「文学横浜の会」

 随筆


(メンバーが不定期に書いています)

2002年10月14日


「よのもり駅」

「こんにちは」

 風のいたずらかしら。そう思わせるほど軟らかな声だった。声のするほうを振り返ってみると、私の側を男子生徒の乗った自転車が通り過ぎた。黒の学生服が真新しい。学帽を深くかぶったその顔を見ることはできなかったが、八年ぶりの里帰りの感傷に浸っていただけに、彼の突然の出現は学生時代のひとこまと合い重なった。

「こんにちは・・」

 しどろもどろで答える私の声が届かなかったのか、彼の姿は無情にも乳白色の霧の中に消えようとしていた。すでに散歩は一時間をとうに過ぎていた。ちょっとそこまでと思ってカメラ片手に歩いてはみたが、実家から一キロメートルと離れていない中学校のテニスコートの前で、すでに私の足は止まっていた。

 二面のコートは当時のままだったが、木造の長屋のようなおんぼろの更衣室はなくなっていた。汗と涙のしみ込んだあの壁は、青春のほろ苦い感傷とともに廃虚と化したのか。更衣室の裏手は土手になっていて杉の木立ちがあった。練習の合間に座り込んで友と語らった。それも今はなく跡地は奇麗に整地されていた。

 私はコートの中央から審判席を見上げると、梅雨空の雲の間から太陽が一瞬顔を出した。光は軟らかに広がって乳白色の霧を包み込んだ。それが渦を巻いて私に迫ってきた。私にはそれが軟らかな軟式のボールに見えた。はっとして慌ててラケットを握り直し白球を向い打った。ボールは相手の横をかすめるようにコートを走っていった。

「オンライン。ゲームセット」

 拍手が起きた。いつのまにか観客が膨れ上がって私を取り囲み「おめでとう」「良かったよ」と歓声をあげた。皆にもみくちゃにされながら、壇上に上がった。地区大会優勝の瞬間だった。

 鼻の奥がつんと痛くなった。歳のせいで涙腺が緩くなったのか涙が溢れた。私はこれ以上ここに留まるのを止めた。後ろ髪引かれる思いで鉄筋に建て替えられた校舎を後にすると「はちけん道路」は目の前だった。

「はちけん」とは昔の言い方ではあるが、文字通り道幅が約十五メートルで、中学校を境に左右に二キロほど続いている道路である。まるで地上から長方形に定規を当てたような、まっすぐに延びた道である。地図にも載っていない呼び名は、はたして今もそう呼ばれているのか定かではない。

 部活を終えて下校する私達の語らいの道路は、桜並木に姿を変えていた。横浜に嫁ぐ日に見た若枝は、その後の歴史を見てきたような顔で堂々と立っていた。すでに葉桜となった木々は、それでも葉を道路一杯に広げ、私を歓迎してくれているようだ。私は道路の中央で仁王立ちになってシャッターを切った。

「おい、危ないぞ」 「大丈夫。車はめったに通らないんだから。この辺りは私にとって庭みたいなもの。これでも君より先輩なんだよ」

 私は彼ら(桜の木)を見上げながら言った。

「失礼しました」と、君がそう云ったかは分からないが、私は彼らを後にして目指す目的地に向かった。

 一番来たかった「よのもり駅」は無人駅になっていた。

「夜の森」初めてこの場所を訪れる人は「よるのもり」と読んでしまう。建物と対照的に切符の自動販売機が真新しい。木造の引き戸もベンチも改札口も当時のままだったが、この静寂が私をより過去へと誘った。何度となく私が書いた小説の舞台となった場所でもある。出会いと別れを繰り返してきた駅舎。しかし私の想い出は別なところにあった。

 母は私が二十歳の秋に亡くなった。成人式を終え、短大を卒業するのを見届けての死であった。母の死は私にとって、親は歳をとりいずれ亡くなるという当たり前の現実を衝撃的に突きつけてくれた出来事だった。その母の形見ともいうべき物がこの駅にあるのを教えてくれたのは、母を追うように亡くなった祖母であった。

 この時期一度は訪れてみたいそう思いながらもチャンスがなかった。それが今日実現するのだ。私は逸る気持ちを押さえながら、駅舎を横切りホームの見える場所に立った。屋根に止まっている雀達が「こっちよ」とばかりに鳴くと土手のほうに飛んでいった。雀を目で追っていた私は、うっそうと葉を広げ、大輪を咲かせている見事なつつじに目を見張った。つつじがまさに覆い被せるように駅を飲み込んでいた。私はもっと近くで見たいと思い、線路ぞいの小路を走り出した。陸橋にたどり着き振り返るとまさにそこはつつじの群生だった。

 この駅は住民が造った駅である。そしてつつじの株は当時皆が家庭から持ち寄って土手に植林したと訊いている。母が亡くなった年に、祖母はひと株のつつじをこの場所に密かに植えた。一人娘の死を哀れんでのことだった。この中に母のつつじがある。私は陸橋から身を乗り出し、その光景に見入った。しかし数千本のつつじの株はどう見ても一体にしか見えない。長い年月の間につつじの枝はスクラムを組み、地下を通っている根は、地上で一つに溶け込んだとしか思えなかった。

 朝日を浴びて電車が近づいてきた。急行電車「ひたち号」だった。私の立っている場所を通り過ぎるかと思ったら、電車は駅の手前で急に速度が遅くなった。「急行電車さえ止めてしまうつつじかな」と詠んだ人がいるがこのことかと思った。乗客が立ち上がり歓声を上げているのが見えた。カメラを向けている人もいる。私は少し誇らしげな気持ちになった。電車は乗客のため息を乗せ、徐々にスピードを上げていった。

 その時、電車の窓に一本の線が写し出された。まるでつつじの花で縫い上げた帯のようである。その線は電車の後方まで続いている。私はカメラを向けシャッターに手をかけた。けれどその手を止め電車を見送った。それは一枚の写真にするのにはあまりにも偉大すぎる光景だった。

 汽笛が力強く鳴り響いた。この中に母がいる。このつつじのじゅうたんこそ母なのだ。また来よう。会いたくなったらいつでも来れるのだから。それが故郷だから。私はカメラをバッグに入れると歩き出した。緑風が吹くとつつじの花が静かに揺れた。まるで子供をあやす母親のように・・・。

(記憶のページより S・K)


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