「文学横浜の会」

 随筆(城井友治)

これまでの随筆

2006年2月4日[掲載]


〔 風の便り 〕ー残年記ー

<98>

 今年は暖冬という予測を裏切って、寒気が入り込んだとかで一段と寒い日が続いている。 あれだけ気象衛星を打ち上げても、予測は難しいもののようだ。豪雪に見舞われている地方の方々、 大変な思いをなさって雪と戦っている筈、胸が痛みます。 テレビでしばしば報道される津南は、秋山郷を控えた山間の僻地だった。 越後湯沢へ抜ける自動車道が整備されてから一度近くを通ったことがある。 良き時代の風情を残した農村だったが、自然の猛威にさらされている。

 この便りを休んでいる間に、耐震偽造事件が起きた。 不思議だと思うのは、調べ直したらすぐ強度をごまかしていたと発表されたことだ。 そんなに簡単に分かるのなら、検査がいい加減だったことになる。

 入居者はマンションの構造の説明を受けても、専門家でもない限り、ああそうですかと聞くぐらいで、 部屋の広さや居住性に重きを置いて説明に頷くものだ。まさか構造上問題があるとは購入者は思ってもいなかっただろう。

 国会の証人喚問があったが、証言拒否が続いてなにがなんだか分からない。 そこへ持ってきて、ライブドア事件、マスコミの視線はそっちへ向いてしまったから、 ヒューザーの社長はほっとしているに違いない。いつも痛い目にあうのは被害者の庶民だ。

 野党の政治家は小泉内閣を倒すことに躍起になっているから、元国土庁長官が陳情を受けて国土庁に連れて行き、 課長に口をきいたことを追及している。 軽率のそしりは免れないが、構造偽装を知っていたら、まず連れ立って行くことはしなかったろう。 政治家の資金あつめのパーティ券を多額に購入しているのであれば、一度ぐらいは紹介の労を取るのは常識である。 野党が与党になったら、同じことをする筈だ。

 先の総選挙にホリエモンを担ぎあげた自民党は、苦い思いをしているに違いない。 時代の寵児だったから、自民党の幹部が応援演説に駆け付けたシーンが映像に残っている。 マスコミに取っては、これほど有難い材料はない。戦後すぐ「光クラブ事件」というのがあった。 東大生が金貸し業を始め多額の利益を得た。もちろん法の網をかすめた行為で、司直の手にかかるが、 それによって法の抜け道を正す改正が出来たと記憶している。彼も時代の寵児だった。 昭和史年表によると、「金融業『光クラブ』経営の東大生山崎晃嗣、資金につまり青酸カリ自殺。 アプレ犯罪のはしりとなる」とある。昭和24年(1949)11月24日のことだ。

◆ アメリカ産の牛肉の輸入が再開されたと思ったら、また禁止。輸入条件の背骨の除去がなされていなかったのが、その理由。 あれだけ牛肉の解禁を迫っていて、議会でも輸入をしないのなら、日本からの輸入品をカットするとか脅迫していた癖に、 全くお粗末である。検査官に日本向けの牛肉の仕様が徹底していなかったとは。BSEの危険部位の除去に脊髄がある。 背骨に脊髄が通っているのはバカでも分かる。甘く見られている。

 日本に輸出する牛肉だけがなんでそんなことをするのか、そういう感覚なんだろう。 いずれ日本の仕様が世界的な条件になると思う気がする。

 輸入再開でせっかく牛肉の価格が落ち着いたのに、また国内産も値があがる。牛肉だけでなく豚肉もあがるのだから困る。 と業者は嘆いていた。

◆ また免許証の書き換えがきた。あれから3年たった。早いなぁ。高齢者の事故が多いと報道されるたびに、 自分が言われているようであんまりいい気がしない。

 カミさんは免許証を返上した。高齢者講習会の通知を見ながら、どうしようかと迷ったが、もう一回だけ取ることにした。 講習会の結果は前回の資料と対比すると、やはり随分落ちている。 「また3年後にお会いしましょう」なんて検査官は言ってくれたが、まあこれが最後だろうと思っている。

◆ 人並みに電話を使うよりメールで連絡をする機会が多くなった。 相手が原稿書きだと興が乗っている時に電話はうるさいのではないか、 その点メールは自分の都合で見ればいいのだからということだ。

 だがこういうこともある。先だっての大雪の日、こんな時に散歩にも行かないだろうとメールをやめて電話をした。 共通の友人の話やらお互いの体調のこと、PCの設定など所謂世間話である。 メールだと分からない声の響きが安堵感を与えてくれた。

 相手をしてくれたフーちゃん(有高扶桑)も同じ思いだったと見え、話が出来て良かったと喜び、 私が質問したPCの設定について細かくメールで教えてくれた。

 青春時代のお互いのコミニュケーションは手紙だった。それが電話になり、メールに進化した。 便利にはなったが失われたものもある。人間味である。

 劇作家の石崎一正が健在だった頃、暇な時間を見計らってよく店にきた。話しているうちに段々と声が高くなる。
「石さん、声が大きいよ。もっと静かに話せば……」
「すまん、すまん。家にいても誰とも話す機会がないんでね」

 一人暮らしの生活だと話をする相手がない。話し相手が見つかると嬉しくって、つい声高になってしまうらしい。 それが分かってからは、声が大きいとは言わないことにした。

◆ 『ヨコハマメリー』という映画がこの春上映される。その宣材を貰った。 五大路子さんが一人芝居で上演しているが観に行ったことはない。なんとなく白けた気分になってしまうのだ。 それは我が家の軒下に立っていた娼婦のことだからである。名前は知らないが、私たちは「バラ色の貴婦人」と呼んでいた。 ピンク色のうすいドレスを身にまとっていたし、ほかの娼婦とはちょっと違った雰囲気を持っていた。

 私の家は、伊勢佐木町4丁目の角にあって、1階は『パール食堂』という大衆食堂の店で、2階が住居であった。 四辻の向かいの奥に『根岸屋』があった。そして店の裏の路地が、『親不孝通り』と称する小さな飲み屋さんが並んでいた。

 そこで働く店員さんたちが、始終食べにきていた。夜中の12時近くに店が閉まると、 入り口の軒下が四つ角を見渡せる格好な場所になる。店の明かりを消しても、伊勢佐木町通りの街灯でほのかに明るい。 『根岸屋』から酔っ払ってふらついて出てくる客が獲物だった。うちの軒下は彼女のショバで、ほかの誰も立たなかった。 そんな話をしたら、亡くなった友人のカンちゃん(中野寛次)が、わざわざ泊り込みで見に来た。 丁度フランス映画の『娼婦マヤ』が評判になった頃で、興味を持ったのだろう。 2階の小窓からは彼女の動作が見え難く、睡眠不足になった思い出も懐かしい。

 どんな映画になるのか、観に行こうと思っている。テアトル新宿と横浜ニューテアトルで上映されるらしい。 日時は分からない。

◆ 近ごろよく夢を見るようになった。それも亡くなった友人の登場が多い。 前述のカンちゃんもそうだが、彫刻家のハタさん(羽田弘)も出てくる。 テレビでアンコールワットの遺跡なんかが放映されると、一緒について行きたかったからだろう。 雪が降ると、カメラマンのヒデさん(加藤秀秋)。スキー場で捻挫し、上野駅まで彼にかかえられて帰ってきた。 連想して夢に出てくるのだろうか。しかし話はしない。すーと通り過ぎて行く。
「おい、どうした?」
と、こっちが声をかけても、向こうは知らん顔だ。入道(折井寿夫)もそうだった。
「なんでこんなところにいるんだ」
不思議がっているうちに消えた。
 昔の仲間がこっちへそろそろ来いよと、誘っているのかも知れない。

◆透析あれこれ◆

 透析を始めて半年、100 回を越えた。3か月か半年と宣告された身の上。透析で命を永らえているのは間違いない。 同室の患者さんで10年、20年と続けている人たちがいる。その人の話を聞いていると、食事のコントロールと運動だと言う。 その方は週に一度水泳教室に参加して水の中を歩くのだそうだ。 とてもそれは無理だと話したら、歩くことです、散歩をすることです。 よりも少し年下の年齢のようだから、だいぶ早くから透析をしている筈で帰り支度を見ていると、健康人と変わらない。

 そうは言っても、時々穿刺(血管に針を刺すこと)がうまく行かなくて、内出血をおこしたり、透析が終った後、 血圧が急に下がって更衣室の前で転倒してしまう人もいる。

 同じ血管に100 回も針を刺していて、血管がよく持つものだと感心している。 十数年透析をやっている人の血管を見ると、腕に膨れ上がっていた。その人は、
「いよいよ駄目になったら、人工の血管と取り替えると先生は言っているけど、まだ大丈夫だってさ」
 と、屈託がない。100 回ぐらいなんだという表情だった。

 一週間ほど前に隣のベッドに若い人が入ってきた。身障者手帳が交付されたら、就職活動をするんだと話していた。 そういう人のために、午後六時からのコースもあるのだから、働きながら透析を受けている人も多いのだろう。

 限られた命と思う悲壮感はだいぶ薄れた。そこで頭をもたげて来たのが旅である。だが一泊しか出来ない。 土、日なら休みだが、なるたけなら平日を利用したい。系列の病院が網代にある。伊東に泊まって、と計画をねった。 透析のデータを送る都合があるから一週間ぐらい前に申し込んで下さいと言う。

 その網代の病院は駅のホームからも見えた。貰ったパンフレットには、海の見える病室とあったが、 たしかに病院は海沿いの国道の脇に建っている。夏場は海水浴の客でさぞ賑やかなことだろう。 決められた午後1時半のちょっと前に顔を出すと、受付の女性が感じのいい人で、名乗る前に私の名前を言った。 手続きがすむと、2階の透析室に案内してくれて、後は透析の係の看護師さんにバトンタッチ。 ロッカーは旅行者用というのがあった。「あら、鍵がさび付いているわ」なんて言っていたから、 あまり旅人の利用はすくないのか。鉄筋4階建ての建物だから、波の音が聞こえる訳ではないが、気分はいい。

 透析の始まる定刻近くになると、車椅子に乗った患者が6人ほど病棟から降りてきた。 外来は私を入れて6人、車椅子の人たちが年配者なのに比べて、驚いたことに外来患者は若い人が多い。 私のような老人はいない。系列の病院だから装置の機種は同じ、ただ違うのは、全部がベッドだった。 横浜のようなリクライニングの椅子はない。ベッドに寝転がってしまうと肝心の海の景色は見えない。 4時間の透析を終えたが違和感はなかった。

 伊東に帰ったのが6時半、駅前で食事してホテルに帰る。
 これで伊東を起点にして行動するメドがたった。

 寒中お見舞い申し上げます。

 年賀状は出しませんと勝手に決めて、年末から正月にかけてのんびりさせて貰いました。
 にもかかわらず、多くの方々から年賀状を頂戴しました。有難うございました。

06/2.1

 城井友治


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