「文学横浜の会」
随筆(城井友治)
2005年07月15日[掲載]
〔 風の便り 〕ー残年記ー
<93>
夏が来た。相変わらずの気象異常で、集中豪雨で洪水にあっているかと思えば、
九州地方の一部では渇水で給水制限があった。
なにが原因でこうしたことが起こるのか、異常としか言いようがない。
この『便り』も5月の半ばに出したきりで、6月も休んだ。5月の定期検査で病院に行ったら、またまた即入院。
今度はもしかしたら危ないと思っていたが……。
それというのも、数日前から顔や足にむくみが出てきた。腎臓悪化の象徴。
ところが入れられた病室が隔離病棟の一室。レントゲンで分かったのが、肺の影の異変。
肺結核が再発したと判断されたようだ。痰の検査、気管支鏡での検査と調べられたが、結核の兆候はなかった。
さあこうなると何が原因なのかの追及が始まった。
こうして5月23日から6月の16日までの25日間の病院暮らしとなった。
5月の24日からは人工透析が始まった。週3回、4時間拘束されることになった。
人工透析の患者が増えている。それも糖尿病からくる腎不全が多いのだそうだ。
うっかり聞いていたので確かでないが、糖尿病患者は650万人、透析を受けているのが24万人。
随分少ないように思うが、亡くなる人も多いのだそうだ。覚悟しろという数字のようだ。
病院暮らしは時間があり余っているようで、集中出来ない。
本を持っては行くが、字を追っているだけで頭に入らない。
こういう時は、天井を眺めながら妄想にふけるのが一番だ。若い頃と違って、妄想といっても素直なものだ。
次は妄想の一端。
どうもボケという言葉がなくなって、認知症と言うのはよく分からない。
どこそこの神社の御札は認知症封じになっているのだろうか。ボケ封じの方がピンと来るが……。
人工透析をすることになったのは、治療の最後の手段に違いないが、時間がかかるのが玉に傷だ。
月水金と週に3回、午前9時から午後1時過ぎまで4時間、人工腎臓のろ過装置で老廃物を浄化する。
この専門病院は日本全国にあるから、旅をしようと思えば出来る。行った先で治療して貰えばいい。
と言うが、理屈で分かっていても、注射をして貰うのと違って、はい、そうですかという気にならない。
でも、やって見たい気はする。
◆ 道路公団がからんでの談合事件。民間企業に天下った人たちは、自分の給料ぐらい稼ぎ出さないと居心地が悪い。
企業にしても、そのくらいの仕事をして貰わないと困る。
なにも今始まったことではない。民間でも天下りとは言わないが、
下請け企業は人的な繋がりで親会社との関係を深くする。会社の中枢に坐れる人物は別だが、
人事がらみで仕事をとるのが日本的な商習慣だった。これで天下りの受け入り先が少しは減るのだろうか。
郵政民営でごたごたと議論を重ねてきたが、反対論者の意見を聞いていてあきれた。
離島への宅配便が桟橋までで、後は島に任せっ放し。
これは党の代議士が学生時代に体験したことで、こういう有様では民営化したらどうなるか。
過疎地、離島が捨てられるという論法らしい。しかしこの代議士の質問もお粗末だ。
党の代議士の学生時代とは何年前のことか。名のある代議士だから、二十代とは思えない。
十四、五年も前の宅配便のことを持ち出すとは世間知らずもはなはだしい。
人の話ではなく自分で足を運んで実体を見て来たら、どうなんだと言いたい。
それからはバカバカしいから政治中継のテレビを見ないことにした。
◆ NHKの世界遺産の番組が面白い。行けなくなった身には、有難い極みだ。
横になって何時間もいると、難しい番組は疲れる。
自然への紀行とか、温泉につかってうまい物を食う番組にチャンネルを回す。
旅館なり料理屋の宣伝と分かっていても、行ってみたい気になる。
テレビマンもあまり面倒なことは嫌いらしく、あっちの番組が当たっていると聞くと、
次々と同じような番組をかけるから、面白くない。
露天風呂に入って、うまい物を食ってギャラが貰えるなんていい役柄だ。自分が食えなくなったからヒガミもある。
二言目にはジューシー、ジューシーと、他にいいようがないのか、文句をつけても、これもやっぱりヒガミと言われるな。しかしテレビがつまらなくなった。
こうしたバカらしいことを考えるのは、病気が快方に向っている証拠でもある。
NHKの海外番組ではタレントを使わずに、アナウンサーを登場させているのは、好いことだ。
若い人たちが、一生懸命なのは、たどたどしいこともあるが、好感がもてる。
それよりも、彼等の将来の財産になる筈だ。
訃 報
入院中の一日、外出許可を貰って家にいたら、友人の画家堀江博子さんから電話を頂いた。
展覧会の出品で多忙を極めている人だから、展覧会の案内かと思った。
ところがご主人の康さんが亡くなったという。びっくりして、「えっ、いつ!?」と思わず叫んだ。
3月18日と聞いて、なぜ教えてくれなかったのかと言うと、無宗教だから身内だけですましたと言う。
あれは16年も前のことだったか、脳内出血で倒れた時に、博子さんから電話を貰った。
康さんは外国航路の船長さんだった。実に颯爽としていて惚れ惚れする好漢だった。詩を書き、童話も書いた。
知らない外国の港を舞台に、少年と船員の物語なんか作れないかなぁ。なんて余計なことを言ったりした。
定年前に退職して、外国航路の雇われ船員の待遇があまりにひどいので、その救済を志し船員専門の弁護士になった。
倒れたのは、住んでいる横須賀馬堀の里山に宅地開発が持ち上がった時、
隣人たちと緑を守ろうと反対運動に参加しての出来事だった。
博子さんのたっての願いで命を取り止めたが、半身不随の上、全失語という重い障害が残った。
博子さんの戦いが始まった。
一口に16年と言うが、この歳月は大変なものだ。
時たまその様子を知らされると、博子さんの身体の方が心配だった。
カミさんと女学生時代の友人だから、旦那とそう歳は違わない筈。介護をしながら重なる展覧会への出品。
ついに彼女も脳梗塞で倒れた。
夫へ手を貸すことが出来なくなったので、近くのホームに入れて貰った。このことも後から手紙で知った。
そこが康さんの終焉の地になった。
康さんから貰った詩が手元にある。長編の詩なのでその一部を紹介します。
おれは船のりだった
謹んでご冥福をお祈り致します。 合掌
05/07.11
城井友治
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