
順序を追って探して行くと、どうもコンビニで使ったのが最後のような気がする。或いはそこで落としたのか。
念のためにそのコンビニに電話をかけた。小銭入れの落とし物はなかったか。
これこれの買い物をした者だがと言うと、店長が出て、私を覚えていてくれた。
「忘れ物は届いていませんが、後程調べましてお電話を差し上げます」
電話番号を教え、なんで覚えていたのかと感心していた。孫から頼まれた物を多く買ったせいか?
暫くして電話があった。
礼を言って、放り投げておいた袋を見たら、小銭入れはあった。
事件を起こした訳でもないが、知らない間に写し出されている自分の姿を想像して、うすら寒い気がした。
◆ ◆
いやな世の中になったものだ。学校帰りの少女が誘拐されるケースが多発している。
防犯ベルを持たせる家庭が多くなったと言う。その防犯ベルを貸し出す自治体もあるのだそうだ。
防犯グッズが売れて、それに関連する企業が忙しいとか。
その中に、パソコンの画面に少女がどこを歩いているか分るものもあると報じられていた。
自動車についているナビの応用なのだろう。
うん、これはいける。ボケが進んでくると徘徊をするようになる。
迷子札にそういう機能を持たせれば、警察から呼び出されなくてもすむ。
どこへ行ったか分らないのが即座に分れば問題解決になる。そういう利用の仕方なら賛成だが、こんなのは困る。
嫉妬深い奥さんがいて、ズボンのベルトにこっそり埋め込んだ。そうとは知らない旦那はいつものように夜遅くご帰宅。
「あなた、今日はどちらへ」
◆ ◆
鳥の仲間と軽井沢に行っていた。私は用事が重なっていたので、ホテルに直行した。
温泉にのんびりつかり、部屋に戻ると皆さんはドアの前でただずんでいた。
フロントではお一人お見えですと言われて、部屋にいるものと思ったらしい。慌てて鍵を回し、詫びながらドアを開けた。
バードウォッチングで軽井沢に来る時は、星野温泉か塩壺である。今度は塩壺だった。
ここも星野もバードウォッチャーの溜まり場みたいなもので、地理的な便もよく、利用度も高い。
中軽井沢からタクシーに乗った。私が、
「中軽井沢なんて言うより、沓掛の方が良かった」
「沓掛なんて、もうほとんど知ってる人はいないね。旦那さんぐらいの年齢の人しか知らないんじゃないかなぁ。
なにしろ軽井沢からこっちは第三セクターだからね。ここにいたんじゃ稼ぎも多寡が知れてますよ」
沓掛時次郎の銅像がつくられたことを聞いた記憶かある。
なんで架空の人物のそんなものを作ったのか訊くのを忘れたが、今でもあるのだろうか。それと油屋旅館。
少壮の文士が泊って執筆していた。大家はみな別荘を持っていたが、そこまで行かない作家の巣のような感じだった。
数年前に行った時には、ここがそうです。と言われて、昔ながらのたたずまいに懐かしい思いがした。
たった一度だけ原稿取りに油屋を訪れたことがある。どなたの原稿を貰いに行ったのか記憶は薄い。
FAXなんてない頃のスローが当り前の時代の話である。
◆ ◆
今年も喪中の知らせを多く頂いた。この歳になると当然のことかも知れないが悲しい。
ことに自分よりも若い人の死のお知らせを頂くのはやり切れない。
長生きしていると、知らなくてすんだことも知ることになる。つらいことでもある。
◆ ◆
わが家の前の坂道をとことこ下りてゆくと、16号の国道の手前に一軒のクリーニング店があった。
戦後すぐ夫婦者が店開きをして、朝早くから仕事をしていた。店からはいつももうもうと蒸気が窓から流れていた。
真冬の寒い時でもランニングとステテコ姿の親爺さんがアイロンを動かしていた。
時は流れ、驚いたことにその店の真ん前に、新しいクリーニング店が開業した。
こちらは集配専門の取次店である。せめて百bでも離れての営業なら分るが、目の前に店開きした神経が分らない。
零細な個人商店の集っている組合は、仲介しなかったのだろうか。
夫婦は花好きと見えて、店先には鉢植えの季節の花々がところ狭く並んでいた。
「この花、なんて言うの?」
私も1年間ほどの転居を余儀なくされ、その近くのクリーニング店の客となって、昔の店とは縁がきれてしまった。
暫くぶりに店の前を通ると、相変わらずスチームの音はしていたが、活気は見られなかった。
平屋トタン葺きの屋根や、屋号を書いた看板にところどころ錆が浮かんで、店は古びた感じが強くなっていた。
大学が近くにあるせいか、学生向けのアパートが建てられても、学生はコインランドリーを利用し、
この店の客にはならなかった。
ある日、集配専門の店が改装に入っていた。店を広げるのかと思っていたら、そうではなかった。
店を閉じて、そこを部屋にしたようだった。3年間、なんのために目の前に店を作ったのか。その神経が分らない。
それから半年、古いクリーニング店の入口のガラス戸に張り紙がしてあった。
競争相手がなくなったのだから、また元のように営業を続けるのかと思っていた。
もしかしたら夫婦のどちらかが病で倒れたのか。突然出来た店との戦いに疲れ果てた末の廃業なのだろうか。
転居先はマンションらしい地番で、屋号は書かれていなかった。
11月も末、ブルトーザーが入り、建物は消えた。
地ならしがされ、アスファルトが敷き詰められると、車4台の駐車場が生まれた。
ここになにがあったのか。はて、なにがあったのだろう。そう思いながら通り過ぎて行く人がほとんどだろう。
いずれは私も立ち止まって、首をひねることになるのだろうか。
◆ ◆
今年最期の旅は近いところで蓼科だった。新宿発8時の特急あずさ3号。
湘南新宿ラインが出来たお蔭で、横浜から新宿まで約30分。前泊する必要がなくなった。
以前はラッシュにぶつかるので、駅近くのホテルに泊った。場所は新宿、どうしてもブラブラしたくなる。
が、最近は夕飯を近くで食べると、まっすぐホテルのベッドで横になる。
ビジネスホテルだから、カーテンをひいていても、ネオンの赤青の点滅が目にうつる。
茅野の駅までは、ほぼ2時間の行程。湘南新宿ラインで来ると、特急列車のホームが隣りなので助かる。
東京駅経由だとホームを上ったり下ったりで苦しむ。
新宿駅全体のレイアウトを変更しているせいなのか知らないが、もっとエスカレーターをつけて貰いたいものだ。
新宿のプラットフォームの売店でサンドウィッチとコーヒーを仕入れ、待合室を覗くと、
すでに仲間の一人が眠そうな顔つきで待っていた。
「あれ、どうしたの?」
たしかにそういうことはある。まだ早いなと思って、目を閉じていると、意外なほど時間が経過していて慌ててしまう。
「一番近い人が一番早いのは当り前か。後の連中は八王子から乗るのかい?」
発車の案内が始った1分前、あたふたと仲間の1人が飛び込んで来た。
京浜東北線に乗って、東神奈川で乗換え八王子に行くつもりが、東海道線に乗ってしまったと言う。
こういうミスは年々増えてゆく。
今年は冬の到来が十日ほど遅いと土地の人は言っていた。山にも雪の気配がなく、鳥の姿が少なかった。
それでも白駒池に通ずる麦草峠の道は、11月25日から4月20日まで例年通り通行止めになっていた。
◆ ◆
一年間駄文につきあって頂き有難うございました。よい年をお迎え下さい。
03/12.12
城井友治
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