「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2004年1月11日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

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  平成16年(2004)新春

 今年も初詣は近くのお寺さんにした。カミさんの両親の菩提寺が、和田町の真福寺にある。隣りの駅だから歩いて行ける。

 近くに神社もあるが、何年か前にお札や破魔矢は自分で処分しろみたいな張り紙がしてあってからお参りしないことにした。

 足腰の衰えもあるので、わざわざ遠くまで行かなくなった。 信心深い訳でもないが除夜の鐘が鳴りだすと、あぁ初詣だと落ち着かない。 周囲に家が建ち並んだせいか、港で一斉に鳴る船の汽笛は年々聞き取れなく微かになった。 真福寺の住職はなかなかの人物で、法話を聞くのが楽しみだ。 元旦の午後ぶらりと出かけると、本堂には多くの信者が住職のお説教に耳を傾けていた。 満員でこっそり後ろに潜り込むことも出来なかった。檀家の人たちが振る舞ってくれた甘酒に舌鼓をうち、 墓に線香をあげて帰ってきた。

 日本人の生活には、旧暦の方があっているのではないかと、おっしゃる方がいる。 なにが根拠なのか聞き漏らしたが、それなりの理由があるのだろう。旧暦のカレンダーが結構需要があるのだそうだ。

 たまたま頂いたカレンダーに、平成16年、2004と書いてあり、その並びに大正93、昭和79と書き添えてあった。 これは便利である。昭和生まれには平成がどうにもうまくつながらない。 今が昭和79年と覚えておけば、昭和の50年生まれの女性は29才だし、同じフタ桁生まれでも、 10年だったらもう69才になるのか。なんてパッと分る。

◆   ◆

 長年使っている辞書が擦り切れてしまったので新調しようと本屋に出かけた。

「やいやい、このバカ野郎! テメェなんて豆腐の角にでも頭をぶっけて死んじゃえ!」
「なんだと、このとんちき! テメエこそ、なんだ、唐変木め! うーうー、ちょっと待て、辞書見るから」
「なにぃ、辞書だぁ、ふざけたこと言うな、バカ!」

 国語辞典のコーナーに、驚いたことに『罵詈雑言辞典』というのがあった。あきれて中身を見なかったが、 どんなことが書いてあるのか。罵詈雑言が辞書になるほど沢山あるのか。家に帰ってから気になった。 翌日本屋に行ったら売れたのか書棚になかった。さぁこうなると気になってたまらない。店員に頼んで取り寄せて貰った。

 手にして驚いたのは、8年も前に初版が出て翌年には3版まで出ていた。知らないのは私だけだった。 なかなか教えられる言葉が多い。

 例えば、「唐変木」なんてちゃんと出ている。引用させてもらうと、
  気の利かぬ人や偏屈な人を罵る言葉。わからずや、間抜け。
  語源も由来も分らず「唐変木」の字も当て字。
  「唐から来たような風変わりな木に似て、気のきかない人
  の意」↓ぶっきらぼう、偏屈、朴念仁。

◆   ◆

 40数年続いていた銀行を中心の親睦団体があった。その地域の中小企業とか商店の二世たちの集まりだった。 私も昭和40年鶴見の駅ビルに出店した時に、そのグループにいれてもらった。 メンバーはみんな20代から30代の若手で、一つ上の世代であった銀行の幹部に教えられることが多かった。 講演会や経済の勉強会、あるいは旅行、ゴルフ会と人生勉強の場でもあった。二水会というのがそのグループの名称だった。

 年がたつにつれ、メンバーは変らないが、銀行の支店長は次々と変った。 心の通う人もいれば、本店の意向だけに忠実な人もいた。高度成長時代、やがてのバブルの崩壊、 メンバーの中にも何人か犠牲者が出て、倒産の憂き目に遭い、仲間から脱落していった。

 いつの間にか、若手だった経営者も還暦を越え、古希を迎える年になった。行員は若く、昔の話をしても通じない。 次第に両者の関係は、ぎくしゃくし始めて来た。そればかりか、支店がもう一つ先の駅の支店に統合され、 そこが支社となって法人はその管轄となった。零細企業でも法人だから、取引銀行が遠くなった。 支店の店舗は一部がコンビニになり、ATMの機器と一緒に缶コーヒーが売られている。 個人の口座はそのまま残されているし法人の扱いだって疎漏にしている訳ではないと言うが、血が通わなくなったのは事実だ。 仲間うちからこんな話を聞かされた。

「今のままの返済では、あなたが亡くなっても借入金は残りますね」

 立派な大学を出て、優秀な成績で銀行に入ったのだろうが、デリカシィに欠けている。 思っていることが、ついぽろりと出るのは、日頃行内で言われているからなのだろう。 上司が若い人の尻を叩くのに使っている言葉に違いない。我々の零細企業は借金で回転している。 そのことが分っているから、貸す方でも無理のない返済の計画を作って指導してくれていた筈だ。 その好意を甘んじていた方もいけないが、経営者が死んでも事業は残る。

 国が中小企業の救済をしきりに言うということは、それだけ痛め付けている現実があるのだろう。 貸しはがしなんて今まで聞いたこともなかった言葉である。

「銀行だって潰れる時代なんですから……」
 そう言われると返す言葉もない。

 去年の12月19日に、この長く続いた「二水会」は解散した。挨拶にたった支社長は最後に言葉を詰まらせた。 歴史を閉じる役割を引き受ける羽目になった思いか。それとも単なる感傷なのか。 社員にリストラを迫る思いと同じものを感じていたのだろうか。

 飾りっ気のない人柄だけに、幕引きは気の毒であった。

◆   ◆

 高齢者とは、一般的には65歳以上の者をいい、75歳未満を前期高齢者、75歳以上を後期高齢者と分ける場合もある。 のだそうです。

 口の悪い仲間が、
「いよいよ我々も前期も終わりに近付いたな。俺のおふくろは、まだ生きてるが、するとなんて言うんだ? 末期高齢者かい?」

 この親不孝め、なんてことを言う。前期だ後期だと分けるのがおかしい。高齢者でいいのではないか。 そのうち寿命なんて言葉はなくなるよ。長寿がことぶきの時代ではなくなくなったんだから。 お役人がどんな命名するのか楽しみである。寿命で思い出した。

 平均寿命は男77歳、女は84歳と言われているが、この統計は年々伸びているらしい。 平均寿命は寝たきりの人も入っているから、論じられなければならないのは、健康寿命の方だ。 自分で最低限のことが出来るのが健康寿命。寝たきりの人は入っていない。 男は71・4歳。いろいろな病気を持ちながらも、健康寿命の平均を通り越して、 あっちこっちと旅が出来るのは有難いことだ。

◆   ◆

 去年から年2回の集りになった「くまそう会」(何度も出て来るが、都立2中・現、立川高校。 44期卒業のA組のクラス会)が例年通りの『銀座アスター御茶の水賓館』で開かれた。 2回目だと集りも少ないと思っていたが、6月の時から3名少ない14名が出席した。 年2回になっても、昔の話題は尽きない。今年のNHKの大河ドラマが「新選組」になったこともあって、 多摩郷士の故郷日野市が脚光を浴びている。日野で剣道道場をやっている山下勇君は、二刀流の達人で、 全国大会で毎年のように優勝している。去年も全日本高齢者剣道大会の個人の部で優勝した。 その彼がこれはお前さんにあげるよと、 「新選組を読む・調べるために」という日野市立図書館所蔵新選組関係資料のパンフレットをくれた。

「お前さんの本も載ってるからな」

 私が随分前に本にした「芹沢鴨の生涯」のことだった。

 山下君のことを、我々はみんな名前を呼ばずに『大将』と言っている。 当時は一番身体が大きく、餓鬼大将の風格があったがどちらかというと、侠客の親分がふさわしい。 強くを挫き、弱きを助けるといった昔風の気質で、我々クラスの者は心強いが、怖くもあった。

 世は戦時体制下、あだ名の『大将』は尊敬の念が含まれている。彼は剣士七段で、奥さんが剣道五段。 立ち会ってちょっと気を許すと、一本とられるそうだ。とられて喜んでいる愛妻家でもある。 1月5日のNHK総合テレビの正午のニュースのあと「ふるさと日本列島」日野市版で彼が紹介された。 少年剣士たちの剣道師範である。インターネットで「日野市剣道連盟」を検索すると、 二刀流を構えた山下剣士の勇姿を見ることが出来る。

 お父さんが近藤勇を敬愛していて、勇という名を息子につけたとは知らなかった。

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 長野県の田中知事がなかなかやるわいと思っていたが、長野県というよりは信州という方がなじんでいる。 それで長野を信州にする。と新聞が報じていた。これは頂けない。 長野県を信州にするとしたら、どのくらい費用がかかるかご存じなのだろうか。 そんなお金があるのなら、もっとやることがいくらでもあるのではないのか。 「信州自治共和国」を立ち上げる構想をぶち上げている。田中州知事が誕生するということか。 ご自分の小説の中でその構想を展開して見たらどうなんだろう。県民税を使わずにすむ。 ちょっと思い上がっているのではないのか。

◆   ◆

 一つの災害が思いがけないところに影響している。
 十勝沖地震による出光興産竃k海道製油所の石油タンクの炎上である。

 三鷹市の国際キリスト教大学の近くに、『中近東文化センター』という施設がある。 ここは有楽町にある「出光美術館」と同じ出光石油が支援している文化事業の一つだ。 中近東の文化遺産の発掘の援助やそれらの国の歴史、文化、宗教などについて展示をする広々としたギャラリーもある。 三上次男先生がお亡くなる前の一時期、館長をなさっていた。 鎌倉アカデミアで先生の授業には一、二度しか出ていないが、心ひかれる先生だった。 先生が長年蒐集された「古代ぎれ」の展示のご案内を頂いて見に行った。 門外漢の私にはその価値は良く分らなかったが、人の姿の少ない館内は静かで気持ちが落着いた。 常設のコーナーを覗くと、エジプトのミイラの木棺があった。 前後左右と回って見ても、誰にも邪魔されない雰囲気は有難かった。 セルフサービスの紅茶を飲み、暫くしてからまた見て回った。 考古学の専門知識はなくても、その時々の展示を見ることで安らぎを覚えたものだ。

 去年の暮れに、研究は続けるが、展示室などの機能は閉鎖すると連絡があった。

 近くに神代植物園や深大寺があり、一日の命の洗濯には格好の場所だったのに残念である。 改めての開館を期待している。

04/1.11

 城井友治


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