「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2005年01月09日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

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     年去り年来って、平成も17年になりにけり。

 ちょっと気取っているが、これは「平家物語」巻第三の終章に出て来る文語を拝借したもの。 原文は治承4年(1180)である。前年、平重盛を亡くし次第に清盛の専横が激しくなり、 やがて平家滅亡の途をたどることになる時代である。

 丁度大河ドラマの「義経」が始る。 原作を宮尾登美子さんのものを使うらしいから「新選組」のようにはならないだろう。 「新選組」の評判は良くなかったが、あれは三谷幸喜さんの「新選組」で、とやかく言っても始らない。 役者が下手でどうにもならなかったのか、どうか。全然見なかったから言う資格はない。

 私が全然見なかったのは、自分でも「新選組」を書いているからで、歴史家でないから、いい加減なところもある。 空想をさしはさむ余地があるから三谷さんも書く気になったのだろう。 先だって日野に住む剣術家の友人山下勇君が、
「どうも近藤勇は、芹沢鴨に惹かれて行ったよな気配があるな」と話していた。

 その記録を見せて貰った訳ではないが、脱藩浪人とは言え、れっきとした水戸藩の武士。片方は郷士である。 見くびって言う訳ではないが、階級制度の社会では格段の差がある。 統率者の一人として近藤勇には学べきことが多かった筈。

 ここで「新選組」を語っても仕方がないが、明治維新の頃を材料に長編小説を書こうと調べていると、 鹿児島県人には悪いが、西郷隆盛の幕末の行動にはひっかかるものが多い。 勝てば官軍のたとえの通り、歴史は都合の良いように作られている。 史観の見直しがしきりになされているが、こうした問題は歴史家にまかせよう。

◆ 平成16年は災害の年。新潟中越地震が最後かと思っていたら、 年末の26日にマグニチュード九・Oというとてつもない地震がスマトラ島沖に起きた。 インド洋の沿岸ばかりでなく、アフリカの海岸にも津波が押し寄せたというから驚きだ。 津波の経験がない地域だったので、死者が最初は2万人、情報が分かってくると、その数は15万人を超えたという。 なんとも痛ましい。日本人の観光客がリゾート各地に1300人も行っていたという。 大手旅行会社のツアー客の安否は全部掴めたが、小規模の旅行社の計画した特殊なツアーの消息が掴めていない。 添乗員が現地調達だろうから、連絡の不備があるのか。 また個人旅行が流行っている昨今、冒険旅行と違うから行き先の申告なんかしていないだろう。 行方不明の人たちの存命の可能性は低い。つらいことだ。

◆ このところ朝飯は茶粥にすることが多い。なんのことはない、2人だけの御飯が余ってしまう結果なのだ。 炊飯器で2合の米を炊くと、カミさんはパンを食べたり、昼は麺類が多いから御飯が残る。 2日目は残り御飯を粥にする。正式な粥ではないが、老人の朝飯には食べ易い。 お茶を湧かした中に、冷や飯を入れるだけのことだから簡単である。 茶粥とは言えない、お茶のおじやと言った方が適切かも知れない。

 昔、京都の南禅寺の近くに泊まることがあったから、後学のために『瓢亭』で朝粥をおごった。 値段も良かったが、消化も良かった。

 和歌山の伯父さんが横浜へ来ると、朝は必ずお粥だった。 あんなもので元気が出るかと思っていたが、自分もその年になると、胃にはお粥が楽のようだ。 ホテルのバイキングでも置いてあるから需要も高いのだろう。

◆ NHKでプロデューサーの不正行為が発覚して、会長を辞めさせろという声が高かった。 三時間余の国会の喚問を中継放送しなくて、 1時間に短縮して放送したのはけしからんと識者と称される人たちが息巻いていた。

 事件が起きると、トップが責任を取って辞めてしまう。責任を取っているようで問題は解決していない。 だから、経済同友会の人がまず会長として、こういうことの起きない体制を作ることが先決だと言って、 進退はその次と言っていたのが正しい。

 国会中継にしても、追及の論議を3時間も見ている根気が一般の人にあるだろうか。 あんなものは、ダイジェストで十分である。

 放送局とプロダクションの関係は、今始ったことではない。俳優さんたちは単独で、出演交渉をしている訳ではない。 大概プロダクションに属している。その会社が放送局の意向にそって俳優さんの割振りをしている。 力関係にもよるが、仕事を貰えないと、属している俳優さんばかりでなく、プロダクションも干上がってしまう。 怪しげな関係が生まれる素地はある。何事によらず、持ちつ持たれるはエスカレートして行くものだ。

◆ 「ゴジラ」がハリウッドの映画の殿堂入りしたそうである。 それがどういうものか好く知らないが、野球の殿堂で推し量ると、映画界に功績を果たしたということらしい。 円谷特殊監督の撮影技術のなせる技がアメリカで高く評価されたようだ。

 余り知られていないが、「ゴジラ」の第一作の脚本を共同で書いたのが、村田武雄さんで、 この人は鎌倉アカデミアの映画科で講座を持っていた。 映画の講義では、野田高梧さんの「シナリオ作法論」を受けた記憶があるが、村田さんの講義を聞いた覚えがない。 きっと映画科が誕生し、重宗和伸さんが科長として赴任してからなのだろう。 私が同人雑誌の「茜」に誘われて入会した時、メンバーの中に、村田さんのお名前があった。 亡くなられた後で、村田さんの著作集を出すところだった。 頒けて貰った筈なのに、どこへしまい込んだか見当たらない。記憶も自信がない。

 アメリカで大当たりを取った作品で、何作もアメリカ映画で作られているそうだ。 映画マニアならいざ知らず、そんな人気の作品になっていたとは……。

◆ 去年の暮れの鎌倉アカデミア演劇科の同窓会に、同級生のカバちゃん(川久保潔)が手紙を見せて、 「青江先生の生誕100 年の記念として、拓ちゃん(先生のご子息・映画監督大島拓)が先生の作品のCDを作るのに、 日下武史さんと協力しているんだ」と話してくれた。明治38年は1905年。そうか100 年か。 では、うちの義父村井菊次郎も先生と同じ年だから、丁度100 年である。

 NHKでシルクロードが放映されたのが25年前。このテレビ放送に触発されて、敦煌への旅を思い立った。 その思いを一番最初に投げ掛けてくれた人が、鎌倉アカデミアで教鞭を取っていらした劇作家の青江舜二郎先生だった。

 1月2日から、新シルクロードが始まった。懐かしい。

 私がツアーに参加したのは平成3年(1991)だから、今から14年も前のことだ。 その時一緒に旅をともにした人たちと、毎年出発日の近くに会食している。

 当時のことを書いた原稿がある筈だと、探したら出てきた。ご覧頂いて、私の記念の印としよう。 題名は『旅、遥かなり』となっている。

       旅、遥かなり

 近ごろとんと眼が悪くなった。 歩いていて、「おや、時計が落ちている!」こっそり拾おうとしてよくよく見ると、ビールの王冠だったりする。

 行きつけの小料理屋のママさんに、「この頃綺麗になったナ」言うと、
「分かってるわヨ、眼が悪くなったんでしょ!」と、先を越されてしまう。
 昨日も礼状を書きながら相手の名前が思い出せない。二階から、
「オーイ、北海道の……。名はなんて言ったっけ?」
 始終のことなので、カミさんも馴れている。
「××さんでしょ。下の名前は……」
「下の名前は分かっている!」

 分かっちゃいないんだが、住所録を見れば分かることなので、殊更に威張って言う。 上も分からず、下も分からないのではコケンに関わるというものだ。 物忘れはボケとは関係ないとおっしゃるが、隣り合わせているような不安を感じるのは私だけだろうか。

「何処へ行きたいですか?」
と訊かれる時がある。さて、「何処へ?」 と考えてしまう。

 正直なところ何処でもいい。見知らぬ土地へ行き、ぼやっとしているのが好きなのだから……。 でも、訊いて下さった方に悪いと思って言うことにしている。
「そうですねぇ。西域かなぁ。シルクロードの道をたどりたいですねぇ。それとアラン島かなぁ」
「アラン島?」
「えぇ、アイルランドの……」

 シルクロードとアラン島とは全然関係がない。が、しかし私の心の中では一つになっている。 それはいずれも劇作の指導を仰いだ劇作家青江舜二郎先生に関わりがあるからである。 先生のご専門はインド哲学で、中国演劇の第一人者でもあった。劇作法の講義の合間に、 談たまたまシルクロードにおよぶと、もうその日の講義は、砂嵐に吹き飛ばされてしまった。 先生は戦時中も長い間中国にいらしたから、果てしなく広がる砂漠の荒野の有様をいやっというほどご存じである。 しかし、講義を受ける我々には、地平線までも続く砂漠なんて想像してもピンと来ない。 そう言っては失礼だが、先生がひとりコーフンしているような感じでもあった。

 張騫という人が往復するだけで13年の歳月を要し、あの「西遊記」の三蔵法師は半生をこれに費やした。 聞いているだけで、全く気の遠くなる話だった。

 当時はまだ中国は、西安からのシルクロードへの道を観光に解放していなかった。

 先生が「鎌倉アカデミア」で演劇科の授業を持たれたのは、昭和22年(1947)で、 井上靖さんが『敦煌』を文芸誌の『群像』に発表されたのは、昭和34四年(1959)である。

 井上さんも書いておられるが、『敦煌』の地を踏まずに書き、 後にNHKがテレビで放映する時に初めてシルクロードの大地を大変な思いをして歩かれたそうである。 私はNHKの『シルクロード』に触発されて、 書棚の隅で埃を浴びていた青江先生の著書『シルクロードのドラマとロマン』を取り出して読み返したりした。 そして一度は『敦煌』に行ってみたい思いをつのらせた。
 (つづく)

 今回は前述のようにシルクロードにまつわる思い出を綴った。 続きものになってしまうのをお許し願いたい。

 また、こちらからは年賀状を出しませんと申し上げましたが、多くの方から新年のご挨拶を頂戴しました。 この場を借りて御礼申し上げる次第です。

05/01.07

 城井友治


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